第五打席

 この日、仕事を終えた慎二は帰宅の用意をしていた。幸い、込み入った契約は先週までに済ませてある。手早く支度を済ませ、早足でドアの前まで向かう。

「すみません、先にあがります」

シンジが去っていくと、同僚が声をあげた。

「あら、シンジも家に誘おうと思ってたのに」

「無理だよ。今日のスタメン見たろ。あいつのフィアンセが出るからな」

「ハハハ、言ってやるなマイク。シンジはストレートだ。ハイスクール時代のガールフレンドとはまだ続いてるらしいぜ」

「そんな情報、どこで仕入れるのよ」

世田話に興じる同僚たちはふと慎二が使うデスクに目をやる。そこには一冊の本があった。

「まあそれは置いといて。彼ったら忘れ物してるわ。何の本かしら」

「これ、マネジメントじゃないの。マリー、あいつ転職でも考えてるのか」

「知らないわ。でも、スポーツ選手をあきらめてもその関係の仕事がしたい人って多いのよ」

「マリーってバスケ選手と付き合ってたよな。そういうクチ?」

「馬鹿ね。今はシンジくんの話してるの」

「シンジはそうだろうな。もしかしたら、ここにいてくれるのもそう長くないのかも」

同僚はその本と、早く帰るときの慎二の表情を思い返していた。

 道行く小走りの人たちに紛れ、慎二は家路を急いでいた。きっと皆、目的は同じなのだろう。マイナーのチームがあるこの地域には、野球ファンが多い。彼らが行く場所は、今日はスタジアムではなかった。

 テレビをつければ、すでに試合は四回。巨大なミラースタジアムを埋め尽くす観衆が見つめる先に、ケビンはいた。九月からは一軍登録人数が増え、文字通りの総力戦となる。負傷したスラッガーの代わりとして、彼は初めてメジャーの舞台で先発出場した。打順は五番、ポジションはファースト。

 相手の先発はパーキンソン。マイナー調整の甲斐あってその球は走っている。四回を無安打無四球に抑え、五回はケビンの打順だった。

 ボール先行でカウントが進んだ四球目、外角わずかに外れたカッターを、ケビンのバットが捉えた。電光掲示板がやかましく彩られるとき、自室にいる慎二は拳を突き上げていた。ダイヤモンドを駆ける、彼の友と同じように。

 そして、チームは勝った。ケビンは五打席二安打三打点の大活躍。メジャー昇格初戦としては、十分すぎる出来だった。ケビンはメジャーの配下におかれ、ミルウォーキーのホテル住まいとなった。当面はポストシーズン出場のための戦力として、出場機会を与えられるだろう。

 そうすれば会う機会もだんだんと減り、慎二の日課である走り込みもフォームチェックも、どこか空しさを孕むようになった。しかし慎二の中では、既に野球とのかかわり方は決めていた。自分は試合には出ないが、投げ続けたい。そう思えばこそ、今すべきことをしようと思った。

 しかし、ケビンの成績はとてもメジャーで定着できるというほどではない。守備の評価は高いものの、打撃は初対戦の投手に苦戦している。強豪チームゆえ試用期間を長くとってもらえるとしても、時間の問題だった。

 そのまま、チームは三位で試合を終了した。ポストシーズンは早期敗退で幕を下ろし、彼の出番は一打席もなかった。

 とは言え一軍支配下でシーズンを終えられた事実は大きい。年棒も増えるほか、キャンプで吸収できることもある。だがミルウォーキーに宿を取れば、サンアントニオに戻ることはなくなるだろう。慎二も数回電話を受けたのみで、それ以上のことはない。求められなければ、それまでのことだった。そしてまた、シーズンが始まる。ふたりは別々の時間を過ごし始めていた。

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