省
2日間とは、果てしない永遠なのかもしれない。そう感じるほど決行日までの時間を長く感じた。
仕事には、行けなかった。 誰にも今の様子を見られないように、郊外の宿を転々とした。ヒロコの事件で社内はまたしても騒然としているのだろう。それを正面から直視し、彼女の死を受け入れられるメンタルを、持ち合わせていなかったからだ。自分が殺したというのに。おかしな話だとは思うけれど。
常に「自殺」という選択肢が脳裏を駆け巡った。なぜ私はその日まで待たなくてはならないのか。身を焦がす焦燥のような罪悪感から逃れられるならばなんでもいい。早く楽になりたいと、何度も何度も。
それはいっそ衝動と言い換えても相違がないほどに、猛烈な熱量を持っていて。私の背中を何度も押して、行動へと突き動かそうとした。それでも私が命を断たなかったのは、皮肉なことに、ヒロコを手に掛けてしまっていたからだと思う。
私を心配してくれた友人。ともに戦ってくれていた戦友。気にかけてくれる恩人。
そんな彼女を殺した時の記憶は、実は鮮明にはないのだけれど、その事実が私に「苦しんでから死ぬべきだ」と猛烈に訴えかけていた。
その衝動を押さえ込むために、生まれて初めて自傷行為を経験した。どうしても耐えられない時、包丁がとても魅力的に見えるのだ。洗面台で手首に軽く刃を入れる。すうぅと赤い線が引かれ、そこからつぷつぷと滴が湧き出てくる。その光景は神秘的に見えた。私は生きているのだ。どうしようもなく、生きているのだという事実を眼前に突きつけられることで、私はようやく冷静になれるのだった。
まだ死ねない。20分ほど血を流し続けてから冷静になり、フラフラとする頭でそう考えていた。
薙羅からは、連絡が何度か入っていた。それを何度も無視することで要らぬ心配をかけてしまうのは、ヒロコのケースから学んだ教訓だ。「ウィルス性の病気らしくて隔離状態」「見舞いは要らない」と彼をなだめた。彼は最後のデートの時に私を訝しんだはずだ。その疑念を確信に変えてはいけない。そういう思いで冷や冷やしながら日々を過ごした。
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そうして迎えた決行日。私は遺書を認めていた。
「私は、罪を犯しました」
それが、書き出しの一文である。そこから私がこれまで犯した3つの罪を、それを起こした背景とともに簡素に記してある。それだけの、分量にしてしまえばたったの4行程度の言葉を連ねるのに、3時間を要した。思い出すたびにフラッシュバックと猛烈な吐き気に襲われ、何度も嘔吐した。そんな思いをしてまでもこの行為をやり遂げることに拘ったのは、この罪は私が死んでしまうことで完全犯罪と化してしまうからだ。そうなってしまえば遺族は恨む相手すらおらず、あるいは恨む相手を取り違えて一生を終えることになる。それは私の望む形ではない。
死んで尚、恨まれ続けよう──そこまでが、私のこの罪に対して下した回答なのである。
遺書を書き終えると、食事をした。とは言っても摂ったのはコンビニで購入したペペロンチーノ。最後の晩餐としてはやや味気なく思えるが、これから死ぬことがわかっていて豪勢な夕食を、というのもなんだか違う気がしたのだ。
こんな時でも腹は減っていたらしい。それほど時間もかけずにペペロンチーノを平らげたら、今度は風呂だ。手早くシャワーを浴びたのだが、昼間に切ったばかりの手首が、ひどく痛かった。涙が出るほどに。最初は痛みで流した涙だったはずだけれど、それは次の涙を呼んでくる。座り込んで、頭からシャワーを流しながら、一頻り泣いた。
風呂から出て、髪を乾かし、布団を敷いた。
横になる。
眠気はない。
時刻は午後10時過ぎ。寝るにはあまりにも早い時間だった。それでも目を瞑り続ける。時計の長針が動く音が、静寂の中に、まるで水面を揺らす滴のように落ち続けた。不快な感じがしなくもないが、それすら最後なのだと思うと、この時間を大事にしようと思えるから不思議だ。
そうしてどれだけ目を瞑り続けただろうか。しばらく触っていなかったスマホをタップすると、液晶には「1:23」の文字。一瞬スマホを見たことで薙羅に何かを残すべきか考えたが、万一それで起きて駆けつけられても厄介だ。そっと電源を落とす。
それにしてもいよいよラチがあかない。彼を待たせすぎるのもなんだと感じたので、むくりと身を起こす。電気を点けて、いざという時のために購入しておいた強めの睡眠薬を取り出し、水道水とともに飲み干した。
途端に来る眠気。酩酊。まぶたの重み。
私は倒れ込むように布団に沈んだ。
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「やぁ、遅かったね。と言うよりよく来れたね、が正解か」
言われて、これまでの2日間を思い出した。断片的にしか記憶はないし、説明するのも億劫だったので
「ごめんなさい。待たせすぎるのもよくないと、思ったんだけど」
とだけ返す。
「いや、いいさ。何せこれが最後なんだからね」
そう言うと少年は、微笑んだ。
「それより、死に支度はできたのかい?」
「えぇ、ちゃんと、できた」
「本当かい?それはよかった。それじゃあどうする?早速、始めるかい?」
彼は今すぐにでも儀式を始めんとばかりに指を鳴らそうとする。
「ちょっと待って。最後なんだし、少し話さない?」
少年は意外そうな表情をつくる。そして、破顔した。
「いいだろう。君はつくづく興味深い提案をする──で、何を話したいんだい?自分のこと?それとも家族のこと?それとも、罪のことかい?」
「あなたの話を、聞きたい」
「僕の、話?」
くすくす。
「いいよ。何が聞きたい?」
「あなたは一体何なの?」
「いきなり漠然とした問いだね。僕が何かと言われて一言で表すのもなかなか難しいけれど、人でないことは確かだね」
「人でない?では何でそんな見た目を?」
「それは、君たちが人間だからだよ。僕は君たちが見たいような姿に形成される。でも実態はそのどれでもないのさ」
「どういうこと?」
「人は物事を都合よく改変するのさ。見たいものを見たいようにしか見ない。それと一緒だよ。僕がもし汚く醜悪な見た目をしていたら、会話すらたくない、そうだろう?」
くすくす。
「なる、ほど。あの、ずっと気になっていたんだけど。さっきからずっと“君たち”って複数形で語っているわよね。今回みたいなことって初めてじゃないの?」
「あぁ、そうだ。これはこの世界にありふれている不思議のひとつでしかない。もっとも、ここまでひとりが長引くケースも、対話を試みられたケースもそう多くはないけれどね」
そこまで語って少年はポケットから懐中時計を取り出してわかりやすく「おっと」だなんて言ってみせる。
「そろそろ時間だ。それじゃあ儀式に入ろうか」
指をパチンと鳴らした。寝台が浮かび上がってくる。そこには、私がいた。
「苦労したよ。さっきは君を珍しいだなんて言ったけれど、この申し出は間違いなく君が初だ」
少年は場違いにも拍手をする。しかし私は私に見入っていた。ここまで私が再現されているだなんて、本当にあり得るのか。いや、再現なんて生優しいものではない。顔は鏡の前で幾度となく突き合わせたたもの。髪の長さもまったく同じ。胸も、背丈も、手首の傷も、すべてが同じ。胸に手を当てると、私と同じリズムで鼓動を刻んでいた。
これはまさしく私自身なのだ──そう実感せずにはいられなかった。
「驚いてくれているようだね。努力したかいがあったよ。それじゃあ、始めようか」
「え、何を……?」
少年は、眉を顰めて少しばかりの不機嫌さを滲ませる。
「何を、じゃあないだろう。殺すんだろう、君を、君自身が、君自身の手で」
そうか。私はこれを、殺さなくてはならないのか。
私は完全に怖気付いていた。
散々支度を進めておいて。散々罪を償うと誓っておいて。自分の姿を前にして、いざ殺すとなったときに私が真っ先に抱いたのは「死にたくない」という身勝手な願望だったのだ。これまで私が手にかけてきた人間も、きっと意識さえあればそうだったに違いない。それを私が、殺した。
「ううううぁ、ぅあああ────」
涙が溢れて、しょうがなかった。建前も何もない。あるのは本質的な恐怖だけ。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!!!
それを鎮めたのは、少年のどす黒い声だった。
「いい加減にしろよ」
その声は、これまで聞いた誰のどの声よりも悪意に満ちていた。
「お前が選んだんだろうが。お前が罪の重さに耐えられねぇから自分を殺したいって言ったんだろうが。じゃあ、殺せよ。早く、殺してみろよ」
涙がスッと引いていくのを感じた。死ぬのより、この少年を怒らせる方が怖いと本能が言っていた。
「わ、わかりました。殺します」
声は震えていた。急いで立ち上がる。私と向き合った。もうそれは早く達成しなければならないミッションくらいにしか思えなくなっていた。早く殺さなきゃ。何をされるかわからない。
私はようやく自らの首に両手をかける。
「そう、それでいいんだよ。偉い、偉い」
その声には先ほどの剣呑さは混じっていなかったが、それが却って怖い。段々と、これまで殺った時のように力を込めていく。
──と、そこで急に背中に大きな衝撃を感じる。
「えっ──」
私は思わず素っ頓狂な声を上げて、両手を離してしまう。何が起こっているのだろう。背中に暖かい感覚。抱きつかれたのだと知覚する。すごく安心した。苦しくない。嬉しい。愛しい、香りがした。
「もう、やめよう。やめていいんだよ
そこには、私の名を呼ぶ薙羅がいた。
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