希
つまりは、そういう話。
破綻者の、転落話でしかなかったのだ。
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ヒロコを殺害した翌日の夜、私は薙羅とデートをした。随分と久しぶりな気がする。仕事がとにかく忙しかったし、前回の休日は美月との対決で消化してしまったからだ。
「久しぶり……って社内では顔を合わせているんだけどね」
言いながら、集合に5分遅れていった私を咎めるでもなく、薙羅は私の手を取る。彼はこういうことが自然にできる男だった。顔を覗き込むと、「どうしたの」なんて
思う……?驚いた。感情が、一枚膜を隔てたようにしか感じられなくなっている。罪悪感、とは違う。ただ、自分が幸せを感じるのを脳がせき止めているようだった。
そんな私を気遣ってか、薙羅は前を向いてから言った。
「なんだかいろいろあったけどさ、今日は全部忘れて楽しもうよ」
「そうね。暗くなってばかりいても、しょうがないものね」
半分は薙羅に、もう半分は自分自身に言い聞かせて、手に込める力を強くした。
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「ここ、前から行きたいと思っていた店なんだよ」
シックな内装に、アンティークと思しき調度品が目立たないように配置された店内。あまり派手を好まない薙羅が選びそうな店だと感じた。メニューの装丁も凝っていて、何かの魔導書のよう。遊び心を感じるデザインだった。
そんな風にまず店を見回している私を尻目に、薙羅はウェイターを呼んで「オススメのワインを一本お願いします」と頼んでいる。デートではお馴染みの流れだ。
魔導書を開くと、そこには筆記体でずらりと料理名が並ぶ(もちろんその下には日本語でも料理名が書いてあるのだが)。肉料理や魚料理、パスタに、ピザ、グラタンなど、イタリアンを中心としたメニューから、私たちは12種の野菜のサラダ、牛肉の香草焼きと、ほうれん草とクリームソースのニョッキを注文する。
まず、ワインが到着した。ウェイターがグラスに注ぐと、現れるのは鮮やかな薄紫。鼻先に近づけると、ブドウの他にほのかに甘ったるい果物の香りがする。薙羅に尋ねると、少しばかりマンゴーの果汁も混ざっているとのこと。それほどワインが大好き!という訳でもない私に配慮したチョイスだった。飲み口も非常に軽快で爽やかだ。
「美味しい」
「だね。あんまり最近酒飲んでなかったから、飲みやすいやつを頼んだんだ」
思い返してみると、私も最近酒を飲んでいなかった。久々に体内に侵略したアルコールは、じんわりと腹を温める。
それから程なくして、料理も順々に運ばれてきた。
美味しそうな湯気を上げる料理を一口ずつ口に運びながら、私たちは他愛のない話をする。昨日見たテレビの話。道を歩いていたら黒猫が前を通り過ぎて不吉だった話。うまく緑茶を淹れられた話。嬉しい話からガッカリした話まで、私たちは不足していた時間を補うように言葉を交わした。
2時間ほどが経って、追加注文のデザートを待ちながら、ワインの最後の一口を呑み下した頃。薙羅は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら、聞いてきた。
「ねぇ、何か困ったこととかない?」
困ったこと。あるに決まっている。言ってしまいたい。すべてを薙羅にぶちまけて、楽になってしまいたい──。
アルコールが程よく回っていることもあり、そんな短絡的な思考ばかりが泡のように湧いては弾ける。けれど、それは許されることではない。ここまで来てしまったのだから。もう引き返せやしない。そんな段階で薙羅に真実を打ち明けることは、他ならぬ彼を巻き込むことでしかないのだ。
それは、嫌だ。
これは私の罪だ。私が犯した過ちなのだ。
「ないよ。大丈夫。仕事も最近は大変じゃないし──」
そう言ったところで、彼の手が私の両頬を包んだ。「何!?」と反射的に声が出るより早く、眦から頬にかけて、暖かい線が通っていることに気付く。それは、涙の跡だった。私は、泣いていたのだ。
冷え切っていたと思っていた私の心は、アルコールに浮かされて、確かな形を帯びていた。「悲しい」素直にそう思った。
「ごめん」
とだけ告げて、私はトイレへ向かう。今ここに居てはならない。ここに居たら、私はすべてを吐露してしまう──そんな確信だけが胸を衝いて、足を動かした。
運よくひとつ空いていた個室に入り、鍵をかけてから、声を殺して泣いた。
「ごめんなさい」が心を占めている。最初から間違っていた。私が悪い。ヒロコをなぜ殺してしまったの!?いや、美月すら殺すべきではなかった。南ちゃんの泣き顔が浮かぶ。坂田ちゃんの寂しそうな顔。骨皮の元々死人のようだった人相。人の顔。骸骨。表情。死。苦しみ。無表情。
私は驚くことに、3人を殺してようやく初めてフラッシュバックを経験したのである。
人を殺した実感を、人を殺してしまった悲しみを知ったのである。
気が狂ってしまいそうだった。手にグルグルとトイレットペーパーを巻きつけて、それを必死で噛み続けた。汚いだなんて思わない。そうしていないと、叫んで、舌を噛み切って、死んでしまいかねないと、本気で思った。
そんな時間がどれだけ続いただろう。ようやく涙もなんとか止まり、心も少しは落ち着いた。あぁ、薙羅を待たせている。戻らないと。
着衣の乱れを簡単に直して、席に戻ると、薙羅は眉を顰めて心配そうな表情をつくっていた。なんだか、餌をもらえなかった犬みたいだな、と場違いにも少し笑ってしまいそうになる。
そして、何かを口にしようとした薙羅の言葉を手で制して、私は小声で言った。
「何も聞かないで、抱いて」
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これまでの人生の中で、最高のセックスだった。
試験中に見るドラマが一番おもしろく観れるように、仕事がある時に逃げ出すように寝てしまうのが一番気持ちがいいように。逃避はもしかすると、最良のスパイスなのかもしれないな、と、未だ余韻の残る頭でぼんやりと考えた。
薙羅を見る。まだ彼も起きている。何も聞いてくることはなかった。しかし、ただただ私を強く抱きしめた。もしかしたら、もうほとんど何かを悟っているのかもしれない。それでいて、私を甘やかしてくれたのかも。そんな妄想すら、本当でも嘘でもどちらでもいいことのように思えた。
だって、これで最後なのだから。最後くらい、わがままを言いたかったのだ。そして、それが叶えられたのなら、真実などどうでもいい。
「ねぇ」
「何」
「ありがとう」
目を閉じる。薙羅の心音が聞こえた。それは私をひどく安心させ、眠りに誘う。
「おやすみ」
薙羅がそれに対して返事をしてくれたかは、わからない。すべてを終わらせるために、私は眠った。
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「どうしたんだい?随分と憔悴しているようじゃないか」
白い部屋、原色の少年。
私は答えない。
「それも無理ない話、か。君は親友を手にかけた。ナイフで何度も刺して殺したのだから。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も」
「やめて」
少年は、紅い三日月のような笑みを引っ込める。
「もう、終わりにしたいの」
「終わりにしたいって?」
「私はもう、無理なの。これから、どうやって生きていったらいいのかも、何もわからなくなっちゃった」
「あんなに人を楽しそうに、殺しておいて?」
「だからこそよ。こんなのおかしいのよ。おかしいって、気付いたの。きっと、骨皮を殺した時点で手遅れだった。でも、せめてその時点で何かを考えるべきだった。それすらしてこなかった。流されるままに人を殺して、仮初の平穏を手にして、安穏と、安穏と……」
「そうか、つまり君は、罪の重さに耐えられなくなってしまった、と。それで?終わらせたいとは具体的にどうするつもりなんだい?」
「私に、私を殺させて。最後に、今まで殺してきた人たちと同じ気持ちを味わって、死にたい」
「……なるほど。そう言い出したのは、君が初めてだよ。だけれど、残念でならないね」
「残念?」
「そうさ。君には素質があると思っていたからね。殺人者の素質が。願わくば、もう少し人を殺め続けて欲しいものだったけれど」
「あんた、おかしいわよ……」
「それはそうさ。僕は君たちとは本質的に違う存在だからね。おかしくて、普通さ」
つまらない冗談を口にして、ケタケタと笑う。かつては快いとすら思っていたその仕草が、どこか人間離れした無機質なものに思えて仕方なかった。まるで、無理矢理人間の真似事をしているような。そんな風にすら思った。
「まぁ、いいだろう。君の最後の──もとい、最期の願いだ。叶えてあげるのも
「ありがとう」
「ただ、自らで自らを殺すための準備は、単なる殺人よりも面倒なんだ。だから、準備には2日貰いたい。いつもの倍だ。だけれどこれでも最大限に努力している方だから了承して欲しいね」
「いいよ、わかった。お願いを聞いてもらえるだけでありがたいもの」
「そいつは重畳。それじゃあ早速支度を始めよう」
少年の言葉が終わるや否や、白い空間はいつもと同様に剥がれ始める。この光景を見られるのも最後かもしれない。そう思うと感慨深くもある気がする。そう思いを馳せていると、少年は「ああ、そう言えば」とわざとらしく振り返る。
「罪を自覚してからの日常は、想像以上に地獄だ。ゆめゆめ、“儀式”の前に自ら命を絶つ選択をしてしまわないことを、願っているよ」
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目を覚ますと、既に朝日が部屋に差し込んでいた。
彼の腕から抜けて、窓を開ける。
この上ない晴天だ。
最低な、朝だった。
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