友
虫のいい話だと思う。
ここまでの罪を犯しながらも、まだ救われたい。助かりたいと思っているだから。
自覚していた。私はもうすぐ壊れてしまうのだと。もっとも、ここまでのことをしておきながら、既に壊れていないことが私の異常さの証明にもなってしまっているのだろうが。
賽を振り続ける。6の目が出ると信じて。その賽に6の目が元々ないことくらい、わかっていたけれど。
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ホテルから出社すると、またしても社内はざわついていた。以前に比べて騒ぎになるのが随分と早いな、と感じる。最早誰もが仕事をしておらず、テレビに群がっている。
「おはよ」
ヒロコが話しかけてくる。その声はかなり抑えられており、何というか、元気のない感じだった。
「美月さん、死んじゃったんだって」
「え……嘘でしょ……」
「何だか、一緒に住んでいた男の人にさんざっぱら暴力振るわれて死んじゃったんだと」
昨日の凶行が、脳裏を過ぎる。都合の良い形──今回は、私の暴力がそのまま彼女と寝ていた男の凶行へと転嫁されたということなのだろう。
と、いうか──
「え、一緒に住んでいた男の人って?」
「どうやら薙羅くんじゃなくて、もうひとり誰かいらっしゃったみたいよ。ニュースじゃあ、別れ話がもつれてこうなったんじゃないかって」
「うへー。それはまた迷惑な話というか……。私としては複雑な話だけれど」
「そうよね。でも、ね」
少しばかり緩まった空気を引き締めるようにヒロコは一拍置いて、声のトーンを下げて口にした。
「不思議なことに、ふたりが住んでいた部屋からは物音ひとつしなかったんだって。相当アパートの部屋の壁は薄かったらしいのに。殺されるほどの暴行をされて。そんなことあるのかしらね。それでその恋人?同居人?は『一緒に眠った。その時には何もなかったのに朝起きると顔面が血塗れで死んでいて、通報した』って。帰ってきたのはアパートの住民の証言で確かみたいだし。だけど、殴打された拳の跡と彼の拳の大きさはピタリと一致。いろいろおかしな話じゃない?」
言葉を失った。私の暴力は確かに作用していた。それそのものを消してくれるとばかり思っていたのに。中途半端な形で、怪事件として注目されるような形で結果が残っているのだ。
「それは、本当に不思議な話ね。ごめん、ちょっと私もニュース見てくる」
「うん、いってらー」
動転していた私は、そうして逃げ出すのが精一杯だった。
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骨皮に次いで社内でふたり目の殺人被害者が出たということで、疑惑の目は社内にも及んだ。ワイドショーは骨皮の事件も引っ張り出してきておもしろおかしく今回の事件を報じている。
どれもが見当違いな論ばかりではあるが、さまざまな肩書きを持った有識者たちはこの事件がいかに重大なことであるか、会社は何をしていたのか、はたまたその恋愛関係について厳しい顔で議論を交わしている。正解はきっと何でも良い。ただお茶の間で「これどうなのかしら」「やばいね」と共有できる話題を提供できれば。
ただ、当然ながら社名まで報じられてしまったために株価は大きく暴落。警察の捜査も入り、仕事どころではない一日になってしまった。
一人ひとりが事情聴取を受ける中で、私も取り調べを受けた。しかしそれはあまりにもあっさりとしたもので、拍子抜けした。以前取り調べをされた安田という刑事が一際鋭い男だっただけなのだろうか。今回は美月の恋人?が際たる容疑者として見られていることもあり、手続き上の確認的な意味合いが大きいのかもしれない。
何にせよ、私にとってはありがたいことではあった。そういった意味では、あの中途半端な殺人の隠し方も、少年なりの策略であり、気遣いだったのだろう。
「本当に、まさかでしたよ……」
そんな慌ただしく忙しない1日の中で唯一一息つけた昼休み。南ちゃんは溜息を吐きながら呟く。目元は真っ赤に腫れていて、友達のために泣きじゃくっていたのだと容易に想像できた。
「まさかでした。美月が死んじゃったことも、相手が薙羅さんじゃなかったことも……」
震える声で言う彼女の姿は怯えた小動物を思わせる。私とヒロコは彼女の頭を優しく撫で、お互い目を見合わせて苦笑いをした。もうひとりの坂田ちゃんはと言えば、所在なさげにお弁当を突いていた。
「すいません、昔から美月あんまり男癖はよくなくて、でも二股してるなんて……っていうか殺されるなんて思ってなくてぇ……」
南ちゃんはまだ内心の整理がついていないのだろう。途中から話の脈絡がなくなっている。そして、啜り泣きを初めてしまった。「二股じゃなくて私が付き合っているんだけれど」などと間違っても口にできる空気ではないことくらいわかる。かといって何を言っていいのかわからず口籠っていると、坂田ちゃんが冷めた口調で言った。
「本当に、どうなるんでしょうね。この会社、呪われているんですかね。ふたりも殺されちゃって」
少しでも空気を変えようと、ヒロコもその話題に乗っかる。
「そうよね。正直、少し怖いな、とは思った。かといって今すぐどうこうって訳ではないんだけど」
「私、実家帰ろうかなと思うんです。やっぱり悪い流れとか気みたいなのってありそうで。元々家継げってうるさい家で、反発して出てきたんですけど、ここらが潮時かなって」
確かに、それは理解のできる話だった。こんな異常なことが偶然に2度も重なれば、そこで働いていたくないと思うのは普通の感性かもしれない。
もっとも、その原因をつくった私には何も言えない話だった。
隣では南ちゃんが「いやだー、美月だけじゃなくて坂田ちゃんまでいなくなったらどうすればいいのー」と啜り泣きから本格的な“泣き”にシフトし始めている。
「ごめんね。でも、それこそ生きてればまた会えるからさ」
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そう考えていたのは、坂田ちゃんだけではなかったようで、社内の4分の1ほどの人間が転職を考えているのだという噂が、社内を巡っていた。
恐怖心も一因だろうが、この事件によって会社のブランドが損なわれ、収益も落ちることが見込まれるため、その判断は一概に否定できるものではないように思う。ただ、それを引き起こしたのは私だ。私は最後までこの船を降りない覚悟をしていた。
ただ、ヒロコは違う。
「ねぇ、ヒロコはどう考えているの」
仕事の遅れは私たちのような中間層にしわ寄せされる。画面を見たままで私はヒロコに語りかける。
「どうもこうも、やめるつもりはないわよ。やめろって言われたら逆らえないだろうけど」
軽口のように笑い飛ばす。ただ、それは考えなしという訳ではなく、なにがしかの信念に基づいた回答に思えた。だから、
「何で?」
「何でって──あんたがいるからよ」
「──ケホケホっ、それって、どう、いう」
予想外の返事に、私はちょうど口にしていたコーヒーを気管に入れてむせてしまう。「何その恥ずかしい理由!よく臆面もなく言えるわね!」そう言う前に、
「ちょっと、屋上、行かない?」
そのあまりにも真剣な眼差しに、私は笑みを引っ込めて頷く他なかった。
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社内にまだ数人働いている社員はいたが、彼ら・彼女らもいち早く帰りたいに違いない。連れ立ってフロアを出る私たちに気を留めることはなかった。
自販機で暖かいコーヒーをそれぞれ購入する。フロアを出て屋上にたどり着くまでの間、ヒロコは一言も口を利かなかった。いつもおしゃべりなヒロコが、だ。嫌な予感がした。何か重大な契機がこのあと訪れるのだろうと考えてしまって仕方がなかった。
階段をのぼり、屋上に出ると、風が吹き荒んでいた。制服にカーディガン一枚を羽織ってきたのみの軽装には、とても堪える。もう一枚来てくるべきだっただろうか。
ふたりして身震いをして笑いながら、フェンスまで歩いて、もたれかかる。カシャンという音が、夜の帳に響いた。コーヒーのプルタブを親指で持ち上げ、缶を合わせる。安っぽくも温かい、苦い空気を鼻腔から吸い込むと、まだ仕事は残っているけれど達成感みたいなものがこみ上げる。
喉を鳴らして、コーヒーを呑み下す。そのタイミングで、ヒロコが口を開いた。
「懐かしくない?確か新入社員の時、よくこうして屋上で仕事の愚痴とか言い合ったわよね」
「そうね。もう最近は慣れちゃって、愚痴を言うことすらなくなっちゃったけど」
「愚痴を言うべきことなんて、死ぬほどあるのに!今日だってそうよ!明日が休みじゃなかったら、発狂してたわ!」
そう言うとヒロコは夜景に向かって「忙しすぎるー!」と叫ぶ。その様子がなんだかおかしくって、私も「早く帰らせろー!」と思わず一緒になって叫んだ。そうだ、私たちは戦友なのだ。ふたりで肩を震わせて一頻り笑い終えた頃には、屋上にたどり着くまでに感じた不安は、払拭されていた。
しかし、その直後だった。
「ねぇ、何か隠していること、ない?」
脈絡なく、ヒロコが問いかけてきた。隠していること──とは。
何だろう。心当たりが多すぎて、何を指しているのだろうか。
「隠していることって、なんで?」
「おかしいなって、思っちゃって。ひとつは、骨皮さんの事件。事件の直後に『もしかしたらストーカーされてたんじゃないか』って話をしたじゃない。骨皮さんがあんたに向ける視線はおかしかったし、あんたも憔悴しているようだった。でもその直後にあんなことが起こって。不謹慎かもしれないけど、よかったのかもって思ったのよ。もしこれ以上長引いていたら、私がなんとか──できるかわからないけどなんとかしたいなって思っていた矢先だったから。でも、今回の事件があって、それはもしかしたら偶然じゃないかなって思ったの」
「待って待って待って!いきなりなんの話かわかんない!」
寝耳に水だった。ヒロコは、勘付いている。先を言わせてはならないと思った。なんとかしてこの話を打ち切りたいと思った。だけれど、ヒロコは優しげに笑うだけで、話を止めない。
「今回もそう。あんた、嘘ついたでしょ。美月と、絶対うまくいかなかったよね」
「それは──」
「わかるよ。長い付き合いだもの。言いたくなかったのもわかる。もし、それで何も起こらなかったら、これで良いと思ったの。でも、事件が、起こった。正直、警察でもわからない事件のことは私にはわからない。証拠は、美月の男が殺したって指し示している。それでもこう思わずにはいられなかったの。あんたが、このふたつの事件に関わっているんじゃないかなって。私は、あなたのことはわかっているつもりだから」
何を言ったら良いのか、もうわからなかった。ここまでヒロコが私のことを考えてくれていたこと。そして、そこまで事件に対して真剣に考え続けていたこと。そのどちらもが私にとって予想外であり、嬉しいことでもあり何より──疎ましく思えた。
ヒロコさえ気付かなければ、この事件が露見する可能性はゼロだ。ここさえ誤魔化し切れば──。
くそ!なぜ美月のことも、骨皮のことも彼女に相談してしまったんだろう。それさえしなければ、せめてどちらかだけだったなら、点と点がつながることはなかっただろうに。
グルグルと思考が回る。後悔と諦念、そして遣る瀬無い怒りにも似た感情が渦巻いていた。ヒロコの気遣わしそうな表情が目に入る。彼女は、とても自分を心配してくれているのだとわかる。だけれど、その好意こそが、今私にとって最も大きな壁となって立ちはだかっているのだった。
「ねぇ、自首、しよ。あんた、最近苦しそうだったもん。嘘つくのって辛いし、隠しておくのって辛いよ。荷物を、降ろそうよ」
最近、苦しそうだった……?何かがぷつんといったのを聞いた。
「……苦しくなんて、ない。辛くなんて、ない!ヒロコ、心配してくれるのは嬉しい。ありがとう。だけど、あんたは私を勘違いしている。私は、今とっても幸せなの。だから、このままで良いの。それにそもそも、私は何もしていない!」
「そんなこと──」
「何もしていない!!!!……ごめん。大声出して。でも、本当に違うのよ。偶然私の嫌いな人がふたり死んだだけ。それだけ。タイミングが良いなとは私も思ったよ。でも、本当に偶然なの」
「そ……っかぁ……」
ヒロコは、悲しそうな表情で、俯いた。「もう何を言っても聞いてくれないのだろう」そう悟ったかのような顔だった。彼女は、諦めたのだ。私を説得することを。しかしそれは、私を疑うことを止めたということではない。
「戻ろっか」
私は先に屋上を出た。
その翌日、私は夢の中でヒロコを殺した。
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