引き金を引くことは容易だった。


とても、軽い。けれど、重い。


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翌朝、午前7時。いつもの起床時間より1時間より早く、晴れやかな気持ちで目が覚めた。憑物が落ちたというか、憂いが一切としてなくなったからだ。


あの女を殺してしまえばすべて解決する、ただそれだけの話だったのだ。そう気付くと、今日の夜が楽しみでならなくて、気持ちが急いてしまう。いけないいけない。証拠が残らないとはいえ、あまりに浮かれていると何事かと思われてしまう。とくに事情を知っているヒロコは訝しむだろう。


……と、そこでヒロコにLINEの返信をしていないことを思い出す。スマホを見ると、「大丈夫?」「何かあった?」などの心配したようなメッセージが並んでいる。慌てて「ごめん寝てた……」「大丈夫、なんとかなった」「心配かけてごめんね」のメッセージとスタンプを送る。


「ヒロコにはちゃんと話さないといけないんだろうな」


戦友、もとい親友を騙すのは心苦しいが、仕方がなかろう。第一、「夢で行った殺人が現実のものになり、それによってあの女を殺せるから上機嫌なのだ」と言ったところで信じてもらえる可能性の方が小さい。それどころか、とうとう気が狂ってしまったのだと思われるのが関の山だろうから。


しかし、そんなことは昨日まで抱いていた憂鬱に比べたらさしたる問題ではない。「よし!」布団の上で両頬を叩き、立ち上がる。折角早く起きたのだから朝食は凝ったものをつくろうと思い立ったのだ。


布団から這い出して、冷蔵庫の中身を物色する。入っているのは卵と、賞味期限切れの食パンが二切れ、そしてベーコンとヨーグルト、牛乳。なんとも色気のない……。だが、フレンチトーストがつくれる!


普段しないエプロンまでして、私は台所に向かう。


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少し早めに出社して、パソコンと向き合っていると、ヒロコが定刻ちょうどに出社してきた。「おはようございます」の声と少しばかり慌ただしい音で彼女がこちらへ向かってきたことはわかったが、わざわざ自分から振り返るのもなんなので画面を見つめる。もっとも、内容はあまり頭に入ってこないけれど。そんな私の肩をヒロコが軽く揺さぶる。


「ねぇ、ちょっと──仕事のことで相談があるから自販機行かない?」


周囲の社員の心証も考えてのことだろう。「コイバナしたいから」などと言うわけにもいかず、小声でささやいて自販機のある休憩スペースを顎でしゃくってみせた。出社直後に休憩室へふたり連れ立っていくのはなんとなく気が咎めるが、他の社員もやっていない訳ではない。軽く頷いて席を立つ。


「ねぇ、どうなったのよ、実際」


あたりに誰もいないこともあり、待ちきれないという様子で自販機でコーヒーを購入しながら、ヒロコが訪ねてくる。


「そうね。大丈夫だった」


「大丈夫だったって──もう、もっと具体的に言いなさいよ!」


「美月さんはすごく物わかりがいい人だったってことよ」


「じゃあ、わかってもらえたんだ」


彼女との交渉はつつがなく済んだのだ。そう嘘をくのだと、家を出る前に散々悩んで決めた。そうした方が殺害後も怪しまれないと思ったし、何よりこの晴々とした表情を隠さずに済む。


死人に口無し。


交渉の相手である美月は今日の夜私が殺すことになっている。となれば、私が真実を口にする以外にその嘘は露見しないだろうから。私が薙羅と付き合っているのが真実であると昨日美月は確信したような表情を浮かべた。その上で、昨日のいざこざを社内に言って回るメリットもないはずだ。


「うん。ごめんね、心配かけて」


「もう!そう思うなら早く連絡しなさいっての!めちゃくちゃ心配したんだからね!」


そう言って拳を掲げるヒロコにグータッチする。少しばかり胸がチクリと痛んだが、仕方がない。仕方がないのだと、自分に言い聞かせた。


---


正直なところ、気が散って仕方がなかった。


そもそも殺人を夜に行うことがわかっていて、ルーチンワークにしっかり身を入れることは可能なのだろうかと思う。骨皮の時は、精神が磨耗していたからそこまで浮ついた気持ちにならなかったから平常運転だった。しかし、今回は違う。私の敵を粛清するためになたを振るうのだ。愉悦に近しい感情が臓腑ぞうふを巡るのを感じる。倫理的に正しくないことだとはわかっている。殺しを楽しみだと思ってしまうのは、どう考えてもおかしい。だけれど、だけれど。


彼女ばかりは私自らぐちゃぐちゃにしてやりたいと思ってしまう。泥棒猫。アバズレ。腐れ売女ばいた。昨日の布団の中でぐるぐると回っていた言葉が私の鼓動を早くする。


そんな気持ちでパソコンを眺めていると、彼女の姿が目に入った。同僚と楽しげに会話をしながら、手洗いに向かっているようだ。パソコンの横からそんな彼女の様子を眺めていると、彼女も私を視認する。


そして、笑みを浮かべた。それは正しく勝ち誇った笑みだった。


私も、笑みを浮かべる。勝ち誇っていればいい。今だけ、勝った気になっていればいい。そう思えば彼女をひどく憐れに思うことができ、大変に愉快だった。


そんな表情に、彼女の眉は怪訝さを表現した。「なぜ昨日あそこまで叩き潰したのに、そんなに穏やかな表情ができるのか」と不思議に違いない。


それが──その一瞬が、彼女の姿を現実で見た最後だった。


---


夜。白い部屋。ことわりを違えた空間。


意識が明白になるにつれて、ようやっと寝付けたのだと気付く。覚醒を以て入眠を知るというのは、なんだか不思議な感じがするが、それにももう慣れてしまった。


「やぁ、来たね」


派手髪の少年が言う。頬にはいつも通りの穏やかな笑みが張り付いている。


「えぇ」


「今日はどうだった?楽しかったかい?」


「……全然仕事に集中できなかったわ。おかげで久しぶりにホテルに泊まることになったわよ」


「それは災難。……でも、それにしては愉快に見えるけれど」


言われて、気付く。私の口角は釣り上がり、口は薄い三日月の形をしていた。その隙間からは隠し切れぬ興奮が漏れ出している。呼吸に温度を感じた。まるで内なる憎悪が煮えたぎっているようにそれは熱く、鋭い。


ただ、その興奮をそのまま肯定してしまうのはなんとなく図星を刺されたようで悔しいので、「別に」と小声で返す。


その声をかき消すように、少年は手を「パン!」と打ち鳴らした。


「まぁ、これから人を殺すというのにまったくいつもと同じ様子な方が気持ちが悪いさ。それじゃあ早速、取り掛かろう」


指の鳴る音。儀式の合図。呼び水。


白い寝台に載せられた美月が現れた。


その姿に、かつての骨皮が重なる。私はまたここに来てしまった。同じことを繰り返すために──そんな苦い後悔が鎌首をもたげる。しかし、それも一瞬のこと。


一歩一歩慎重に美月の横たわる寝台に歩を進めていく。


ひた、ひた、ひた、と。自分の足音と心音がやけに鼓膜を震わせた。


その一歩ごとに赤い感情が胸内を渦巻いていくのを感じる。そして、彼女に手を触れられる距離にまでたどり着く頃には、既に後悔などなく、目の前の憎い敵をいかにして調理してやろうかという残酷な気持ち以外、消え失せていた。


そして、彼女の首に手を伸ば──


「そうだ、言い忘れていたことなんだけれど」


「何?」


動きを止めて、返事ができた自分を褒めてあげたい。はやく殺したい早く殺したい。はやく殺したいのだから。はやくはやくはやく。


「前回は絞首という手段でしか殺せなかった訳だけれど、今回はどんな殺し方でもいいという話だ」


そう言うと、少年の背後に拳銃やら刀、果てはロケットランチャーまでさまざまな武器の揃った大きな棚?が生じる。


「1度目は殺人が何たるかを知ってもらうために絞首のみという縛りがあった訳だけれど、今回からは手段を問うことはしない。生々しさを感じながら殺すのも気分が悪いだろうし」


「いい」


「いい、とは?」


「手で、いい」


悩むことすらなかった。前回の殺人からこれまで骨皮を思い出すことはほとんどなかった。あったとしても、殺人が露見しないかとかそういったことのみだった。ならば、殺す瞬間くらいは存分に彼女を感じてやろうではないか。それがいい。それが一番心地がいい。


「ふはっ、本当に君はおもしろい。こればかりは予想外だったよ。わかった。水を差して悪かったね。それじゃあ、続きをどうぞ」


セリフの後半は、耳に入ってこそすれ、あまりわかっていなかった。関心が美月に向いていたからだ。程よい肉付きの肢体を一頻り眺めて、均整の取れた顔に視線を移す。勝気な眉。私を侮辱した口。勝ち誇ったように上がった頬。醜い。醜い。見ていたくない!


私は拳を彼女の顔面に振り下ろす。めきゃという鼻の骨が潰れる音と同時に、自分の拳に痛みが走る。「夢なのに痛いの?」と思いながら拳を見ると、彼女の鼻血がべとりと張り付いていた。その紅に、私の気分はさらに高揚した。


2度、3度、4度……


数え切れないほど彼女の顔面を殴打し、やがて元々の美しさの原型がなくなる頃。私は一度大きな深呼吸をしてから血塗れの拳を開き、そのまま掌をほっそりとした首筋にあてがう。ここまで、血を流す以外の反応がなかったというのに、首筋の血管はドクドクと脈打ち、生を主張した。


今から私は彼女の命を奪うのだ。


その事実をあらためて実感する。手に込める力を次第に強くしていく。


「あなたが悪い」「私は悪くない」「あなたが余計なことをしたから」「私を傷つけたから」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「私は悪くない」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「私は悪くない」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「めちゃくちゃに」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが」「あなたが!!!!!!!!」


言い訳めいた言葉が、口から際限なく溢れていく。それすら億劫になると、「死ね」という言葉が口を衝いて出た。一度出たその言葉は、もう引っ込んでくれない。頭の中で赤が明滅する中で私は「死ね」と連呼しながら、彼女の命を奪い続けた。


彼女はおよそもう生きていないだろうと確信を持てたのは、果たして何分、何十分が経った頃だろう。首から一本ずつ、指を剥がす。手に力が入らなかった。涙が止まらなかった。「私は何をしていたんだろう」という虚無感に苛まれ、胸を掻き毟りたい衝動に駆られた。


そんな私の肩が2度叩かれる。すると少年が柔らかく微笑み、私を抱きとめた。


「大丈夫、大丈夫ですから」


太陽みたいな匂いがした。たっぷりとお日様を浴びせた後の布団のような匂いが、場違いにも薫った。すると、先ほどまでの焦燥は嘘みたいに消え失せ、何かを達成したのだという満足感に変わる。


「私はやり遂げた」


「うん」


「これで、敵はいなくなった」


「うん」


「もう、戦わなくていいの……?」


白い光が、この夜の終わりを告げていた。


少年は、何も答えなかった。






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