「辛いに1を足すと幸せ」なのだという主張を、素直に飲み込めた試しがなかった。辛いことを抜けたら、今度は苦しいことが待っているというのは、これまでの人生で嫌というほど知った。


1足す1は2。それは幸不幸の計算においても不変の原理だ。辛いに1を足したところで、結果は二重苦でしかないのである。


愚かだと思う。


その計算式を破壊するために私は夢にすがった。だけれど、それすら計算式のうちだとでも言うように、憂鬱は次から次へとやってくるのだから。


---


ヒロコにすべてを打ち明けた夜から、程なくして美月の連絡先を手に入れた。さすがはヒロコだ、こういう仕事は早い。


だが、どう切り出したものか、だった。唐突に面識のない先輩社員、それも部署すら違う人間からメールが来たところで、おかしいやつだと思われてしまいかねない。そんなこんなで文面を考えるのに2日を要して(平日に会社で話す内容でもないから週末を待っていたこともある)、ようやく彼女とのアポイントメントを取り付けることができた。


ヒロコにも意見を聞きつつ、「結局はシンプルに用件を伝えて、それに対して直接会って話をするしかないだろう」ということで、薙羅の名前も出した。私が付き合っていることは伏せつつ。とはいえなんとはなしに察するだろうし、恐らく彼女にも心当たりがあるのだろう(というか、あってくれないと困るところだが)。送信から2時間ほどで「わかりました。いつ空いていますか?」という簡素な文面が返ってきた。この文面から、やや彼女の気の強さというか、たじろいでいないのだという主張が透けて見えるようで、計画通りにことが進んでいるはずなのに陰鬱な心持ちになってしまう。


いや、今からこんなに弱気でどうする!そう心の中でやけくそ気味に自分を叱咤しながらスマホの鍵盤を叩いた。そうして決戦の日は日曜に決まった。


迎えた日曜日。嫌味かと言うほどに晴れ渡る快晴の中、私は美月と会った。


彼女は、綺麗だった。制服を着ていて、地味なメイクで働いていると気付かなかったが、パンツルックで、目元をくっきりさせ、艶やかなリップを施すと、とても色っぽい「大人の女」という言葉がピタリときてしまう美人なのだと知らしめられる。スタイルもいい。


対照的に私は普通の服に普通のメイクに普通の顔に普通のスタイル。「敗北感」の3文字が脳裏に浮かぶ。いや、おそらくそれこそが彼女の狙いなのだろう。「私こそが彼にふさわしい」そう突きつけるための戦闘服こそがこの格好なのだとしたら、なんとも憎たらしい話だ。……いや、そうとでも思っていないとこれから強気に話を進めることなどできないだろうから、そう思い込むことにしただけなのだけれど。


「初めまして、美月さんですよね」


「そうですけど」


彼女の声と態度は冷たい。それを見ると丁寧な態度でいるのも馬鹿らしくなる。


「それじゃあ、立ち話もなんだし、カフェにでも入りましょう」


---


「お待たせしました」


私の頼んだアイスティーと、彼女の頼んだラズベリージュースが運ばれてくる。ストローを挿し、少しばかり口に含むが、正直緊張で味も香りもあまりわからなかった。美月がストローから口を離したことを確認し、生唾を飲み込んでから、私は慎重に言葉を紡ぐ。


「大体はメールで話した通りなんだけど」


「薙羅さんのことですよね」


食い気味な返事。メールの文面と違わず、負けず嫌いというか、勝気な姿勢が窺える。苦手なタイプだと思った。


「そう。美月さん、付き合っているって南ちゃんから聞いたんだけど」


「あー南、喋っちゃったかー。誰にも言うなって釘を挿しておいたんですけどね」


言葉とは裏腹に、美月の口角は上がっていた。社内に広まるように意図的に話を流したのだとわかるほどに、それは明確な“笑み”に見える。


「で、本当に付き合っているの?」


「なんですかその質問。まるで、疑っているみたいな。今更隠してもなんで言いますけど、そうですね、付き合っています、彼と」


「あのね、私も付き合っているのよ」


そこで初めて、美月は動揺を表情に滲ませた。私はその隙に付け入るように、続ける。


「2カ月前から、私は薙羅と交際をしているのよ。だから、あなたの話は間違いなく出任せっていうことになるんだけど、どう?」


「どう?」とは極めて曖昧な問いだったな、と思わなくもないが、私にはそれが精一杯だった。返事はない。


「面白半分でやっているのなら、やめてくれないかな?迷惑なんだけど」


そこまで言って彼女はようやく反応する。それは、私の予想を裏切る行動だった。笑ったのだ。とにかくおもしろくて仕方がないというように。小馬鹿にしたように。私は身構える。失敗した、という懸念が浮かんだ。


「迷惑……迷惑、ですか。ふふふ。なるほど、ねぇ。薙羅君が隠れて私と付き合っているとは思わないんですね。しかも、面白半分って。ハハっ、面白半分なわけないじゃないですか。それこそおもしろいですよ」


「どういう意味よ。何がおもしろいの?」


「すべてですよ。あなたが薙羅君と付き合っているっていう嘘をついたこともそうですし、私をわざわざ呼び出して説教みたいなことをしているこの状況そのものも、です。あーおもしろい」


「嘘じゃないわよ。私と彼は付き合っているの。だから、やめろって言っているの。あんた、おかしいよ」


「おかしい……ハハ……おかしい、ですか。じゃあいいですよ、百歩譲って先輩が薙羅君と付き合っているとしましょう。それで、なんで私が先輩の指示に従わなくちゃいけないんですか?」


「なんでって……付き合っているから、薙羅も迷惑だろうし」


「付き合っているから、なんなんです?薙羅君が迷惑だなんて言っていたんですか?だとしたら、今ここにふたりで来ているはずですよね」


「それは──」


「いいんです、いいんです。嘘だから連れてこられないんですよね。それに」


彼女は極めて残酷な表情をして、言い放った。


「結婚していないなら、言う権利ないですよ。私は、やめませんから」


---


「最悪……」


夕方。涙が滲んでくる。滲んだ涙は窓から入ってきた斜陽に反射して、眩しくて。瞬きをすると、さらに涙が溢れてきた。


言いたいことだけを勝手に喚き散らしてクソ女は、勝ち誇った顔で帰って行った。ちゃっかり私に支払いまで押し付けて。


最悪な気分だった。なんとなく気乗りはしなかったし、簡単にうまくいく問題だとも思っていなかったが、ここまでだとは。ヒロコからLINEが入っていたが、それに返す気力すらなかった。これほどまでに無残に敗北を喫して、それをおいそれと「負けちゃった」と報告できるほど、今のメンタルは気楽ではない。


いっそ薙羅にすべて話してしまおうかとも思う。だけれど、美月は狡猾な女だ。強かな女だ。手強い女だ。ひらりと躱すどころか、それを利用して薙羅の私に対する信頼を失墜させ、奪い取るくらいのことはやってのけてしまいそうな気がした。それほどまでに昼間の敗北は刻み込まれ、トラウマみたいになっていた。


ここまで他人から敵意を向けられた経験は、記憶にない。怖かったし、漠然と不安だった。世界に信用できる人間は誰もいないような気分になってしまうし、世界で私が一番不幸なのではないかというあり得ない妄執に取り憑かれてしまう。


どうしてこんなことに──。


考える。


薙羅と付き合えて、幸せなはずなのに。昨日の夜はふたりでディナーにも行って、この人のためなら怖くても戦えると思って勇気を振り絞って美月と会ったのに。それが、このザマか。


ため息を吐こうとして、嗚咽おえつする。ため息ひとつすらまともにできないのがひどく悔しくて、また泣いた。


泣きながら、布団を敷く。もう今日は何とも向き合いたくない。何も考えたくない。睡眠に逃げたい。それだけが今できることで、身を守る唯一の術だった。


掛け布団の中に潜り込み、今度は声を上げて泣いた。ここが、ここだけが私の孤独を埋められる場所。悲しみを開放できる場所──そう信じて。


---


「やっぱり、来たね」


少年の声が聞こえた。それが派手髪の少年のものだと気付くのに、数秒を要する。さっきまで私は──考えて、思い至る。泣き疲れて眠ってしまったのか。


周囲を見渡すと、相も変わらず真っ白。その光景は、布団の中を思わせた。


「どうして……」


「君が来たいと願ったんだよ。だからここに来ることができた。そういう契約だったからね」


「でも私は、誰も殺したいだなんて……」


「本当かい?本当に誰も殺したいとなんて思っていない──いわんや誰も呪っていない、そもそも誰も憎んでいないんだと、胸を張って言えるのかい?」


 「それは……」


言い淀む。だって、あんなことがあって「誰も憎まず」だなんて言えるわけないじゃないか。


「素直になろうよ。そもそも僕は君の心とリンクした存在だよ?言わなくたってわかる。もっとも、それでもあえて口にして欲しいと願うのは、完全なる僕の趣味の問題だけれど」


くすくすと、少年は笑う。この笑い声も、どこか懐かしく思えた。


「で、誰なの?」


「美月。会社の、後輩」


「何をされたの?」


私は、ことの顛末を語る。まだ当然整理はついていなくて、つっかえつっかえの説明ではあったが、少年は嫌な顔ひとつせず最後まで話を聞いてくれた。まるで私の言うことがすべて正しいと肯定してくれるかのように優しく、ほぐすように。


「とんでもない目にあったね。それは、許せなくなってしまっても仕方がない」


「うん、ありがとう。話を聞いてもらえて少し、楽になったかも」


すると少年は優しい笑顔のまま、こともなげに言った。


「殺さないの?」


言われると、ふつふつと肚の底が熱を持つ。交通事故に遭った際、失った箇所を見るまで痛みを感じないことがあるのだという。そして視認した瞬間に痛みは水風船が割れるみたいに決壊する。まるでその話みたいに、殺意は自覚するとアラートを鳴らしながら膨張した。


「殺していいと思う?」


「それは、君が決めることだよ。君は、殺したいのかい?」


もしかすると、私はこの状況を待っていたのかもしれない。殺したい一度自覚した殺したい殺意は殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい。


「うん、殺すしかないんだと思う。殺したい」


言葉として生み出した瞬間、私の頭はすっきりし、これまでの不安や恐怖も一切合切なくなっていた。そうか、こういうことだったのか、と思う。


そんな私を見て、少年は満足そうな表情で頷く。


「そうだよね。わかった。じゃあいつものことだけれど、1日準備の時間をもらってもいいかな。だから、決行は明日だ」


「うん、わかった。ありがとう」


白い世界は、剥がれて崩れ去る。私はそれをゲラゲラと笑いながら眺めていた。










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