賽は投げられた。容赦無く、否応無しに。一度転がり始めた運命は、どう抗っても止まらない。予め定められた流れをなぞるように、敷かれたレールの上を走る機関車のように進み続けるのだ。


しかしながら、その中でも小さな幸せを拾うことはできる。終着駅を知っていたとしても、車窓からの風景を楽しむことができるように。


私は「今は楽しむ事だ」という彼の言葉を、いみじくもなぞることになった。そのような意味で言えば、やはりレールの上から逃れることはできていない。


それでも、私は。


---


付き合って2カ月。彼との交際は、極めて順調だった。初めは正直「言われたから試しに付き合ってみた」的な側面が大きかった。断る理由もなかったし、何より彼は私にない穏やかさを持っているように見えたから。


しかし、実際に付き合ってみて彼のことをどんどん好きになっていく自分を自覚する。こんなことは初めてだった。もっとも、恋人ができたの自体まだ2度目なのだけれど。


彼は、印象通り穏やかな人だった。人との距離の取り方が絶妙だと言い換えても良い。私は議論が好きなタイプであるから、日常の些事ではあれど気になったことがあれば彼に意見を求める。薙羅は自分の芯がないタイプではない。だからしっかりとした意見を返してくれる。それに対して私も意見を出すのだが、決して薙羅はそれを頭ごなしに否定しない。それでいて納得できる結論に着地できるよう、会話を進めるのだ。


それはこと仕事においても同様である。これまでそこまで注視していたことはないが、付き合ってからあらためて彼の働きを見ていると、本当にコミュニケーションに長けているのだと実感する。そしてそんな彼の働きぶりが、私も少しばかり誇らしかった。


もっとも前回の経験からまだ安心できる時期でないことは確かだ。確かだけれど、「うまくいくのではないか」と期待してしまうほどには順調だ。


ただ、薙羅と交際をしていることを周囲に言ってはいない。下手にそれで気を遣わせるのも嫌だったし、何より恥ずかしい。いじられるのは、慣れていないのだ。前の彼との時にやれ「どこまで進んだ」だの、「どのような不満があるか」だのと詮索され、元々あった問題をよりかき乱されたのが不快だったのもある。それを思い出すと、関係を秘密にして付き合う方がよっぽどストレスがないように思えてしまう。


それに関しては薙羅ともよく話し合った。彼は「君に任せるよ」と、こともなげに言ってくれた。「秘密にしたいからといって、あなたと付き合っているのを恥じている訳ではない」と再三繰り返すと、その度に彼は「わかっているよ。大丈夫だから」と優しく微笑んでくれた。本当にできた彼氏だと感じる。


だから、あの日のことは寝耳に水だった。


とある水曜日の昼休みのことだ。部署の女子4人で連れ立って昼食を囲んでいた時の話。女子が数人集まって話す話題といえば、誰かに対する愚痴か恋話くらいのものだ。他部署で嫌われている谷家の噂話で一頻り盛り上がった後、一個下の後輩である南ちゃんが目に好奇心と言いたくて仕方なかったという色をのぞかせながら口を開いた。


「あの……少し話題変わっちゃうんですけど。えーこれ言っちゃっていいのかなー!どうしましょう……」


南ちゃんは女子女子したタイプ。誰とでも仲良くなれるし、話を合わせるのもうまい。少しぶりっ子なところがあるが、それでも爪弾きにされないのは引き際や空気感を心得ているからだろう。ただ、口は軽い。悩んだような口ぶりながらもモジモジとした仕草から「話したいから聞いて」という気配が溢れ出している。かといってそれにイラつくメンバーは誰もいない。私たちも噂話は好きだし、そんなやりとりもコミュニケーションのうちだからだ。


「え、なになに!言っちゃいなさいよ!」


こういう時に先陣を切って問い質すのは大抵ヒロコだ。その声に南ちゃんは深刻そうに頷くと、「誰にも言っちゃダメですよ」と前置きをしてから、


「同じ部署に薙羅さんって、いるじゃないですかぁ」


 心臓が跳ねる。まさか彼の名前が出てくるとは夢にも思っていなかったからだ。


「その薙羅さんって、広報部の美月と付き合っているらしいんですよ!」


「は?」とは口に出さないが、瞬間頭の中に数多の「?」が浮かぶ。私はもちろん美月なんていう名前ではない。


──なぜ?私でない?女と?彼が?


そんな私の内心の嵐とは無関係に、会話は進む。


「えー!」「本当に!?」


ヒロコと、南ちゃんの同期である坂田ちゃんが同時に色めきだった声を上げる。そしてそれを「しーっ!」と南ちゃんが嬉しそうに制する。そんな中で私は、ただただ黙ることしかできなかった。


「ダメですよ、本当に他の人に言っちゃ!美月と私は偶然大学が同じで……だから教えてくれたんで!薙羅さんはあんまり交際とか公にしたくない人みたいだから、美月も信用できる人にしか言ってないって言ってましたから」


「それなのに、私たちに言っちゃってよかったの?」


とニヤニヤ言うのはヒロコ。


「だーって、先輩たち誰にも言わなそうじゃないですかー。私口あんま堅くないから、誰かに言わないと無理だったんです。で、言うなら、ここかなって」


「だー!可愛い後輩めー!」


そう言いながらヒロコが南ちゃんの頭をグリグリやって、南ちゃんが「やめてくださいよぉ」と甘えた声を出すのを、他人事のように見ていた。とてもじゃないが、一緒に盛り上がれる気分ではなかった。


「すごいね。ごめん、私トイレ」


と口にして、その場を緊急離脱するのが精一杯だった。3人はそんな私を訝しむこともなくキャッキャと盛り上がっている。会話が聞こえなくなる寸前に聞こえた、「でもお似合いですよね、あのふたりって。美男美女って感じ。いいなー、私も恋愛したいなー」という坂田ちゃんの言葉が、やけに耳にへばりついて離れなかった。


---


初めて、仮病を使った。


上長に「どうしても体調が優れず、帰宅したい」との旨を伝えると、すんなりとその訴えは認められた。と言うより、顔色を見られた瞬間にぎょっとされ、いっそのこと帰宅を勧められた。相当青い顔をしていたのだろうか。そう考えると、あながち仮病とも言い切れないかもしれないけれど。


彼には、言えない。私はまだ彼を信じ切れていないのだと思う。薙羅はとてもいいひとで、すごく穏やかで、優しい。でもそれは前の彼だって付き合って数カ月はそうだった。


人は恋愛が絡むと変わる。変わってしまう。


それは私のちっぽけな恋愛経験から学んだ、唯一の学びだった。そして、逃げるための口実でもあるのだと思う。白状しよう。私は人を信じ切るのが怖いのだ。相手にすべてを委ねて、曝け出して、そして裏切られてしまったら?それはまったく防具をつけていない腹をハンマーで殴られるように鈍く、痛い。だからまだ鎧は脱げない。


翌朝目覚めても、胸に巣食う黒い気持ちは消えてくれなかった。


けど、どうしたらいい?モヤモヤとした気持ちは漠然と私の中に広がっている。こんな気持ちのまま果たして付き合っていけるのだろうか──そう考えた私はまず敵、つまり美月のことを調べることに決めた。


広報部は、営業部のふたつ離れた島にある。詳しく業務を知っている訳ではないが、大まかに社外に対する宣伝的な施策を打っていること、そして社内に向けた冊子、俗にいう社内報をつくっていることだけは知っている。だが、逆に言えばその程度しか知らない、そこまで馴染みのない部署だった。


だがつい一週間ほど前から、担当企業によって営業が得たデータを広報に生かせるだろうという判断から試験的に広報部と営業部がタッグを組んで案件に取り掛かる試みが行われるようになっていたのである。確かに聞いた。聞いていたけれど、私が担当する企業はそこに該当していなかったために、聞き流していたのだ。


案の定というべきか、薙羅はその該当企業を担当しており、そのペアが美月だった。美月は一見普通に薙羅に接しているようではあったが、よくよく会話に耳を澄ませると(あるいはそれとなく話を聞いていそうな社員に探りを入れると)、好意を持っていることが容易に見て取れる。


そもそも会話をするときの距離がやや近いし、やたら目を見つめて話す。加えてそれとなく食事に誘っている。幸いにしてふたりきりでの食事は薙羅が断っているようだったが、それにしても毎回昼食には薙羅を誘っているようだったし、複数回「仕事に関する話し合い」と称して部署の人間複数人を含めて夕食にも出かけているようだった。


よくよく考えなければ、あるいは見なければわからないアプローチ。アタックを受けている薙羅は気付いても良さそうなものだが、誘いに対して呑気に笑いながら応対するだけ。危機感もクソもなさそうだ。もっとも私だって南ちゃんから話を聞くまでは何も気付いていなかったわけだから、人のことなど言えないのだが。


もちろんそのようなことを調べるのと並行して、薙羅本人にも探りを入れている。「美月さんって恋人とかいるのかしら」というようなことを苦労して遠回しに聞いてはみた。だが、「あー、まぁ、綺麗だからね。いても不思議じゃないよな」と完全に人事。嘘をついているような口ぶりではないから、二股をかけられている訳ではないとは思うのだが……。というより社内で二股をかけられているのだと積極的に疑いたくないのが本心である。


そんな状況証拠的な要素から私が導き出したのは、「美月は薙羅が好きであり、外堀を埋めてからアプローチをしようとしている」という結論だった。


でも、それがわかったところでどうしよう、と再三立ち戻るだけだ。大体の裏は取れたような状況ではあるが、彼にはまだ言いたくない。美月と薙羅は一緒に案件を進めているわけだし、そのことでギクシャクさせるのは嫌だし、何より上手く説明できずに内心で「嫉妬深い女だ」などと思われたらと考えると、無理だった。


もちろん彼はそんなことを口にはしないだろうし、ちゃんと向き合ってくれるだろう。わかってはいるのだが、こればかりは自分の心の問題である。かといって突然「やっぱり交際を公にしよう」と言い出すのも妙な印象を持たれかねない。この問題は、なるだけ美月と私のふたりの間で極めて秘密裏に処理したい問題だ。


そう考えると、最早彼女に直接話をするしかないように思えた。しかし、私は彼女と一切の関わりがない。そんな女が突然「話があるんだけど」と美月に話しかけたら社内が嫌なざわつきをすることは必至である。そう考えた私は、まずヒロコにだけは薙羅との関係とこの問題を相談しようと決意した。


---


わざと仕事を長引かせ、ヒロコとふたりきりになる時間まで社内に残った。


「ぐぬぬ」と唸りながら最後の締めを終えかけたヒロコに、内心緊張しながら「ねぇ」と語りかける。


「なぁに?」


「私、彼氏できた」


そう報告すると、隣からガタタン!と音がする。ヒロコが驚いて立ち上がり、椅子のスプリングが鳴った音だ。


「ええ! 本当に!? 誰! 誰!? 会社の人?」


早口に捲し立てるヒロコをまぁまぁと制しながら、


「あの、驚かないでっていうか落ち着いて聞いてほしいんだけど。っていうか、疑わないで聞いてほしいんだけど」


「なにそのものものしい前置きは。私とあんたの仲で、疑うも何もないわよ! それよりもったいぶらないで教えなさいよ!」


「わかった。あの、彼氏、薙羅なのよ」


一瞬、ヒロコが息を詰めたのがわかった。そしてさっきの浮かれた声音を一転潜めるような声に変える。


「え……もしかして、奪っちゃった?」


そのあまりにも真剣な顔と、指摘の突拍子のなさに思わず吹き出してしまう。


「ははは!なわけないじゃん!奪っちゃったって!」


「ちょっと!私は真剣だったのに!ひどい!」


なんだか深刻に話を切り出したのがバカらしくなって、ふたりしてしばらく笑い続けた。そして、再度ヒロコは真面目なトーンに戻して、聞いてくる。


「とりあえずおめでとうだけど、でも、南ちゃんが言ってたじゃない。美月さんだっけ?と薙羅くんが付き合ってるって。それってどういうことなの?こんな短期間で美月さんと別れて、あんたと付き合ったってこと?」


「違う違う。どんなハイペースよ。だからすごく不思議で。いろいろ見たり調べたりしたんだけど、多分彼女、薙羅のことが好きなんじゃないかって」


「あー、そういうこと。あちゃー、薙羅くんも厄介なのに目つけられちゃったわね。で、彼に相談は?」


「してない」


「なんで?って思ったけどなんとなくわかるかも。そっかそっか……じゃあ、大変だったね」


ヒロコのこういうところが、私は好きだった。鈍感なところはあるが、少し話すとそこから理解して寄り添ってくれる。正直、少しばかり涙が出そうだった。


「でね、一回ちゃんと彼女と話してみようと思って」


「直接対決かー、なかなか思い切るわね。でも、もうそうするしかないか」


「それで、頼みたいことがあるのよ」


「何よ」


「南ちゃんに美月さんの連絡先、聞いてくれないかな」


「あー……ね。確かに私が聞けば怪しまれたところで問題ないもんね。わかった!一肌脱ごうじゃない!」


「ありがとう」


こうして、ひとまずの方針は決まった。うちに溜まっていた悩みを話せたことも相まって、少し晴れやかな気分になる。とはいえ、直接話したことのない後輩とそんな重々しい、もといおどろおどろしいやりとりをしなければならないのだと想像すると、やはり胃はキリキリと音を上げてしまうけれど。





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