縁
罪は暴かれなければ罪足り得ない。だから私は必死に穴を掘り、その穴深くにそれを埋めることを選んだんだ。
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骨皮の死が明るみになってからおよそ一週間後のことだった。その間には取り調べがあったけれど、とくにその後大きな動きはなく。事件があったことすら日常に吸収され始めた頃。同じ部署で一緒に仕事をすることも多かった後輩の薙羅から、昼休みに声をかけられた。
「先輩、これ……読んでください」
封筒を渡される。その手はひどく震えていて、なんとなく用件を察した。察してしまったものだから私も少し意識をしながら、
「えぇ、何かしら」
何とか平静を装った声で返答しながら、封を開けようとする──と、
「あ! ダメです! あ、ダメじゃないですけど……ひとりの時に開けてください」
「そ、それもそうね。わかった」
「それもそうね」とは何なのだろうと自問する中で自身の動揺を自覚する。彼の不自然に紅潮した頬と、ぎこちない挙措が緊張を雄弁に物語っていて。だから私もドギマギしてしまったのだ。その間に薙羅は去ってしまっていた。
慌ててお手洗いに駆け込み、封筒を開くとそこには「仕事が終わったら連絡してください。話したいことがあります。」と達筆な文字で書いてあった。その角ばった文字は先ほどの可愛らしい態度と何だか対照的で、少しおもしろかった。
そんなことを考えてしまって緩む頬を一度ピシャリと叩いて、考える。
薙羅は、良い後輩だ。仕事は卒なくこなすし、気遣いもできる。付き合いだって良い。ついでに言えば見た目だって悪くはない。
だけれどいざ恋人として彼を見られるかと言うと、戸惑いがある。学生時代にしていた恋愛とは違い、社会人になってからの恋愛は結婚も絡んでくるのだ。まだ年齢的に余裕があるとは言え「あまりもたついていると」という気持ちもある。
いや、そんなの本音ではない。私が本当に考えていたのはシンプルなひとつのことだった。
彼は、優しいひとなのだろうか。恋人になっても優しいひとなのだろうか。あの人と違って、付き合って変わってしまったりなどしないだろうか。
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時間が経つのが、兎角遅かった。仕事をしていても薙羅の視線が注がれているような気がしてしまうし、そうでなくてもソワソワしてしまう。こんな感覚は久々だった。
ただ、慣れとは恐ろしいものだと思う。ほかごとに気を取られながら仕事をするのに慣れるだなんて、褒められたものではないのかもしれないけれど。骨皮から熱視線を受けていた時から比べたら幾分か働きやすかったし、ミスも普段通りの範疇には収まっていた。唯一ケチがついたとするなら、後ろから突然薙羅に呼び止められて声が裏返ってしまったことくらいだろう。それには薙羅も少しばかり照れたような表情を浮かべ、それが少し可愛らしく思えてしまって……ってそうじゃない!
……とにかく、そんなあれこれを経て、業務は終わった。そそくさとオフィスを後にし、メッセージアプリから電話をかける。相手はもちろん、
「薙羅です」
「私」
「あ、お疲れ様です。あの、今日も大変でしたね」
「そう?今日はそこまでって印象だったけれど。残業も珍しく、なかったし」
ハッとする。彼は、緊張しているのだ。欲しいのは正論ではなく、会話の安息地なのに。なんでそんな厳しい言い方をしてしまったのだろう……。そんな罪悪感に苛まれていると──
「あ、あの!」
「は、はい!」
突然の元気な声に思わず弾かれたような返事をしてしまう。すると、薙羅は少し照れたような笑いを漏らして、一転落ち着いた低い声で言った。
「ルージュに来て下さい。直接会って話がしたいです」
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ルージュは、薙羅の行きつけのバーだ。一度だけ仕事の相談に乗って欲しいと言われ、ふたりで訪れたことがある。
薄暗い店内に10席ほどの客席があり、狭い店内には所狭しとさまざまな色の酒が置いてある。そこまで酒の種類に
「いらっしゃい」
にこやかな歓迎の声にふたりして会釈すると、私たちは店の一番奥のテーブル席に通された。カウンターが空いているのを見るに、なんとなく察されているのかもしれない。
席に着くと、薙羅は耳慣れないカクテルを濃いめで注文した。彼は酒が強く、また酒に関する知識も豊富だ。そうでない私がもたついていると、薙羅は店員にお勧めを聞き、注文してくれた。なんだか酒の場では薙羅が先輩みたい。もっともそう思ったのも、会話を始めるまでだったけれど。
酒が運ばれてくるまでは、「今日寒いですね」「そうね」「仕事はどうなの」「ボチボチです」というような何の生産性もない会話をした。彼はまるで会話に身が入っていないようだったし、私もそうなのだろう。「まるで儀式みたいだ」と乾いた強い心臓の鼓動を他人事のように感じながら思う。
酒が運ばれてくる。薙羅はグラスを見つめると生唾を飲み、グラスの半分ほどを一息に呑み下す。
「けふっ、けふっ」
濃い酒を一気に飲んだら喉がやられる。当たり前のことだ。それは酒が強かろうと関係ない。薙羅は涙目で顔を赤くしてむせた。
「だ、大丈夫!?」
「す、すいません……お恥ずか、けふっ、しいところを……けふっ」
ひとまず水を頼み、薙羅に飲ませる。そして、顔を見合わせて……
「ははは!何だか、馬鹿みたい!」
「あははっ!もう、先輩、笑わないで下さいよ!ははっ」
やっと空気が弛緩する。私たちはまるで子どものようにしばらく笑い続けた。笑って乾いた喉を潤すように、酒を一口口に含む。ピーチリキュールが使われているのだろう。アルコールは感じるが、果実の甘みと旨味を感じる。好みの味だ。そして、笑いとアルコールは人を饒舌にする。
「で、薙羅。何か話があって呼んだんでしょう?」
「そうですね……って、えー、この流れで言うんすか?もー、嫌だー。くそー酒も全然回ってくれないし!」
なんだか、言い淀む彼を見ているとその様子が可愛らしく見えてしまう。口角がほのかに上がるのを感じた。
「酔わないと、言えないようなことなの……?」
「そんなこと、ないです。ないです」
「聞くよ。だから、言って」
「……好きです。好きなんです。先輩のことが。あの、尊敬的な意味ではなく……女性として。ひたむきに仕事に打ち込む姿とか、優しいところとか、好きなんです」
顔に血が上るのを感じる。わかっていたはずだったのに。言わせたはずなのに。耳が熱かった。顔もきっと赤いに違いない。それでもなんとか平静を保ちながら……いや、保てているのかわからないまま。
「それで?」
「だから、付き合って欲しいんです」
「うん。私も付き合いたい」
好きなのかはまだわからないけれど。それでも、付き合ってみようと──付き合ってみたいと、そう思ったのだ。
それから数杯を薙羅と酌み交わし、帰路についた。アルコールと幸福感で、頭がフワフワとする。夜風をほのかに感じながら5分ほど歩くと、駅に着く。電車が逆方面なので、薙羅とはここでお別れだ。「名残惜しい」そう感じている自分を、少し意外に思う。
「それじゃあ、またね」
「また明日、ですね」
「明日仕事なこと思い出しちゃったじゃないの。やめてよ」
「ハハ、すいません。正直僕も思い出したくなかったです」
そう言うと彼は私の体を引き寄せ、唇を奪った。少し乾いた唇はそれでも柔らかく、そして燃えるように熱かった。
「これで少しは憂鬱が消えましたか……?」
そう悪戯に微笑む薙羅の顔は、街頭に照らされて赤みを主張していた。そんな彼を見て、遅れて私の心臓が大きな音を立てて鳴り出す。呼吸がチグハグで、顔が赤いことを実感した。
「……えぇ」
「それならよかったです。じゃあ本当に、また明日」
そう言って照れ隠しか足早に改札を越える彼を見送りながら思う。
──私、彼のこと、好きになれるかもしれない。
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正直に言うと、恋愛は少し怖い。
仕事付き合いや、友達関係は良い。奥底まで曝け出すことなんてそうそうないから。相手の見たくもない面は見る必要なんてないし、自分の向き合いたくない本心──本性を晒すこともない。
人間は、皮を一枚剥けばとても醜い生き物だと思う。嫉妬に怒り、絶望や悲しみに満ちている。そりゃ希望や優しさだってあるけれど、そんなの一握りにしか思えない。
それは、これまでの人生で培われた価値観である。
家庭では、引っ込み思案な方だった。いや、引っ込み思案というのも少し違うか。家庭では抑圧されていた、が正しい。
私の家は、今では珍しい大家族。両親に、子供は男3人と、女3人。その末の末が私だった。他の兄弟姉妹とは少しばかり年が離れていたこともあり、酷い扱いをされていた覚えがある。
長男と次男はやりたい放題、わがまま放題、乱暴放題と言った子どもだった。なんでも自分の思う通りにならないと武力で言うことを聞かせるガキ大将気質で、近所の子どもたちを掌握していた。
それでも家族だけは大事にするようだったらまだ可愛げがあったけれど。そんなことはなく、三男と女子3人に口答えさせず、おやつもあらかたを奪われるような有様。たちが悪いのはそれを両親の目の前ではやらないことだ。家の雰囲気として昔寄りな感じがあったから、長男の言うことは絶対みたいなところがあり、両親もふたりには甘かった。
もちろんそんな兄弟の支配下にあって、他の3人がまともであるはずもない。三男と上ふたりの姉は、唯一下の立場である私に、ことあるごとに嫌がらせをした。暴力を振るうとかではない。口裏を合わせてちょっとした失敗を私に被せたり、新しく何かを小遣いで買うと、それを搾取したり。それとなく肘で押されて池にダイブしたこともあったっけ。正直、思い出したくないことばかりだ。
そうして、私の犠牲で家族は歪ではあれど絶妙なバランスで、なんとか成り立っていたのだ。もっとも、現在家族と連絡をとることはほとんどないけれど。
恋愛にも、良い思い出はない。大学時代のこと。初めての恋愛は、惨敗に終わる。
人当たりがよく、友達としてはとてもよかった彼。そんな彼は付き合ったのを契機に変わってしまった。最初はよかったのだ。とにかく尽くしてくれて、連絡もマメ。相も変わらず明るくて、ラブラブだったと言って良い。
しかし、3カ月ほど経ってからだった。一週間連絡がつかないことはザラ。会話をしていて突然不機嫌になる。どうして良いかわからなかった。なるべく彼の不興を買わないように、自分の意見を出さなくなった。彼のしたいことを、したいようにさせようと思った。譲った。合わせた。そうした結果──ただ虚しさだけを感じるようになった。それでもずるずると関係は続き、付き合い始めて一年が経ったタイミングで別れることになる。原因は彼の浮気だった。それでも怒りも、悲しさも何も湧いてこなかった。ただただ彼の浅い奥底を知ってしまった残念さと、そこに縋るしかなかった自分の弱さを自覚しただけだった。
在り来たりな、挫折だったのかもしれない。それでもその在り来たりは私の胸に大きな楔を穿った。
それが、ダメ押しの一手だった。日常で感じる小さな善意や好意に、猜疑的になってしまった。その一件は私に対人不安という薄いベールを纏わせる。
でも、それでも期待してしまう自分も同時に存在する。
いつか私に無条件な優しさを、愛情を注いでくれる人が現れるのではないか──付き合いたての彼のような優しさを継続的にくれる人がいるのではないか。そんな希望もまた、呪いのようにまとわりついていた。
だから、今回のことはもしかすると必然だったのかもしれない。愛情を欲して彼と付き合い始めたことも。
そしてその呪いが身を焼くような痛みに変わったことも。
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「やぁ、期日だよ」
派手髪の少年が言う。背景は真っ白。いつもの空間だった。その声を聞いて今日が約束の日──殺す人間を宣言する日だと思い至る。
「久しぶりね。もう期日だなんて、びっくり」
「そうだね。時の流れは存外早いものだよ。ところで、今の君はとても幸せそうだね」
「わかるかしら。とても、幸せ──になれるのかもしれない」
「わかるさ。僕は君の中にいるのだから。それにしても、持って回ったような言い方をするね」
「うん。まだ、正直信じ切れていないのよ。人の心はわからないもの。相手はもちろん、自分自身も」
「それはそうさ。自分の心を見る時、人は客観性を担保することができないからね。ところで──だ。そろそろ本題に入ろう」
彼は、少々苛ついているように見えた。しかしそんな表情も一瞬。わざとらしく咳払いをすると、落ち着いた声で問いかける。
「殺す相手は、決まったかい?」
私は思案する。今、骨皮ほどに憎んでいる相手はいるだろうかと。
「ごめんなさい。まだ……決まっていないの。正直、骨皮に抱いたほどの憎しみを覚える相手がいなくて」
謝る私に、派手髪の少年はこの上なく穏やかな表情を向ける。
「謝ることはないさ。憎しみを抱く対象がいないということは、幸せなことなのだから。そうだな……それでは気が向いた時にしよう。君がどうしようもなく憎しみを抱いた時に、強く僕を呼べば良い。そうすれば、いつでも現れよう」
「そんな都合の良いことって……良いの?っていうか、もしかするともう私は誰も恨まないのかもしれない。これから普通に幸せになって、ありふれた幸せを掴めるのかもしれない。それでも、あなたは私の願いをいつでも叶える準備をしてくれていると、そう言うの?」
すると少年は、邪悪な笑みを一瞬浮かべ、それを爽やかな笑みの裏に隠す。
「大丈夫だよ。僕は確信しているからね。君は、また僕を頼るって。だって君は知ってしまったのだから。人を殺すということを。殺人における快楽と、開放を余すところなく知ってしまったのだから。骨皮を殺した時点で、もう後戻りはできなくなってしまったんだ。それに君は、勘違いしているよ。君は、幸せになどなれない。幸福は、不幸への助走なんだ。だからせいぜい、今は楽しむことだ」
「ちょっと!それってどういう──」
言い返そうとする私に目もくれず、少年は身を翻し、指を鳴らす。すると白い世界はボロボロと崩れ──
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