私は私のために人を殺した。あいつは死んだ方がいい人間だったかもしれないけれど。それでも「気持ちが悪かった」「邪魔だった」という理由で私がその命を手に掛けたことは確かだった。


ただ、現実感は限りなく希薄で。人を殺した事実がただ自分の中に積み重ねられただけ、みたいな感覚しかなかったのだ。冷えた脳内で、私は罪を自分に問うてみた。


それでも私は良心の呵責かしゃくに苛まれることなどなかった。殺人がダメなことだなんて、小学生だってわかる規範だろうに。多分私はあいつを手に掛けた瞬間に、自分をこれまで縛っていた価値観をもぶち壊してしまった。


きっと私は罪深い。でも、私はそんな罪深い私を赦そう。


彼が言ってくれたのだから。「よくやったね」と。私の開放を祝福してくれたのだから。


---


私は、派手髪の少年の言葉を信じることになった。というより、信じるしかなくなったのだ。


「骨皮さんの遺体が、自宅で発見されたそうだ」


夢の中で彼の首を絞めて殺してから2日後の朝礼で、社長はそう言った。昨日会社にいなかった時点で「本当に死んだのかもしれない」と思うには思ったが、本当にそうであると突きつけられた際の衝撃は、確かにあった。あったけれど。


「骨皮さんって、あのあんま喋らない技術部の人だよね?」


そんなヒロコのひそひそ声に対して


「そうだったはず。関わりないから顔はおぼろげだけど」


まったく声が震えることなく返せるほどには冷静だった。冷静というより、現実感がなかったのだ。あの夢はリアリティのあるものだったけれど、それでも「夢のことだし」と、現実の自分と切り離して考える都合の良さを自分の内側に感じていた。そして、二律背反的に「ちゃんと死んだんだ」という安堵もあったのだ。


しかし、その思考も次の部長の声で中断されることになる。


「死因は焼死。奇妙な話ではあるが、体内から発火したそうだ」


──ここで起きる事象は、現実とリンクする。それも、かなり都合のいい形で。


そんな青年の声が、耳奥でこだまするようだった。


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不謹慎なことかもしれないけれど、骨皮のいなくなった日々は本当に快適だった。常に感じていたまとわりつくような視線がない──それだけでストレスはなく、仕事に集中することができた。


「今日、調子良さそうだね」


だなんて声を掛けられることも多かった。それほどまでに開放された喜びは大きく、朝礼で感じた衝撃は忘却の彼方へ消えていった。私の頭は、相当都合のいいしくみになっているようだった。


「お先に失礼します」


定時を過ぎてしまったことはもちろんだけれど、いつもより一時間も早く仕事が終わった帰り道。足取りはとてつもなく軽やかだった。今日は自分にご褒美を与えたい、そう思った私は家の近くのコンビニで缶チューハイと弁当、アテのスルメを購入する。


家に着くや否や、服を着替えることすら面倒で、スーツのまま缶チューハイを取り出してプルタブを起こした。プシュ、という小気味のいい音がしたあと急いで帰ったために缶が少し揺れていたのだろう、泡がふつふつと優しく吹き出す。泡に口をつけると、多幸感が脳内を支配した。


こんな夜を迎えたのはいつ以来だろう。そんなことを考えながら今度はぐびと大きく一口。安酒特有のこれでもかというアルコール風味が口内を充満した。ここで、ようやく帰ってから食べ物を口にしていないことに気付く。「今日くらいは」と思って買った焼肉弁当を乱暴に開封し、一口食べる。とても幸せだ……。


そんなことを、私はしばらく繰り返し続けた。


酩酊めいていを感じたのは、2本目の缶を空にした辺り。「あぁ、お酒弱くなったな」とか「メイク落とさなきゃ」とか「せめて着替えなきゃ」とかいろんな思考が取り止めとなくとっ散らかったまま、私は眠りに落ちる。



---


気付くと、私は白い空間の中にいた。頭がやけにボーッとする。「あ、お酒飲んだからか」と思い至り、ここが夢の中だと自覚した。


四方をぐるりと見渡し──やはり、居た。


私がつくり出した幻影。夢の使者。派手髪の青年が、またしても笑顔でそこに立っていた。


「どうも、お久しぶりです。お加減はどうですか?」


「最高の気分よ。本当に骨皮が死ぬだなんて。半信半疑だったけれど、殺してよかったと思ってる」


「そりゃあ、よかった。冥利につきますよ」


そこで彼はにこやかだった笑顔からその光を消して、真剣な表情になる。


「ところで、次はいつにしますか?」


「次って……何が?」


「ふふふ、わかっている癖に。おもしろい人だ。言葉にしないと納得してくれませんかね。次人を殺めるのはいつにするか、と聞いたんです」


なぜ、次があるのだろう。そう思った。もう今限りなく私は幸せなのに。これ以上人を殺す理由がないじゃないか。


そんな私の気持ちとは裏腹に、私の口は奇妙なほど自然に動いた。


「一週間後でもいい?それまでに誰を殺すのか、決めるから」


「わかりました。それではお待ちしていますよ。例の如く準備が必要なので、その前日にまたお伺いするとします」


---


ひどい二日酔いだった。久々にお酒を飲んだこともあったが、衰えたなと思わずにはいられない。それでも日常は都合よく待ってくれなどしない。会社へ行かなくては。


ほうほうの体で会社へ到着すると、何故だか社内はざわざわとしていた。いや、正確に言うならば私の到着を契機として色めきだったような。そんな空気があった。しかし、心当たりなどまったくない。戸惑いながらも、「おはようございます」をぼそりと口にしながらデスクに着いた。仕事を始めようとパソコンを立ち上げていると、ツカツカという音が聞こえた。振り返ると、部長の大川が私を後ろから見下ろしていた。


「すまないが今から、警察へ行ってくれないか。何やら聞きたいことがあるらしくてな」


心臓が一際大きな音を立てて跳ね、一拍遅れて過剰なまでに血液を送り出したのを感じる。心当たりが大きな自覚へと変貌していった。それでも私はなるだけ平静を装い、「はい」を口にする。


---


警察へ到着し、名前と呼び出された旨を伝えると5分ほどで迎えがやってきた。すらりとした長身に精悍な顔立ち。年齢は40半ばといったところだろうか。制服に身を包んだ佇まいはなるほど、迫力がある。


「わざわざご足労いただき、申し訳ありません。安田と申します。どうか緊張せず……というのは難しいでしょうが。別に取って食おうってわけではありませんから。ハハ。では、早速ですが移動してもよろしいでしょうか?」


私を過度に緊張させないようにだろう、にこやかな笑顔で刑事……安田は挨拶をしてくれた。しかし笑顔とは裏腹に瞳には鋭さを感じる。正直、気圧された。咄嗟に言葉が出ず、頷きをもって返答すると、安田は踵を返して「ありがとうごさいます、ついてきてください」と口にした。


大きな背中についていくと、取調室にたどり着いた。なぜ取調室だとわかったかといえば、その部屋がまさしくドラマなどで見るそれだったからだ。


安田は慣れた挙措でパイプ椅子に腰掛けると、私にも座るように促す。そして、私が着席したのを確認すると、


「あらためて、刑事の安田と申します。本日はご足労いただき、ありがとうございます。恐らくどのような要件かはご想像いただいていることと相違ないと思います。骨皮さんのことについてお伺いしたく、来ていただいたわけです」


そう口にしてから、安田は少しばかりの剣呑さを瞳に滲ませて、


「実はあるものが見つかったんです」


「ある……もの?」


「はい。骨皮さんの、日記が見つかりました」


「日記……?」


意外な言葉に、私の頭の中は大いに混乱した。日記なんてつけていたのか、あいつは。よもや私に殺されたなどと書いているわけではないと思いたいけれど。


そんな私の内心を覗き込もうとする安田の視線を感じ、私は咳払いをひとつする。安田は表情を変えずに言葉を継ぐ。


「はい、日記です。その中にあなたの名前がよく出てきていたんですよ。骨皮さんが亡くなった日の1カ月ほど前から、急に。実は骨皮さんが亡くなった直後、社内でも骨皮さんと親交があった方々にお話を伺っていまして。とはいえあまり交友範囲の広い方ではなかったみたいで同じ部署内の方くらいでしたけれど。ですがその際にあなたの名前が出てきたことは一度もなかったので、なんと言いますか……妙だな、と」


「妙」とは噛んで含んだような物言いだと感じる。安田は私を怪しんでいるのだろう。しかし、逮捕されることはまずないだろうと私は内心で確信している。確かに夢の中で骨皮を殺したことは事実だ。だけれど手段は絞殺。実際に出た死体は焼死体。どう考えても結びつくはずなどないのだ。


「妙、ですか……。ですけど私からもとくに話せることはとくにないですよ。それこそ社内の人間から聞いた通り、私と骨皮さんは関わりがあった訳ではないですし」


「そう、それなんですよ。それが不思議なんですよねぇ……」


言いながら安田は「ハハハ」とわざとらしく笑って後頭部を掻きながら、手元の資料に視線を落とす。言葉とは裏腹にその目は笑っていない。そしてばっと資料から顔を上げ、


「ある日突然、骨皮さんから言い寄られたなんてこと、ないですよね?」


真っ直ぐ私の目を見据えて、言う。「嘘をついているときに人は相手から目を逸らす」という知識を持っていなかったら、私は右斜め上あたりに視線を遣っていたことだろう。しかし私は彼の目の奥まで見つめて、「ありません」と、そう言い切った。


---


オフィスに戻ると、待ち受けたのは視線だった。「何があったのだろう」「もしかすると彼女は事件の根幹に関わる人物なのではないか」そんな好奇の視線が突き刺さる。それはそうだろう。私が逆の立場でもそんな視線を遣っていたに違いない。そんな理解はできるが、いざその立場になると煩わしくてならない。


「ただいま戻りました」


大川に簡素に報告するも、彼は少しソワソワとした様子で「あぁ、おかえり」と述べるだけで詮索はしてこなかった。どう聞いていいのかわからなかったのだろう。しかし、それは私にとって都合がよかった。周囲になるだけ視線を向けないようにしつつ席に戻り、私は仕事に没頭することを決めた。


---


午前中が取り調べによって潰れてしまったために普段より仕事量が減っていたとはいえ、そこそこの仕事を任されてしまった。そのために、今日は久々に終電を逃した。もっとも、安田とのやりとりや周囲の視線がチラついて集中力を欠いたことも一因だろうけれど。


「はぁ……終わんない……」


こういう残業があるときのお供は、いつだってヒロコだ。隣のデスクで、呼応するように愚痴が聞こえる。


「なんでこんなに毎日忙しいのかね?もしかしてうちの会社、ブラック?」


「今更」


「3年目だしね」


 中身のない会話をしながら、ふたりして何がおかしいのか笑い合う。そんな時間が、案外嫌いではなかった。残業は嫌だけれど。そして私は、再度画面に目を向ける。ふたりの間では無理に会話をする必要もない。戦友なのだから。


けれど、今日は珍しくヒロコが話題を振ってきた。


「今日、大丈夫だった? 警察」


 言葉こそ端的だが、彼女が私を心配してくれていることはありありとわかった。


「大丈夫……だと思う」


「思うって……? ってこれ突っ込んでいい話?」


「別に隠すこともないぐらいの話よ。ただ、骨皮さんの日記に私の名前が載ってて、それで心当たりないかって聞かれただけ」


「え、どういうこと!? 骨皮さんとあんまり関わりなんてなかったじゃない!」そんな返しを私は予想していた。期待していた。しかし、ヒロコの返答はその予想を裏切るものだった。


「あー……確かに骨皮さん最近ずっとあんたのこと見てたしね」


思考に空白が生まれるのを感じた。ヒロコは、気づいていたのだ。そして、ヒロコは続ける。


「で、最近あんた元気なかったもんね。もしかしたらストーカーされてた、とか?」


私は二の句を告げなくなる。完全に予想外だったからだ。安田からはそういった質問が出てくることはある程度予想できた。しかし、ヒロコがそれについて察していたことは私の中で大きな驚きと、不安を生んだ。


「あらやだ、もしかして当たっちゃった……? もしかして最近少し元気がなかったのも、そのせい?」


「そう、じゃない……違くて」


「あら違ったの!? それならよかった! ならそんなに気にすることないよ!」


ヒロコは私の返答を皆まで聞くことなくそう答えた。私はより深く弁明しようとしたが、それがかえって墓穴を掘ることに気づき、口を噤む。そして、それは正解だったと言える。ヒロコはそのまま屈託のない笑顔で、「よし、やっと仕事終わった!」と。


あくまで世間話の一環だったということだろうか。それとも話を深掘りされたくない私の気持ちを察して……?そんな私の思案をよそに、ヒロコはパソコンのシャットダウンを終えてそそくさと片付けを済ませると、


「じゃ、仕事終わったし彼氏の家行くわ」


と。随分と気楽なものだ。心を大きくかき乱すくらいならいっそ深く聞いてくれればよかったのに。そうしたなら少しは気持ちが楽になるかもしれなかったのに──。


そんなモヤモヤした気持ちを手近にあるぬるい缶コーヒーで流し込み、ディスプレイに視線を落とした。







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