ノイズ
酒クズたぬき
罪
「夢は願えば叶う」
無責任な言葉を私に授けたのは誰だっただろうか。きっと笑顔が素敵だった幼稚園の園長先生が言っていたのを聞いたのが最初だ。その時の私はそれを馬鹿みたいに頭から信じていたっけ。
甘い言葉は、毒のように私の運命を蝕むというのに。
人間の想いが持つ力は、とても大きい。それはまさしく思ったことを現実にしてしまう程度には。しかし、願いが叶うことは、必ずしもいい結果であるとは限らない。
それに気付いたのは、すべてが手遅れになった時だった。
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「ふう、やっと終わった……」
大きな伸びをして時計を見ると、時計の長針は3を、短針は12を過ぎた辺りを指し示していた。現時刻が0時15分であることを理解するのにも10秒程かかる疲労の中、私は静かに悟った。「今日も終電がないな」と。
ここのところは、常にこの調子だった。終電に間に合わないギリギリの時間に仕事が終わる。 その原因は、繁忙期だけでなくこの会社にある。
役職が上の者は優遇される、新人は辞めてしまわないために甘やかす──そんな風土が会社に根付いているのだ。そんな会社においてキャリア5年目の私みたいなのは都合のいい駒なのである。
ここでミソなのは終電があるかないかギリギリの時間に終わるような仕事量を任せられること。訴えたところで「10分15分のことでしょう?あなたの効率が悪いんじゃないの?」と人事に面倒臭そうに言われるのが関の山だろう。実際他の社員は終電にギリギリ間に合って帰れているのだから。
私が所属しているのは営業部。営業活動自体は夕方までに終わるのだが、それからが大変だ。その日に訪問した企業の情報をシートにまとめ、その翌日に営業をかける企業の情報を収集し、まとめる。言葉にしてみれば簡単に聞こえるだろうが、その地味な作業は存外に時間を食うのだ。
仕事自体は、好きだ。昔からやりたいと思っていたことができている実感はある。それに、報酬も悪くはない。だから声を上げるほどではないっちゃないのかもしれない。しれないけれど……。正直この生活は精神にクる。
「いいなー、私も後5分くらいで終わるけど、その最後の詰めが面倒臭いのよね……」
そう隣で力なく文句を垂れているのは同じく会社の駒こと同期のヒロコだった。
「何言ってんのよ。仕事が終わったらすぐ家に帰れるヒロコの方が羨ましいよ。泊まらせてよ」
ヒロコは会社から徒歩5分ほどのマンションに住んでいるのだ……が。
「ごめん、今日彼来てるから」
「だろうね、知ってる」
だいたいこの調子で断られるのだ。「ハハハ……」と力ない笑いを漏らしながら、私はタクシーで帰るべきか、会社の仮眠室に泊まるべきか、それともネットカフェに泊まるか脳内会議を行う。それなりの報酬をもらっているとはいえ、しっかりしたホテルに毎日泊まれるほどではないのだから。
そんなことをグルグル考えているうちに、ヒロコは仕事を終えたようでそそくさと支度を始める。そしてものの10数秒で荷物をまとめると、
「じゃ、またね」
「うん、また明日ー」
とのこと。薄情もいいところだった。そろそろ本当に会社の近くに引っ越した方がいいのではと考えるのだが、そしたらもうこの会社から離れられない気がして、それもなんだか怖くて。二の足を踏んでいるのだった。そもそも忙しくて物件見て回る暇もないし……。
そうして誰もいなくなってしんとなったオフィスを見渡し、もう一度深いため息をつき、ひとまず目下の方策を私は決断した。
「今日は、仮眠室でいっか」
わざわざ外へ出ることすら
スマホを見ると時刻は2時12分。電気を消して、硬い布団に身を横たえた。
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「ん……ふあ……」
ふと目が覚める。眠気と体の疲れの抜け具合からして、まだ朝ではないことはわかった。スマホを見ると、4時2分。横になってから2時間と経っていなかった。
「まだ寝れるや」
すぐにまぶたを閉じる……が、なんだか嫌な感じがした。虫でもいるのだろうか。「ゴキブリとかだったら退治するのやだなぁ」と思いながらスマホの明かりを頼りにとりあえず電気を点けた。
──瞬間、心臓が動きを止めたような錯覚を覚えた。その後に急速に心臓が過剰なまでに血液を送り出す。
男が、いたのだ。部屋の入り口に備え付けてあるパイプ椅子に足と腕を組みながら座る中年の痩せた男。悪びれることもなく、口を開いた。
「お疲れ様。仕事、頑張ったんだね」
血の気が引いた。頭が真っ白になって、金魚のように口をぱくぱく開閉するしかできない。人は心音を聞くことで落ち着くというどこで得たのかもわからない知識を頼りに胸に手を当てて数秒。やっと声を出すことができた。
「ベット、使いたかったんですか?」
言って、我ながら何を言っているのだと思った。ベットは私が使っているもの以外にも2台あるのだから。
「そうではない。聞いていたんだ。君の寝息を。見てみたかったんだ、君がどうやって寝ているのかを」
──この人は、確実に狂っている。
そう気付いた私は、いち早くこの場から離れたくて仕方がなくなった。
「そうですか。では、私は、これで」
「ああ、また明日」
そう聞いて初めてこの男が、技術部の
一刻も早く逃げ出したいのに、こんな時に限って手は震えて思ったように動いてくれない。それでもなんとか荷物をまとめて震える手でノブを回して慌ただしく部屋を出た。
着替えることもできずスウェットのままタクシーに乗り込み、その中で思わず泣いてしまう。
「なんで私がこんな目に、怖い、怖い……」
繰り返し呟く。もちろん家に帰っても眠れるわけはなく、布団の中で泣きながら夜を明かした。
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その日から、ことあるごとに骨皮の視線を感じるようになった。
これまで通りとくに話しかけてくる訳ではない。だけれど、何をしていても常にねっとりとした視線を感じるのだ。その事実が毎日、あの夜の記憶が現実だったのだと知らしめてくるようだった。相談するのもなんだか怖かった。それによってこの均衡が崩れるような気がして、賢くないとわかりつつも私は恐怖と悩みを抱え込むことを決めたのだ。
その結果私は、ひどく追い詰められた。不眠に悩まされるのはもちろん、オフィスでも常に緊張と恐怖に苛まれる。それでも容赦無く仕事は降ってくるし、終電はなくなるし。毎日帰りのタクシーでしとしとと涙をこぼした。
それでも会社を辞めずに続けたのは、ひとえに仕事が好きだったから。それに、骨皮によって仕事を辞めさせられることは負けだと思うから。でも、それも限界なのかもしれない。
そんな生活を続け、本当の “限界”が訪れたのは、あれから二週間が過ぎた夜のことだ。
「あれ、視界が……」
家の扉を締め、靴を脱ぎかけたところで視界がグルグルと回り、私は大きな音を立てて倒れた。
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「ここは……」
白い部屋。いや、正確には部屋なのかすらわからない。扉もない。果てもない。そんな空間に私はいた。
「ここは、夢の中だよ」
白い空間の中で一際異彩を放つ存在が、そこにはいた。左半分は青、右半分は黄という派手すぎるくらいの髪の色に、整った美貌。黒いタキシードに身を包んだ青年が、立っていたのである。
「そっか、夢の中、か」
「そう、夢の中。君は相当疲れているみたいだね。無理もない。君の精神はとっくに限界を迎えていたのだから」
納得だった。夢でなければ信じられない光景ではある。しかし、夢の中にしてはやたらと意識が明瞭なことだけが違和感だ。
「で、これはどういう夢なの?」
青年は「ふふっ」と微笑む。そんな挙措ですら絵になるなぁ、だなんて思っていると──
「君は、願っていることはあるかい?僕は君の願いを聞いて、叶えたいと思う。これはそういう夢だ」
「それは素敵ね。本当に、夢でなければもっと素敵だけれど」
「それならば、僕としても嬉しいよ。これは、夢であって夢ではない。ここで起きる事象は、現実とリンクする。それも、かなり都合のいい形で」
私は、ここまで都合のいい夢を見てしまうほど追い詰められていたのかとなんだか冷静に思った。そして、それを信じたいと思うほどには疲れていた。
「そうなんだ。そうなら、嬉しい」
「ふふっ、それじゃあ──君の願いを聞こうか」
言われて、思案する。願い。叶えたいこと。私は何を望み、何を遂げたいと思うのだろう。
私は、幸せになりたい。余裕が欲しい。楽しく生きていきたい。だから──
「あいつを、骨皮を殺したい」
言葉は、するりと落ちた。私自身、まったく予期していない言葉だった。ひどく驚く。私が、言ったの?「殺したい」って。でも──
混乱は、ほんの一瞬だった。私は、再度口を開く。
「骨皮を、殺したい。あいつを、殺したい。すべての元凶を、手ずから抹殺したい。殺したい。壊したい。めちゃくちゃにしたい。殺したい。殺したいんだ」
言葉にすればするほど次の言葉は溢れ、想いは強固になる。心持ちは冷静だった。しかし私は紛れもなく殺人を決心していた。
「そうかい。そう言うと思ったよ。そう言うと思ったさ。じゃあ、決行は明日にしよう。殺人にはエネルギーが必要だし、僕にも準備が必要だ。だから、今は休むといい。それじゃあ、また明日」
瞬間、空間が光に染まり──
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「痛っ……」
目が覚めたのは、痛みがきっかけだった。場所は玄関。そうか、帰ってきてからぶっ倒れたんだ……。それを思い出し、そして。
「やっぱり、夢だったか」
私は、強く落胆していた。あれは追い詰められた私がつくりあげた虚構。そんな都合のいいことなんて起こらない……か。
そんなことを考えていると、ふと気付く。外がやけに明るい。時刻を確認しようとスマホを取り出すが、電池が切れている。
「……っ、こんな時に!」
イライラしながらも時計を確認すると──10時。始業時間だった。
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「最悪な1日だった……」
布団の上で大の字になりながら、呟く。
ガッツリ遅刻したせいで午前中はこってり上司の
「そう考えると、最悪とも言い切れないか……」
そしてありがたいことに、今日は眠気もある。ふんわりと意識が遠のいてゆく。
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白い無機質な空間。そこに投げ出されて初めて私は思い出した。今日が決行日であることを。そして知った。これは、昨夜の続きだと。
当然のようにそこにいる青年は、こう口を開く。
「昨日ぶりだね。なんだいそんなに驚いた顔をして。約束したじゃないか」
「そ、そうなんだけど、本当になると思ってなかったから……」
「まぁ、初めはみんなそう言うよ。だけれど、今日を境に信じられるようになるよ」
そう言うと青年は、慣れたように指を鳴らす。すると、何もないはずの空間から白い寝台に載せられた骨皮が現れた。ピクリとも動かず、目も閉じられている。「まな板の上の鯉」という言葉が浮かんだ。
「さぁ、それでは今日君にはこいつを絞め殺してもらう」
青年は、こともなげに言った。締め殺す、と。
「最初は、絞殺って決まっているんだよ。これから行うことがどういうことかを、人の命を奪うことを最も深く知ってもらうためには自分の手で、まさしく手に掛けることが一番だからね」
つまらない冗談を気に入ったのか、青年はくすくすと笑う。それは、悪魔の囁きのようで、やけに耳に残った。そしてその声は、私の背を押す。
「わかった」
一歩、また一歩と足を前に出す。そして、寝台の横まで辿り着いて、骨皮の顔を覗いた。「憎い」と素直に思う。ギョロリとした目も、気持ちの悪い声を紡ぐ口も、不気味なほど痩せた体も、痩けた頬も、手も足も耳も──何もかもが憎いと思った。
私は、彼の喉に手を添える。喉仏の出っ張りを感じる。それは彼の気持ち悪い男性性を象徴しているようで、ぞわりとした。手に力を込める。徐々に、徐々に。骨皮には、温もりがあった。しかし反応はない。それにもイライラした。苦しんだ表情が見たい、泣き叫ぶ様子が見たい──その想いはより強い怒りに、そして力に変わり、首を締める力はどんどん強くなった。
「……死ね」
こぼれた呟きは、呼び水だ。
「死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」
何度も叫び、その度に力を強める。そんな行為を果たしてどれほどの時間行っていたのだろうか。後ろから肩を叩かれ、私は正気に戻った。振り返ると、にこやかな青年がいた。
「殺せましたね。偉いです」
殺人をしたのに、「偉いです」というのは、普段の感性だったら絶対におかしいと思うだろうに、今の私には救いのような言葉に思えた。許されるのだと、私は何かを達成したのだと思えたのだ。
「それでは、後処理は僕がやっておくので、ゆっくり休んでください」
私は、茫然と立ち尽くすのみだった。何を言っていいのかわからなかったし、何よりひどく疲れていた。でも、後悔はない。
眩い光に包まれ、空間が瓦解してゆくのが見て取れた。それでも指先ひとつ動かす気力すらわかなかった。
そして、夜が終わる。
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