第118話

 

 ――――愛。

  

 それは多くの人間を魅了し、焦がれさせる形なき宝物ほうもつである。

 人は人として生きている限り、どういう形であれ愛を求めずにはいられない。そして、愛を自分の人生の一部にするだけでなく、愛を得るため、愛を守るためだけに生きている者もいるということをトキヤはよく知っていた。

 何故なら。

「……愛、か」

 トキヤもかつては愛のためだけに生き、そして、愛に溺れたまま――――命を終えるつもりでいたのだから。

「……」

 ホテルの浴室でモルガンに愛とは何かと訊ねられたトキヤは、自分の中に渦巻く様々な感情を深呼吸をすることで抑え。

「愛とは何か。そんなの――――人それぞれだ。としか言い様がないな」

 モルガンに一般常識としての愛を語ることにした。

「一番わかりやすい愛は男と女の関係だが、それだけが愛ではないからな。親や上司をリスペクトするのも愛だし、友人や同僚と助け合ったり、仲間の成功を喜ぶのも愛。子供や部下を心配したり見守ることも愛だ。そして、今言ったことも愛のほんの一握りの例に過ぎない。愛ってのは多すぎる、いや、万能過ぎるんだ。だから、愛というものは誰かに定義して貰うのではなく、自分でこれだと決めるものなんだと俺は思っている」

 それが俺の考えだ。と、トキヤが一般常識に当て嵌めた『愛』について話すとモルガンは、わかったようなわからないような微妙な表情を浮かべた。

「愛は万能……。……おにーさんの説明だと、この世界にあるもの全てが愛になる可能性があるってことになるような……」

「ああ、なるだろうな。路傍の石であろうともそれを誰かが愛すると決めれば、そこに愛が発生する。まあ、世間的には愛が溢れる世界ってのが素晴らしい世界ってことになってるみたいだから、愛っていうのはどこにでもあるし、幾らでも生まれるもの、ということで良いんじゃないか?」

「……おにーさん、ちょっと説明が雑ー」

 そして、自分に統合知能ライリスに入るように勧めてきた時の十分の一の熱量もないトキヤの愛についての解説を聞いたモルガンは、トキヤが説明を放り投げているのではないかと考え。

「……あたしの聞き方が悪かったのかな」

 その理由をトキヤが愛について語りたくないからだとは露程も思わず、自分の問いが漠然としていたからダメだったのではないかと考えたモルガンは。

「それじゃあ、――――おにーさんにとっての愛って何?」

「――――」

 トキヤが今何よりも思い悩んでいることを無遠慮にピンポイントで訊ねてしまった。

「さっきのおにーさんの話だと愛って自分で決めるものなんだよね? なら、おにーさんが決めた愛も当然あるってことだよね? それを教えてっ」

「……」  

 あ、もしかして、あたしかなー? と、お気楽に騒ぐモルガンとは対照的な表情を浮かべたトキヤは、今の自分にとっての愛は何だと自問した。

「……」

 トキヤがまず思い浮かべたのは自分が愛したJDアヤメであったが、アヤメの顔が心に浮かんだ次の瞬間にはシオンの顔も心に浮かび、その後にはアイリス、サン、バル、カロンの顔も心に浮かんだ。

「――――」

 そして、何人ものJDや人間のことを考え、自分が愛する者が誰なのかがわからなくなりかけ、混乱したトキヤがモルガンの問いにいつまでも答えられずにいると。


「もしかして、おにーさんも――――空っぽなの?」


 いつの間にか桜色の瞳がトキヤの顔を覗き込んでいた。

「……っ」

 浴槽から身体を出し、自分に近づこうとしているモルガンに空っぽなのかと問われたトキヤは、そういうわけじゃないとすぐに否定の言葉を紡ごうとしたが、それよりも先にモルガンが口を開き。

 

「もし空っぽなら、――――おにーさんの中に入らせて欲しいな」

 

 モルガンは、トキヤの心に覆い被さるように甘い言葉を口にした。

「空いているなら、そこを何かで埋めたいよね? あたし、凄くわかるの、その気持ち。そして、埋めるのなら、いつか消えてしまう泡じゃなくて――――いつまでも消えない誰かがいい」

 そして、美しく咲いた花のような笑顔を浮かべたモルガンは。

 

「ねえ、おにーさん。あたしの――――王子様になってくれませんか?」

 

 トキヤに――――あなたが欲しい、と、甘く囁いた。

「……」

 モルガンの濡れた唇から紡がれたその言葉は混乱していたトキヤの心にモルガンが今までに語ったどんな言葉よりも深く届いた。

「……」

 だが、いや、だからこそトキヤは、先程心に思い浮かべた者達と比べればモルガンはまだまだ自分の心の中の浅瀬にいるということを理解し。

 

「モルガン。俺はJD専門の技術者だ。――――王子様なんかじゃない」


 トキヤはモルガンの誘惑をあっさりとはねのけた。

「……JDの技術者……?」 

 そして、モルガンに誘惑されたことで逆に心が落ち着いたトキヤは、冷静になった頭でモルガンとの会話を続けた。

「そうだ。そして、一応は責任のある社会人でもある。そんな俺がこれからすべきことはお前とじゃれ合うことではなく――――寝ることだ」

「――――寝てくれるの!?」

「……普通に睡眠を取るだけだ。本当に寝るからそろそろ出るぞ」

 と言ってトキヤは文句を言うモルガンの身体を持ち上げ浴室から出た。

 それからトキヤはモルガンの身体をよく拭いて、服を着せ、髪を乾かした。その作業中もモルガンは愛についての問答を続けようとしてきたが、トキヤはもう寝るからとスルーし続けた。

「……愛の一番の敵は仕事なのかも」

「はは、まあ、そうかもな」

 そして、トキヤが急に寝ると言い出したのは朝から仕事があるからということを知り不機嫌になったモルガンと共に洗面所から部屋へと戻ったトキヤは、一つしかないベッドと小さなソファーを見比べ。

「それじゃあ俺はソファーで寝るから、モルガン、お前はベッドで休んでろ」

 トキヤは迷うことなく睡眠を必要としないモルガンJDにベッドを譲り渡し、ソファーに向かったのだが……。

「……なあ、モルガン。なんでお前までこっちに来るんだ?」

 何故か自分と同じように迷うことなくソファーに向かうモルガンにトキヤは声を掛けた。

「おにーさんがソファーで眠るなら、あたしも一緒にソファーで休む」

「……俺がベッドで寝ると言ったら?」

 もちろんベッドで休む。というモルガンの迷いのない返答を聞いたトキヤは、自分とは別の場所で休むようにモルガンを説得するのはだいぶ時間が掛かると考え、大事な会談で頭をしっかり動かすためにも、最低でも二、三時間は寝たいと本気で思っていたトキヤはベッドをじっと見つめ。

 ……シングルベッドとはいえ、子供みたいな体格のモルガンとなら無理なく入れるか。

「……わかった。じゃあ、ベッドで寝よう」

「はーい」

 説得に時間を掛けるよりも睡眠を優先すべきだと考えたトキヤはモルガンと一緒にベッドに入った。

「おやすみ、モルガン」

 そして、すぐに電気を消し、トキヤはモルガンにおやすみと声を掛けたが、何故か返事がなく、その事をトキヤは少し不思議に思ったが、あまり気にせずそのまま目を瞑り、眠りにつくまでの間、朝起きてからの予定を考えることにした。

 ……まず考えるべきは、こいつ、モルガンをどうするかだよな。戦闘用JDであるモルガンのことを俺の護衛であるバルやアイリスに教えることはできない。通常のJDならともかく、戦闘用のモルガンJDが俺の側にいるなんて状況を知ったら、護衛という立場上、無視はできないだろうからな。だから俺が会談に行っている間、モルガンにはこの部屋で待っていてもらって、会談が終わった後、本当ならアイリスのためにこの国を観光するつもりだったが、それを中止して、こいつとじっくり話し、モルガンが反政府軍のモルガナイトであるかどうかを確認しよう。それから……。

「……」

 そして、トキヤが目を瞑ったまま、ぼんやりと考え事を続け、ようやく眠気が強くなってきた、そんな時だった。

「……?」

 自分の隣でモゾモゾと何かが動く感触を得て、トキヤがうっすらと目を開けると。

「……モルガン?」

 トキヤは自分の横で休んでいた筈のモルガンが、自分の身体に馬乗りになる瞬間を目にした。

 そして、暗闇の中、トキヤと目が合ったことに気づいてもモルガンは動くことをやめず、桜の花びらのような瞳を輝かせながら、その小さい手を前へと出し――――


「あはっ」

  

 モルガンは笑いながら。


「――――」

 

 トキヤの細い首を絞めた。

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