第213話 調印式と子宝と
天正十九年 冬 伏見 伊藤瑠璃
「……ということで、旦那様は行きたくもない京の六波羅に呼ばれておるのじゃ。大事な妻を伏見に残してな!瑠璃様からも言うてくれぬか?身体の調子が悪い妻を置いて行くなと!」
「まぁまぁ、茶々殿も秀吉殿を許してあげなさいって。確かに、朝廷の話で武家を呼び出すというのも失礼な話だけれども、元号の付け方が云々って話じゃ、流石に大老が足を向けざるを得ないでしょう?」
「むぅ……それはそうかも知れぬが……私は寂しいのじゃ、瑠璃様」
朝鮮に百済王朝を復興し、日ノ本の王家が飛鳥の御世の習わしによって選定家の一角を占め、彼の地では「
また、同時に中華と肩を並べる仕組みをと、今までの元号の付け方から、一世一元の明朝のやり方に習うこととしたそうで、そのあたりの朝議とやらに大老が出席を求められた。
そのあたりのことは、どうぞご勝手に……という方針を私たちは持っているのだけれど、こと元号は日ノ本で統一しておかないことには無用の混乱が起きるということで、形の上での意思統一の儀式を六波羅の朝廷?で行うことにしたらしい。
六波羅の屋敷って景貞大叔父上が建てた仮宿だったのよね、確か……。
まぁいっか。
ぽんっ、ぽんっ。
床から身体を起こした姿勢で眼を潤ませてしまった茶々殿。
なんとも庇護欲をかき垂れる仕草にやられた私は、気分転換も兼ねて、思わず頭を優しく撫でちゃった……。
茶々殿と私って一才しか違わない筈なんだけど……十姉妹の末っ子として生まれて、一応の形式上ではの九女、彩芽ちゃんの姉扱いにされているとはいえ、やっぱり末っ子なのよね、私って……妹とか、新鮮な存在過ぎて愛おしいったらありゃしない。
「はい、はい。今日は私も一緒の部屋で寝てあげるから、そういう暗い顔は止めなさい」
「おぉ!それは嬉しいのじゃ!」
えへへ、とばかりに顔を私の胸に埋めて来る茶々殿……。
何なのかしら!この可愛すぎる姫様は!
「で、身体の調子が悪いってことだけど、どんな感じなの?」
「なんというかからだが熱っぽくて、食欲が出ぬのじゃ……胸の辺りもむかむかして……体調が悪いとしか言いようがない……」
なる程ねぇ……。
軽めの風邪でも引いたのかしら……。
「食べるのが大好きな茶々殿に食欲が出ないとは大変よねぇ……って?」
うん?
食べるのが大好きな人に食欲が出ない??
なんだろう……姉上たちのことが思い出されて……?
「えっと……その……茶々殿?ちょっと聞きにくいんだけど……その……秀吉殿とは褥を共にしてる?」
「む??何を言っておるのかはようわからんが、旦那様はちょくちょく私の部屋で夜を過ごしていくぞ?」
「ああ、ええ、そうね、そうなんだけど……なんというの?その裸で……」
……女同士とはいえ、こういう話はちょっと照れちゃうじゃない。
一応、私は武家の娘ですからね、相手が出来ぬうちはそういうこととは無縁ですから……。
「はっはっはっは!瑠璃様も何を照れておるのじゃ?私と旦那様は正式な夫婦じゃからな、夜に一つの部屋で寝起きするとなれば夫婦の営みもあろうぞ?……と、あやや??……私の体調はそういう??」
可能性は高いわよね。
「まだ、可能性の域を超えたわけじゃないけれど、その線で一回お医者様に診てもらった方が良いんじゃないかな?」
「お、おおぉ!……なんと……私が母になるというのか……ちょっと理解が追いつかないのじゃ」
いや、なんというか私も理解が追いつかないわよ?
でもいいじゃない。
妹に子供が出来るのも、目出度いことよ?
1592年 天正二十年 春 伏見
そういや、天正も二十年になったんだね……。
俺が死んでから二十年か……なんか良くわからない言い方だけれど、そういうことになるんだよね。
意外と時が流れていたもんだよ。
「では、ここに大友様より続いて大老の皆様のご署名を……」
今日は伏見城の大広間で、日米友好通商軍事同盟の調印式が行われている。
ペリーさんの黒船をすっ飛ばすこと三百年程……。
年末に利益をアカプルコに派遣しただけなんだがなぁ……。
確かに、ルベン殿を日ノ本に連れてきたおかげで、物事はとんとん拍子に進んだ。
向こうとしても、勢いでスペインからの独立は果たしたものの、先の世の……この場合は数十年、数百年規模での、その展望が見通せなかったらしい。
そんな暗闇の中に現れた利益、日の丸と片喰の旗をたなびかせた九律波は、彼らにとっては神の啓示、大いなる手助けの光明に映ったそうで……。
それこそ二十年程前に、大陸の悪党海賊共を一網打尽に討ち破った前田慶次郎利益の顔と名前が齎す影響力というのは大したものだったらしい。
そんな今回の日米友好通商軍事同盟の肝はこんな感じ。
・ 日本と亜米利加は互いを友とし、敵を同じくすること。
・ 互いの国に互いの水軍基地を持ち、装備の融通を通じ、練度を高め合うこと。
・ 互いの国の船籍を持つ船には入港税を掛けず、関税については最恵国待遇とすること。
・ 銅貨、銀貨は共に同価値とし、円を規準とする含有率で江戸銀座の許諾の下に鋳造を行なう。
とまぁ、こんなところかね。
軍事力の後ろ盾になりましょう、装備の融通も行いましょう、だけど通貨発行は江戸銀座の支配下ですよ……という、だいぶ力関係がアレな条約である。
今のメキシコ銀貨は、どちらかと言えば高品質の貿易銀としての役割が強い。
なもので、亜米利加国内では鉄銭や銅銭に低品質銀銭なんかが混じって使用されているのだそうだ。
そこの所に、俺の方から「円」を使えば、貨幣の改定が行われ、日本との貿易も簡単に出来まっせ、国内経済にも規範が出来まっせ……と吹き込んだ次第だ。
実際に、この時代の国として建つには貨幣制度の制定は重要なところだしね。
軍事同盟と引き換えに……って、わけじゃないけれど、トータルパッケージとしてこの辺りの話を盛り込んだ。
ルベン殿もどちらかと言えば、海の男であり、この時代の海の男としての政治経済の原則は抑えているが、利益の武威と十文字嫡流の獅子丸さんの威光には異を唱える気など微塵も起きなかったようです。
でも、俺としては不平等な条約を押し付けたつもりは無いよ?
全てにおいて、「問題が生じた時は応相談」にしてあるし、係争事には共同して作成する「太平洋法」を適用すると明記していますから!
……まだ、太平洋法って存在してないけどね……。
まぁ、まだ法律は存在してないけど、当家の大天才、冨賀田介君なら満足いく法典を作り上げられると信じている!
頼んだぞ!!田介!!
「では、最後に上様のご署名を……」
「うむ……」
仁王丸はそう進められ、「日本国 伊藤元清」と署名をした。
この署名だが、実はちょいと揉めていたのであった。
……要するに、肩書と本姓などをどう扱うかという問題だ。
それこそ、足利将軍家の時代なら、「日本国王 源の誰それ」とかが署名となるのだろうが、幕府という存在は露と消え、朝廷の権威も歴史の彼方、という現状ではこれが中々に難問であった。
そもそもが、この東アジアで「王」と言えば、どうしても「中華皇帝」の冊封体制に組み込まれて見えるし、「皇」とか「帝」とかを使うと明帝の周りも騒ぐだろうし、京の王家・公家も騒がざるを得ない。
そこで、出て来た仁王丸の解決策が「肩書何も無し!」であった。
面倒なことなら、その面倒事を切り捨ててしまえというものだ。
中々に斬新な考えで、これには大友家初め、大老家や当家の家臣団も唖然とした。
唖然とはしたが、これは考えようによっては強烈な宣言である。
国名と人名。
つまりそこには何の介在も無く、二つの「名」は等しく言い表せるものとなる。
皇帝も帝も相手にせず。
これは不敬である、と見ることは出来ても、それを追求することは不可能だった。
「不敬」とは家柄・身分の格の上下を比して語られるものであり、その家柄・身分を表す物が「肩書」である。
その「肩書」を仁王丸は「不要」と切り捨てたのだ。
いやぁ、今生も親父は苛烈な考え方をするもんだね。
この圧倒的な実力を以ての傲慢さに、安中・柴田の当家の重臣爺ちゃんたちは涙を流して喜び、大友殿、長尾殿、長曾我部殿、尼子殿は最後の反抗の心を折られた。
謎な反応だったのは、徳川殿だが……竹千代君は流れる涙を抑えることもなく、ただただ頭を下げていた。
そんな経緯があったので、先ほどの署名では、大老家の人達も「源」だの「平」だのとは書いてなかったのだ。
スペイン語の署名も「ジパング モトキヨ イトウ」である。
まぁ、署名上はそうなっているんだけど、ヨーロッパ側の記述的解釈では、ジパングの前に「レイ」とか「デュケ」とか「グランデュケ」とかが付け足されるんだろうね。
こりゃ、後世の歴史家さんたちは仁王丸の肩書を巡って論争を始めちゃうこと間違いなしだよね。
天正二十年 盛夏 羽黒山 伊藤阿南
「早く湯の準備を整えぃ!」
「ああ、そうではない!必要なのは清潔な布じゃ!色やら何やらは後回しじゃ!」
「それでも阿武隈の里の女か!!お前たちが慌ててどうするのじゃ!」
……
なんでしょう。
私もこの城では何度か子を産んだはずですが……こうまで、城のお女中とは出産を控えて殺気立つものなのでしょうか?
南は自分のことや、輝、義の心配ばかりで周りに気付かなかったということなのでしょうか?
「阿南様……義母上様……」
こんなに心配そうな顔をした沙良は始めて見ますね。
ぎゅぎゅっ!
南はわざと強めに沙良の手を両手で握りしめます。
「大丈夫ですよ。この城の女中は皆出産に慣れているのです。南も一丸と中丸を初め、何人もの子を産んできたんですから」
「それは……私も皆さんのことは信用していますが……私は……」
「大丈夫ですよ……」
とんっ!
「南たちを信用しなさいっ!」
強めに胸を叩いてそう安心させる。
ただ、そうはいっても……沙良が不安がるのも良く分かる。
沙良は今年で三十三歳。
その年で初めての出産です。
南は初産が十三、最後の瑠璃が二十六の時でした……。
それに加え、沙良は……。
「でも……私はこれまでに何人も子供を産んであげられなかった……」
そうなのです。
沙良はこれまでに、何人かのややこを身ごもりはしましたが、その全員が流産してしまいました。
そっ……。
今度は沙良の頭を優しく抱いてあげます。
南も悲しい気持ちになった時には、勿来の義母上からも、米沢の母上からも、こうして優しく頭を抱いてもらったものです。
「そうですね、それはとても辛いことです。……でも、今回のこの子は元気にここまで沙良のお腹で生きてきたのですよ?きっと、この子は兄上や姉上の分の命を分けられているのです。この子の頑張りを思えば、ここでもう一度、母親のあなたが気張らなくてどうしますか?……大丈夫、南はずっと見ていましたからね」
とんっ、とんっ。
そう言って南は沙良の背中を撫でてあげます。
「……うん、うん。私、頑張ります!」
南も沙良の母親の一人でいるつもりですが……本当なら、この役目はマリアさんが行うべきなのでしょうね。
ですが、マリアさんはこの数年、身体が弱くなってしまって、館山の城から出ることが出来ない状況です。お見舞に行く度に、気丈に振る舞ってはおられますが……。
いえ!大丈夫です!
きっと、元気に産まれる沙良の子供達を連れてお見舞いに行けば、病魔なんかは即退散です!
「……くっ、うっ……う、ああぁっ!」
ぎゅうぅぅっ!
急に沙良が南を掴む力を強めてきました!
「阿南様!手を!沙良様のお手を握ってあげてください!!」
こく、こく!
どうやら陣痛が始まったようです。
この波は実際の出産までに数回来ることもありますが、この沙良の感じは……始まったようですね。
「破水したようです!」
「布と湯を絶やさぬように!!良いですね!」
「「はいっ!!」」
部屋に入っている女中さん達も気合を入れ直します。
……
…………
「んぎゃぁ……んぎゃぁっ!」
あれから、どれ程の刻が経ったのでしょうか。
沙良は無事に珠のような女子を産みました。
ふふふ……。
贔屓目かも知れませんが、旦那様によく似た愛くるしい赤子です。
髪の色は沙良に似て、綺麗なはちみつ色ですが……っと?ううんっ?
「ぐっ……うっ……はぁっ!」
胎盤が出ないから苦しい……?
ではない!!
これは!!
「あなたたち!!気を引き締め直しなさい!!沙良様のお腹にはもうお一方いらっしゃいますよ!!」
ああ……なんということでしょう。
沙良も南と同じく、初産で双子だったのですね!
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫」
辛いでしょうが、赤子を産み落とせるのは、この世で母親ただ一人だけなのです。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ」
南の祈りなんか、何の役に立たないのかも知れませんが、南に出来ることは、こうして沙良を励まし続けることだけです!
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫!!!」
……
…………
「すうぅ……すうぅ……」
命を賭けた女の戦いを終えた沙良は、疲れ切ってはいますが、涼やかな顔と寝息を立てて眠っています。
「よく……よく頑張りましたね、沙良……」
南も感動しすぎて涙が枯れちゃいました。
「ええ、本当に……沙良様もお年を召してからの初産で、しかも双子とは……ご立派でございました」
この場の指揮を執ったこの女性は忠清殿の奥方です。
南の時もお世話になった、百戦錬磨のお女中頭さんです。
「早速、鹿島神宮で御祈祷なさっている旦那様に知らせをせねばなりませんね」
「はい、阿南様。抜かりなく、沙良様が愛くるしい姫君をお二人お産みになったことを伝えさせます」
「頼みます……」
そういえば、沙良ちゃんには話してなかったですね。
こちらで予め子供の名前を決めておかなければ、旦那様は勝手に花の名前を付けてしまうだろうと……。
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