第98話 王者以民為天
元亀四年 秋 古河 伊藤元景
「おほほほ。かようなわけで、此度は改元を行い、これよりは「天正」と相成り申した。君以下為基、民以食為天、正其末者端其本、善其後者慎其先……」
「王者以民為天、民者以食為天……ですか」
「ほほほ。流石は信濃守殿。名家伊藤家のご当主は伊達ではおじゃりませぬな」
「お褒め頂いて恐縮ですが、これらの言葉は当家の勿来に来ている料理人が格言としているのです。民は食を以て天と為す……領民を飢えさせることこそを領主は恥ずべきであると」
陳さんったら、一緒に来た明人の書道家に書かせたものを勝手所に貼ってるものね。
……杭州だったかしら?陳さんはそこの総督府で厨房を任されていたとか言っていたわね。その時の総督が酷い悪政を敷き、中央も度重なる民の陳情に耳を傾けなかった。だから、国を捨てたと……。
王は民を以て天と為し、民は食を以て天と為す。
願わくば、天正は多くの領主が領民を慈しむ時代になって欲しいものね。
「と、まぁ、改元をしたわけなのじゃが……」
「……寄進ですか……」
「おっほほほ。話が早くて助かるぞい。信濃守殿。畿内からでは十分な寄進が集まらなくてのぉ。西の大友家には一条殿が、東の伊藤家には麻呂が頭を下げに来た。……ということでおじゃる」
「はぁ、なによりの関白殿下からのお話しであるのなら、当家としてもお断りするわけにはいかないのも事実ですから……して、幾らほど?」
「改元と内裏、宮中の修復・整理に年越しの費え……総額で八千貫文程……」
「では、当家と大友家で折半の四千で……」
「忝い!伊藤家の尊王の志、日ノ本の民を思いやる気持ち、この晴良、深く感じ入るところでおじゃる」
関白殿下のこの食いつきよう……流石に丸々四千を出す気は無かったのだけれども……。話初めはその半分の二千でも良かったかしらね……。
「そうそう、その四千でおじゃるが、金銀だけでなく、三國通宝を多めに混ぜて頂けるとありがたいのでおじゃるが……」
「三國通宝を?」
「左様、三國通宝でおじゃる。……ご存知かも知れぬが、洛中を始め、堺や畿内では銭が不足しておりましてのぉ。東国での実績があり、見た目も涼やかなる三國通宝を麻呂達にも融通して欲しいのでおじゃるよ」
「はぁ、そうお考えでしたら、我らとしてもお断りするいわれは御座いませぬ」
太郎丸も信長も畿内の銭不足は深刻で、民の暮らしはどうにもならない様子だと言っていたわね。
我らの貨幣を欲するまでに、畿内は深刻な状況だということね。
「いや、有難い。有難い。……して、有難いついでで麻呂から一つ。此度は美濃の斎藤家が伊藤家に対し新たに臣従したとのこと、目出度いことではあるが少々注意をした方が良いでおじゃろうな。斎藤家は問題なかろうが、徳川はどうにも近衛と一向宗が深く家康殿と結びついている様子。前関白と本願寺法主は西国のどこかにおられるようじゃが、頭目を失った近衛と一向宗は何をするかわからぬでおじゃるからな。後見様への暴挙のような、直接的なことはしないとは思うのでおじゃるが、末端にふさわしい工作をしないとも限りませぬぞ。長尾家、佐竹家、伊達家の皆様も十分にお気をつけられるが良いでおじゃろうな。それでは、麻呂はこれで……そうそう、薬はいつものように持って参りましたからの、後見様にはどうかお大事にと……それでは、これにて……」
「わざわざのお出で、ご苦労様でございました」
「おーほっほほ。宮中の行事取りまとめ以外は、こういう下向こそが麻呂の仕事でおじゃるよ」
……四千貫文、大金だものね。
当家以外からも集めるでしょうから、全部で六千は集金したい腹積もりかしら?
今年は出したから、来年末は渋るわよ。
1573年 元亀四年 秋 勿来
「……関白殿下は今年の集りに三國通宝を所望したようだぞ?」
「三國通宝をか……んぐっ。んっん。……なんとも、苦くて小さい丸薬だな」
「そう、文句を言うな。その薬のおかげを以て、ここまで回復をしたところもあるのであろう?」
「どうなんだろうな?俺は医師でも薬師でもないので良く分からんが、確かに関白殿からの薬を飲むことで目が覚めたことは事実だからな~。多少は症状の軽減に役立ったのかも知れんな」
俺に医学の知識は無いからな~。
この時代に飛ばされることがわかっていれば、医学書でも丸暗記しておけば良かったと思うね。
「家庭の医学」でも暗記しておけばだいぶ違っただろうけど……まぁ、基礎科学が発展していないこの時代ではそこまで万能でもないか。知らんけど。
「話は戻すが、三國通宝を渡してよかったのか?」
「う~ん、どうだろうな。俺が思うに一長一短じゃないかな」
「む?一長一短とはどのような意味ですかな?後見様」
秀吉は俺から「奥州の内政を」という話を聞いた後すぐに、自分の居を権現堂から、この勿来へと移した。
権現堂の方は部下の
年は二十そこそこながらも、周りの者の意見を良く拾い、人を纏める才に優れているのだという。
これまでの奥州の軍政は城単位で、それぞれの城主、城代にある程度の常備兵を預けて運用する形としていたのだが、景基と信長の話し合いで、今後は羅漢山、羽黒山、勿来の三城に常備兵を集め。それ以外の各城には、事務方と警護兵だけを置く形に改めることにしたという。
確かに、これまでの編成は拡充、開発が主目的の一種「屯田兵」的な意味合いを持たせたりもしていたからな。
十分な開発が行われ、田畑や産物を作る領民が揃った伊藤家の領内では、兵力は集中して管理した方が、色々と便が良いだろうな。
うん。俺も賛成の政策だ。
「で、一長一短というのはな。単純に三國通宝が東国だけの貨幣で無くなってしまうことに長所と短所があるということだ。現役関白が使用を認めて畿内に持ち帰る、これは各地方の領主どうこうに関係なく、日ノ本で三國通宝が「使える銅銭」となったに等しい」
「そこを聞くとなんとも結構なことに聞こえますがの?」
「そう、この点は結構なことなんだけれどもだ。日ノ本の通貨になってしまったために、東国の通貨ではなくなってしまったのが短所の一つだ」
「??何か当家にとっての不利益がありますかの?」
キョトンとする秀吉さん。
確かに、この辺りの貨幣から通貨の話は信長や清としかしていなかったかな?
「東国の通貨というのは、東国の力を反映する物で……っと、その前に「貨幣」と「通貨」の違いは分かるか?」
「違いでございますか?……正直わかりませぬ」
「ふむ。……俺もそうやって、改めて「違い」と言われるとようわからんな。なんとなくは使い分けておるが……」
貨幣と通貨、諸々の第一歩になる点だよね。
「三國通宝、これは銅銭であり貨幣であり、東国での通貨だ。んで、変わって……吉法師?なんか他の銭持ってる?」
「ん?まて、今財布を漁るわ……おう。この束には明銭と宋銭が混じっておるな」
「よし、ではこの明銭、これは銅銭であり貨幣であり、明で作られた大陸と日ノ本の通貨だ。宋銭、こちらも銅銭であり貨幣であり、宋で作られた大陸と日ノ本の通貨だな」
「む?なんとなく……」
「そして、ここに現物は無いが、甲州金を例に取ろう。甲州金は額面が書かれた貨幣であり、甲斐武田の通貨だ」
「お!なんとなくわかったぞ!」
流石の信長公である。
「つまり、儂が先年に花押を押した証文、堺の商人どもに渡した米・小麦の先物の買い付けに関する証文、これは貨幣ではないが通貨であるということだな!」
「その通り!」
「おお!お?……なんとなくはわかって来ましたが?」
「つまり、貨幣とはその物自体に一定の価値がある銭……この場合は一定の価値であって額面やら流通の価値ではないぞ、……まぁ、そういうものであって。通貨とは、その物自体に価値がなくとも、ある場所では銭や金銀などの富と同等にみられる価値を有する物。ということだ」
「むむむ?それでは、紙に後見様や信長様の名前を書いておけばそれは?」
「ある程度は、通貨としての価値を持つであろうな。……そういうことだな?太郎丸よ」
「そういうこと。実際に、堺では証文のやり取りや、一部の領主は戦札なんかも出しているんじゃないかな?つまりは、こういった広く富のやり取りをするために生まれたものを通貨と呼び、価値ある形の物の貨幣と区別するってわけさ」
簡単に言うとね。
「では、銀子や金子などは貨幣ともいえるので?」
「そうだね。一定の形に揃えられたものは貨幣と言って差し支えないだろうね。ただ、多くの金子銀子は重さで価値が量られるから貨幣というのとはちょっと違うかな?反物とかもそう言った意味で流通している部分があるね」
「なるほどな……太郎丸は三國通宝を東国の通貨とすることで、その価値を東国で決めてしまいたかったということか」
そういうことです。
「ああ、三國通宝が偽造銭や悪銭なんかと同列で語られるようになるのは嫌だったんだがな。……だが、結局は銅銭は銅銭だからな。これからの銀貨や金貨の地ならしと考えれば、そう悪い話ではないだろうさ」
「なるほどな。金銀を使えば甲州金のように額面を書いた通貨を作れるということか」
「ほほぅ!それはなんとも素晴らしい。これまでは銅銭一枚、一文を規準にしていたためにどうしても事務の桁がややこしゅうて、ややこしゅうて……別の単位が使えるのでしたら、これほど有難いことは内政を専門とする儂にとっては……なんとも有難い話ですわい!」
京都は伊藤家の鬼門だし、公家も近衛の一族に殺されかけた恨みがあるから近寄りたくはないけれど、こと、経世済民、天下万民静謐のためなら、ちょっとは毛嫌いしないでお付き合いをしていくのも吝かではないかな?あの関白殿下ならば。
ぐぶっ。
ん?
「どうした?太郎丸よ?疲れでもしたか?」
「いや?そういうわけでもないのだが……?」
ぐぐっぐぶ。
「ごほっうぉっほ!」
唾でも飲み込んでしまったかな?
ちょっと苦しいな……。
「おぅっほ!おっほごっごっほ!」
「太郎丸!おい!誰かある!誰かある!!輝殿はおらぬか!!」
ははは。
止めてくれよ。吉法師。そう喚かなくても大丈夫さ……。
元亀四年 xxxx xxxx
「おお!お戻りなさりませ、殿下!」
「ほほっほ。ただいまでおじゃる。しかし、内裏も宮中もこの数年でだいぶ過ごしやすくなりましたのぉ?」
「これも殿下と一条様がお見事な手腕を見せておられるからで……」
「まこと、まことでおじゃりまする」
「当家もこれまでは隙間風が厳しかったものですが、今年からはなんとか……まさに、殿下のお力にただただ感服する限りでおじゃる」
「おーほっほほ。それほどでもないでおじゃるよ。これもひとえに皆様方のお力添えのおかげでおじゃる」
「……されど、今年の改元には近衛殿の伝手を使って徳川殿が寄進をしたとか……?」
「ム?それは初耳でおじゃるな」
「然り、然り、麻呂もとんと聞いた覚えがありませぬぞ?」
「いえいえ、どうにも近衛が家礼の流れで……」
「万里小路か!!」
「なんという!!」
「麻呂達をないがしろにしおってからに!!」
「……まぁまぁ、落ち着けなされ。近衛も帝に寄進されたというのなら、此度の改元と天正二年を迎える諸々。麻呂たちが指図せねばならぬ事が増えてしまった。……ということでおじゃろう?忙しくも費えのかかる仕事が増えてしまったということではないでおじゃるか」
「お~ほほほ!左様でおじゃるな」
「流石は殿下。冴えておじゃりますのぉ」
「左様左様。それでは、早速にも費えの使い道を麻呂達で吟味せねばなりますまい」
っどどっどっどどど。
「む?なんでおじゃるかな?」
「洛中に忍び込んだ武家などではあるまいに……」
「宮中でかような無作法を……」
「で、殿下!大変でおじゃりまする!」
「なんでおじゃるか?前関白が亡くなったか?本願寺法主が首を括ったか?」
「い、いえ、西ではなく東で!!」
「東??徳川の若造が父祖の霊に呪われでも……」
「い、伊藤家のこ、後見殿が……毒を盛られてご危篤との知らせにて!!」
「な、何じゃと!!!」
「な、なんぞ、殿下はそのような薬を?」
「するわけなかろう!伊藤家は大事な金蔓じゃ!大事にして、長年養ってもらわねば宮中が……」
「そ、それが。どうやら、殿下から頂いた丸薬を飲んでから体調を……」
「む?丸薬?……近衛の毒の解毒薬は丸薬では……」
「恐れながら殿下。その薬を用意したのは誰でおじゃるか?」
「それは決まっておろう……丹波の……ま、まさか!」
「近衛の手が届いてしまったのではないでおじゃろうか……」
「そ、そんな……」
「「で、殿下!!」」
「い、いや……麻呂のことなどどうでも良い!!早う、誰ぞしかるべきもの古河に送らねば、あの鬼婆が軍勢を率いて山城を焼きに来るぞ!!」
「ひっひぃ!」「なんと恐ろしい!」
「そ、そうじゃ……まずは息子を送ろう。信濃守殿は幼子には甘いご様子であったのじゃ。皺首が参るよりはまずは童を送り込もうぞ!」
「し、しかし。それで信濃守の怒りは収まりましょうか……」
「そ、そうじゃな……あとは誰ぞ主犯を差し出さねばならん……近衛は軒並み逃げ出しておるしの……流石に典侍を差し出すわけにも行かぬであろうぞ……」
「では、父上。ここは麻呂が古河に行くと同時に、誰ぞ丹波の武士の首を携えましょうぞ」
「た、丹波の?」
「左様でおじゃる。此度の事件、主犯は前関白近衛前久、手足となったのは丹波乱波と波多野家の誰ぞにしてしまえば……」
「た、確かに、主犯は間違いないであろうし。実行犯も丹波乱波でおじゃろうが……」
「その手足を探す手間を省くのでおじゃる。丹波は三好が攻めたいと常日頃言っていた土地。此度の一件をその丹波征伐を許す名分とするのです。……いっそのこと、波多野の一族の主だった者を京に呼び寄せ三好に討ち取らせれば……」
「な、なるほどでおじゃる。若様の仰る通り、利が筋を押しのけて、すべての罪は丹波になるでおじゃるな」
「よ、よし。ひとまずはその策で行くでおじゃる。皆も力を貸してもらうでおじゃる。さもなくば伊藤家の軍勢により麻呂たちの皺首が三条河原に……ひ、ひぃっ!」
「そ、そうでおじゃる!一刻も早く動くでおじゃるな!」
「敵は丹波でおじゃる!!」
ばたたたたた!
「ふんっ!皺首共には一早く退場して貰わねば、麻呂のような利発な若者が困るのでおじゃる。上がつかえると大変なのでおじゃるよ」
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