第86話 里見狂乱 ~後編~

永禄十三年 中秋 箕輪 伊藤伊織


 「伊織様、此度は助かりました」

 「しかし、我らもこの数年で一番ひやりとしたのが、敵の大軍などではなく大雨と河川であったとは……」

 「左様ですな。父上……しかしこれで我が軍もすぐに上総に向かえましょう!敵は里見だとか……越中では食料の運搬から砦改修の手伝いまで手広くやってくれた有難い仲間と思っていたのですがな~」

 「ほう。里見は後方を担当していたとは聞いておったが、前線までにも兵を回しておったのか?」


 ええ……、私も父上と同じ点に引っかかりを覚えますね。

 上杉家への侵攻作戦で、里見家が担当していたのは酒田から先の兵站を海上から支えること……確かに、運用面からは港から前線まで輜重隊が運んでくれれば最善、とはいえますが、そこまでの兵数を回していた?


 「確かに里見の兵があなたたちの場所にまで物資を運んできたのですか?……すみません、忠清。地図を持ってきますので、少々詳しく話を聞いても?」

 「もちろんですとも、伊織様。疑問があるのならば何でもお聞き下され!」


 忠清に質問をする前に、自分の考えを纏めたいので、父上の近侍の者に地図がある場所まで案内して貰って取りに行きます。


 ふむ。これまでの国力と風魔の報告から、里見の最大限に徴兵を掛けた総数は四万を超えたあたり。最大運用可能兵数が二万程度とみていましたが……伊勢攻めに動かした船の数から考えて七八千を超えたところだと考えていましたが……。


 生実周辺の兵は義弘殿と一緒に小弓城に籠り切り、また、対佐竹の警戒から動かしていなかったはずですので……これは里見本領にはまともに戦える兵は残っていないのでは?


 「ああ、お待たせしました。申し訳ありませんが、当家が抑えていた場所、里見の兵が運んでくれた場所などを地図を見ながら教えて頂けますか?」

 「はい。まず、初めの頚城郡攻めに関しては各軍共に北条城からの進発で、補給も直江殿の差配で受けておりました。伊織様とご隠居様の疑問にお答えするのは越中に入ってからと思いますので、そこからお話しをさせて頂きます……まず、当家が受け持ったのは越中西部。畠山が恭順を示したと同時に明け渡した高岡の城と、倶利伽羅峠の城です」

 「この地図で見る限りだと……この福光、ですかこの辺りの城と神通川の上流、蟹寺あたりの城までも里見が?」

 「いや、蟹寺城は飛騨経由で真田殿が自ら手配されておりました……だが、福光城は……」

 「なんじゃ、忠清。お主も還暦過ぎて記憶が怪しくなったか?」

 「そう揶揄わないでくだされ。それに還暦を過ぎたのは父上で、私には十年先の話です……お!そうですそうです。私が倶利伽羅の砦におった時に兵糧を届けてくれた里見の将、たしか酒井敏房さかいとしふさ殿!今年還暦を迎えたと言っておった彼が、帰りしなに言うておりましたな。これから福光まで届けた倅の部隊と峠の下で合流してから高岡の湊まで戻ると……」


 なるほど……そうなると、越中の北から西、西南と国境をぐるりと一周していますね。線で描けば遠いところで片道十五里程度、しかも複数の部隊で運用していると……。


 「ご隠居様、伊織様。この情報に……?」

 「兵の総数を数え直しておるのじゃよ」

 「はい。忠清から話を聞くまでは、こちらも長距離の遠征帰り、疲れ切った兵をもう一度使わなければならない……厳しい戦いになるかもと怯えましたが、これならば問題ないでしょう。忠清!」

 「はっ!」

 「将にとっては連戦となってしまいますが……、まず上杉家侵攻に向かった兵達は、それぞれの城へと戻してください。安房への侵攻には留守組の上野軍と相模の軍で向かいます。兵数も八千と行けば問題ないでしょう」


 読めましたね。義弘殿の扱う兵、多分最大で八千というところでしょう、それ以外の里見の兵は動かせません。徹底抗戦を試みる将は速戦を求めるでしょうが、それを相手にしなければひと月もせずに軍は離散するでしょう。


 満足に戦える兵も少なく、多くの兵は長期、長距離の遠征で疲労の限界。そこに満足な食料の貯蓄無し……そのような状況を力づくに解決、民からの無理な徴収を行って兵と兵糧を集めているのであるならば、更に楽に戦は終わるでしょう。どの城砦も内から門が開くでしょうね。


 「兵の帰還は領内の事務方に任せれば良いでしょう。父上、申し訳ありませんが、留守兵を編成して忠清に預け、横浜の湊まで集める手筈をお願いいたします。忠宗も兵の帰還は事務方に任せ古河に急いでください。そこで、兄上が編成している軍……少数で構わないので、それを本佐倉に向けてゆっくりと動かしてください。私もこれより相模に戻り、軍を編成してきます」

 「わかったぞ。こちらは全て儂に任せ、お主は南へ向かうが良い」

 「お願いいたします」


 これで、里見攻略は見えましたね。

 松平への備えを削らねば……などと思っていましたが、これならば、通常の編成組み換えで対応できそうですね。

 ふむ。誰が絵図面を書いたのかは知りませんが、どうやらその人は関東にはおらず、現状が把握できていないのでしょう。

 連動した策ではありますが、その全てが個別で合理性がなく、戦略を練るということが苦手な御仁でしょうね……戦は素人なのでしょう。


 太郎丸が凶刃に倒れたと聞いた時には、関東を放棄する未来をも覚悟していましたが……これならば問題なく対処できますね。

 あとは、内側を引き締めれば良いだけですか。


永禄十三年 晩秋 久留里 安中忠嘉


 伊織様の見立て通りであったな。


 大盤を信濃守様が立てられ、伊織様が仕組みを作り上げ、後見様が後押し、俺や信長殿が実践を担当する……。

 しかし、安房・上総を抑え、関東一円を所狭しと駆け回った水軍を抱えた里見家がね。

 まさか、ひと月も保たずにこうなるとは誰も思わなかっただろうな……。


 「で、義弘殿よ何か弁明しておきたいことはあるかな?」

 「……俺は……俺は……弓が……関東の……」


 俺は南を担当していたから、詳しくは解らんが、義弘殿はどうやら怪しげな薬でも盛られていたようだな。話が真面まともではないし、目の血走りと、発汗が尋常ではない。


 結局、義弘殿は館山と万喜が降伏したことを知った配下に裏切られ捕縛され、佐竹軍に差し出されてしまった。


 一部の側近以外は望まぬ戦に駆り出されていたということだろうさ。

 ともあれ、両軍ともに被害が少ない中で、こうして一応の決着を迎えたのはめでたいこと……なのかねぇ?


 「なるほど、義尚殿の言う通り、この症状はまるで輝虎殿と同じような症状ですね」

 「ええ、私も里見の者が彼を縛して連れてきたときにはびっくりしましたが……お恥ずかしい、足利の弓殿当人、もしくはその周りには近衛の手の者が入っていたようです……長年、彼女を預かっていたはずの当家でこのような……」

 「お気になさらず。ともあれ、これで、関東からはこのような化外の業を使用するような輩が駆逐されたのです。これからはより前向きなことを行っていきましょうぞ」

 「信濃守殿にそう言っていただけるとは……ありがたいことです……義弘殿を別室にお連れしろ!」


 両脇から佐竹の家臣たちに持ちあげられ、義弘殿は広間より連れて行かれた。

 最後まで、何を言っているかわからんような小声でぼそぼそと独り言を言っていたが……近衛の毒、怖いね。俺の近くでは、お見かけするのさえご勘弁願いたいや。

 北上の里から養子にした忠禎たださだ、切支丹となった娘のマリア、どっちもこんな毒とは無縁で過ごしてもらいたいもんだね。


 「では、この場で里見領の取り扱いについて話し合いたいと思うが構わないであろうか?信濃守殿」

 「はい、構いません」

 「ならば……」


 この場には佐竹家と伊藤家から参戦した者だけでは無く、里見からの降将もいるので、再確認というよりは、発表という意味合いが強いのだろうな。

 実際の安房・上総に関する両家の取り決めは事前に交わされている……はずだ。

 そうじゃなきゃ、おかしいからな、普通に考えて。


 一応は俺も鎌倉城に中丸様が就かれるまでは、事実上の城主として小机城と鎌倉城、横浜と林の湊を差配しているわけだ。まぁ、中丸様が着任してからも、俺が色々とやることになるんだろうな……勿来で見知った中丸様は童の頃までだが、特に鋭い所も無いが、童らしい気性で、好奇心旺盛だった。

 そのままなれば、実務は、そのほとんどを俺が決済しなければならないことになるだろうな……。

 後見様から無茶振りをされていたあの頃に比べれば、楽な仕事とも言えるか。


 そう言ったわけで、三浦半島を監督する立場の俺としては、対岸の安房・上総の行方は他人事じゃない。そこで、伊織様から呼び出されて、直々にこの辺りの話は聞いてはいるわけだ……。


 「……ということで、上総は佐竹家が、安房は伊藤家が差配する事、里見の旧臣はどうしても安房に残りたいものを除いて、全て佐竹家で面倒を見る。この内容でよろしいか?」

 「ええ。構いません。伊藤家としては安房、三浦、伊豆で関東の入り口の水門を抑えることが出来れば、あとは佐竹家に一切をお任せいたす所存です」

 「では、話は決まったな……皆の者!話は聞いての通りだ!これより上総は佐竹家、安房は伊藤家が治める。また、此度の一件は全て義弘殿が小弓城の者と企てた事。ゆえに小弓城の者以外には、厳しい責を取らせることはせぬ。里見家の家督は義頼よしより殿が継ぎ、佐竹の家臣として取り立てる。以上、良いな!」

 「「ははっ!!」」


 全て事前に聞いていた通りの内容で決着したようだ。

 俺も、皆と呼吸を合わせ大声で返事をし、頭を下げる。

 何事も、ある程度の儀式というものは大事にしなくちゃいけないんだな。


永禄十三年 中秋 木更津 伊藤元景


 「伊織叔父上、忠清、忠嘉。今回はお疲れ様でした。おかげで、大過なく里見攻めが終わりました」


 まったく、永禄十三年はとんでもない年ね。

 早いところこの凶年を忘れたいから、改元でもしてくれないかしら?京の人たち……。

 これほど関東で迷惑を掛けたんだから、少しぐらいは働いてくれても罰は当たらないと思うわよ。


 「本当に……。忠清たちを迎えに碓氷峠の突貫工事を行うために古河から相模へと戻った私を早馬が追いかけてきたときには……話を聞いて、正直な所かなり焦りましたからね。まぁ、それも忠清たちと合流して箕輪で話を聞いてからはだいぶ安心しましたが……」

 「ああ、そのことで少々、某から伊織様に伺いたいことが……」

 「なんでしょうか?忠清。迎えの船が木更津に来るまでで話せることなら良いのですが……」

 「いえ、どうして某が越中で見知った話から、里見の窮状を察したのかと……」


 ああ、それね。

 なんとなく、忠清が話していたのを聞いたけど……お爺様もすぐにわかったようだし、私はなんとなくしかわからないから、ここは詳しく叔父上からの講義が聞きたいところね。


 「……元景も興味芯々ですか。いいでしょう……まぁ、そうですね、とりあえずは兵についてになりますが、兵というのは大きく分けて二種類があります。武家が抱える兵と土地が抱える兵です」


 常雇いの兵、常備兵と、領民から集めた兵ね。

 これは良く分かるわ。伊藤家の場合はこの両者にそれほどの装備の差は無いけれど、練度の差はいかんともしがたいものがあるわ。だから、大きく兵を動かすときは常備兵を主力としなければ、まともな戦が行えないし、領民兵はそもそも長距離行軍なんかまともに出来ない。


 「で、ですね、そういう風に分けて考えるのは兵種や装備、能力などを基に考えた場合の分け方です。今回私が計算した一番最初の部分は、それらを分けない総兵数としての計算ですね……。総兵数はつまるところ人の数、人口で決まります。そして人口を支えるのは食料の総賄い量、つまり生産できる量と買い求める量の合計です。この、食料と人口の関係から兵として使える人間の一定の割合を使ったものが、石高から大体の兵数を計算する方法ですね。大体において一万石あたりで二百から三百となります。細かいところは大きく省きますが、この計算方法で導かれた数というのは面白いもので、実際にその時に動員できる兵数に当てはめることが出来るのです」

 「その時の??叔父上、ということは、豊作や凶作の時は?」

 「そうです。その収穫に合わせて計算できます。今の棚倉盆地の二十万石で計算してみましょう。三百を掛けると総兵が六千になりますね……」


 ん?いきなり現実と違うわね。


 「いや、おかしいですぞ、伊織様。棚倉盆地と言えば棚倉城と羽黒山城。両方合わせれば総兵力は優に一万を越えまする」

 「そう、その点がここからもう一歩進んで、私が里見家の窮状を確信できたところになります。当家の場合、実はその大部分が銭で雇う常雇いの兵です。当家の銭は商い、交易で稼いだものです。つまり常雇いの兵は伊藤家の全体の商いで養っているので、棚倉の生産力からは切り離さなさなければいけないのです……混乱しているので、詳しくは今度時間があるときにでも話しましょう。ともあれ、棚倉城と羽黒山城、常雇いの兵を抜いた兵を計算してみてください……忠清、どうです?」


 常雇いの兵を引く……あ、丁度ね。


 「……六千と少しですな」

 「そういうことです。で、その六千だけを考えた場合、動かせる数を考えると全てその年の収穫に合わせて増減しませんか?」

 「……しますな!」

 「で、里見家です。安房と上総、特に外海の方は近年の戦乱に巻き込まれていないので、長年里見家の所領であり、良く開発されています。おかげで二つの国を合わせると五十から七十万石あたり、つまり最大で運用できるのは多く見積もって二万強となります。そんな中で、里見家は義堯殿の下でざっくり一万五千の兵を船に乗せて、上杉攻めに派遣しています」


 確かに、じっくり考えてみると、色々と数の無理が出てきてそうな数字ね。


 「皆の考えている通り、ここより、陸奥を船で大きく迂回して越中で活動する軍です。正直、領民から徴兵した様な兵では務まらないでしょう。これは水軍衆と里見家が抱える常備兵のほぼ全軍と考えることが出来ます。これらの軍は常備兵、つまり義弘殿が父親を謀殺して形ばかりの当主となってすぐの状況では、一切動かすことが出来ない兵なのです。命令系統的にも物理的にもね。しかも、長距離遠征してきたばかり、一部の将が義弘殿に合力したとしても、その兵力は無視しても差し支えない程度のものしか取り回しできません。そこに、この大嵐からの凶作です。また、関東周辺の食料は信長によって買い占められています。この段階で、まともな軍事行動がとれる数字を下回っています。領地のすべての食料を生実に集めたとしても、義弘殿が本佐倉に向けた兵五千程度が、此度の限界となるでしょうね……っと、結構しゃべってしまいましたか?迎えの船が来たようですね。さっさと横浜に渡ってしまいましょうか」


 なるほど……確かに上杉攻めに参加した里見軍はかなりの兵数で驚いたものだった。越中で義堯殿と会話した時には、「今回は無理をしました」、なんて仰っていたものね。

 こうして、数字を説明されると納得だわ。


 「信濃守様、伊織様。失礼します、西よりの急報です」


 迎えの船から一目散にこちらへ来た男。

 たしか、風魔の頭領で小太郎と言ったはずよね。

 しかし、急報か……厄介事の匂いしかしないわ。


 「急報とは!?」

 「松平が動きました。此度は清康殿の旗の下、全軍を上げて関東へ攻め寄せる模様です。信濃方面には兵を出さず、全軍が東を目指すべく駿府に集結の兆しを見せております」


 今度は松平……。

 なんとも面倒だけれども、嵐の被害、里見の動き、これらが一斉に起きなくて助かったわね。

 すべてが一辺に起きたら、流石に対処できなかったわね。


 「叔父上。叔父上は伊豆に入って迎撃の指揮をお願いします。私と忠宗は古河に戻って、父上らと軍と兵站の編成をします。忠清は横浜で出来た新造艦を使って勿来まで戻って頂戴。そこからは太郎丸の判断と命令に従って頂戴」

 「「ははっ!」」


 北へ、東へ、西へと……忙しいったらありゃしないわね。

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