第85話 里見狂乱 ~前編~
永禄十三年 秋 古河 伊藤元景
秋は実りの季節。
本来であれば、古河一帯、いや、上野から相模に至るまでの至る所で、黄金色に輝く稲穂が頭を垂らしている姿を見ることが出来る。
しかし、今年はそんな光景は関東では一握りの地域だけだ。
「参ったな。どうやら、儂らの予想以上に作物の出来が悪い……まぁ、こういった状況だ。作物の収穫が出来た村人たちの多くも、自分たちの蓄えにと家の隠し倉庫にしまい込んでおるのであろうがな……」
「さりとて、兄上。当家の懐事情では、今年一年、年貢米が滞ったからといってどうにかなるような状況ではございませんからね。むしろ心配すべきは、腹をすかせた村人が高台で洪水の被害を免れた村を襲わないかどうかでしょう。やはり、ここは景藤の提言通り、無利子の五年・十年返済での兵糧米放出が良いでしょう。むろん、人別帖の通りにという形で麦や芋を混ぜつつ……」
「はい。僕も叔父上の言に賛成です。兄上と信長のおかげで、各城には村人に分けられるだけの十分な食料が運び込まれています。これを使って、人別帖の作成をより正確なものへとしていきましょう!」
なるほどね。
流石は清、転んでもただでは起きない土木奉行の要ね。
「けど、清。そうなった場合、今までは人別帖に少ない人数しか書こうとしなかった者達は、こぞっていもしない人間を作り上げたりしない?」
「たぶん。そうなるでしょうね……いや、彼らは絶対にすると思いますが、そうなった場合は兵役や賦役、雑務が増えるだけなので、結局は自分の首を絞めることになります。人別帖登録時にそのあたりの注意をしてあげさえすれば、急に人口が二倍三倍になって支給米が足りなくなる……なんてことは起きないと思います」
「なるほどね……では、その方策を取りましょう。父上もよろしいでしょうか?」
「ああ、かまわん。お前たちの会話を聞いて、儂の疑問も氷解したわ」
これで、何とか領内の食糧問題は先が見えて来たかしら……。
「で、次の懸案だけれど……竜丸の方……渡良瀬川の後処理はどうなっているの?」
「ふぅ……正直これは厳しいですね。景藤の言う鉱毒を含んだ土砂。これは足利や佐野のあたりに堆積してしまっているのですが、現地の村人が「肥沃な土壌を盗むな!」と文句を言いだしておりまして……景竜からの報告でも、鉱毒の説明も農民たちは理解しようともしない、と……」
「……参ったな。儂らも鉱毒と言われても実際に渡良瀬川で毒を見たわけではないからのぉ。ただ、昔から鉱山で働いている者達には身体を何かの拍子で壊す者が多いので、便宜上「鉱毒」と呼びならわしているわけじゃが……」
「ええ、鉱山が身近な存在で無い、ただの村人には理解しにくい話でしょう……それよりも、洪水の翌年の実りは良い。という老人たちの経験談の方が信ぴょう性が高いのでしょうね……まぁ、それも村人たちだけであればある程度は力任せに排除してしまえば済むのですが、今回は村人に泣きつかれた形となった唐沢山城の佐野殿が彼らに付いておりまして……」
……面倒なことになっているというわけね。
「佐野昌綱殿は、父の泰綱、兄の豊綱が壬生城に攻めかかった時に反対の姿勢を貫いたとして、景竜の攻略後に唐沢山城城主に任じられた人物。当家の統治方法に従い、領主としては存在していなかったのですが……やはり、こういう時には地縁がある者は担がれてしまいますね……」
「どうする?姉上?」
「そうね……集めて排除するのが、簡単ではあるのでしょうけれど……あとあと面倒と恨みを買いそうよね……」
こういう時に太郎丸はなんて言ってたかしら?
う~ん……?夷をもって夷を制す?
なんか、「夷」って、私たちの祖先を馬鹿にされたような気がして好きじゃなかったけど、こういう時には有効に働くのじゃないかしら?
「叔父上、清。竜丸に聞いて、佐野の家臣筋で鉱山に詳しい、または興味がある人は見つからないかしら?」
「……なるほど、向こうが地縁を利用するのならば、こちらも地縁を利用するというのですね。面白い考えです。見つかれば上手く行くことでしょう。早速、景竜に連絡を入れます!」
伊織叔父上のお墨付きを得られれば合格よね。
ふふ。太郎丸ったら私の記憶の中でも良く働いてるじゃない。やるわね。流石は弟の鑑!
よし!次の案件よ。
「次は……」
「帰還が滞っている当家の軍と佐竹家の軍に関してだね。流石に義尚殿は一足先に太田城に戻ったらしいけれど、佐竹家、伊藤家の本軍は一向に碓氷峠に辿り着けずじまい……本当なら、上野側からも街道の復旧を行っていきたいところだけど、上野の土木奉行所は渡良瀬川の土砂の件と洪水からの復旧で手いっぱい。重要性はわかってはいても碓氷峠に向かう箕輪-小諸の街道の作業に人員を割くことは出来ないよ」
「ふぅ……忠宗の報告じゃと、今のところは食い物もあって、目の前の作業という目標があるから何とか兵を纏めていられるが、これが何かしらの事件でも起こってしまい、食糧の配給が滞った場合には軍の維持が難しくなってしまうかもしれぬ、との報告じゃな……実際に、佐竹家の方では、幾人かの郷士どもが身の回りの配下だけを連れて離脱し始めているとのこと……やはり、多少は武蔵や相模から人員を割かねばならんのではないか?碓氷峠方面に」
「そうですね……せめて忠宗の手元に十分な土木工具が有れば、一気に兵の数でどうとでもなるのでしょうが……叔父上、清。ある程度、担当地区の復旧作業が済んだ人員、数十名単位でもいいから碓氷峠に割り振れないかしら?」
復旧作業に従事している人員には常備兵も含まれているから……あまり、西の防備を薄くするのは気持ちが良くないけれど、この際は仕方ないわよね。
「そうですね……松平への備えが薄くはなりますが、そうしないことには伊藤家と佐竹家の軍が散解してしまいますか……わかりました、これより私が小田原に戻り、大急ぎで工作部隊を組織してきましょう。何とか十日以内には碓氷峠の作業に取り掛かってみましょう……古河での土木奉行所の指揮は頼みましたよ?清」
「任せといてください!叔父上!井伊の虎さんっていう新戦力も増えたしね。ここは大船に乗った気で!」
まったく、調子の良い子ね。相変わらず。
どどたどっどた!
ん?走りまわって、何かしら?
洪水被害関係も峠を越えて、収束に向かっているはずだけど……。
「し、失礼します!
蕨から??
江戸で何か?……いや、あそこは殆ど廃墟のようになったとの報告だったものね……。
「構わん!早く寄越せ!」
「は、はっ!これに!」
ばっ、ばさっ!
父上が近侍から書状をひったくり、荒々しくめくる……。
なんと書いてあるのかしら……?
「……なんと……まずは元よ
「父上!失礼します!」
私は父上の背後に回って広げられている書状を読む。
「……なお、義堯殿は小弓城内で義弘殿に謀殺された由、
「なんだと!!」
「姉上!それでは!!」
「ええ、東下総から南で戦ね。しかも今回は義弘殿が弁明のしようもない形で始めた……佐竹は安房まで攻め取るまで止めないでしょうし、当家も佐竹家を援護する兵を出すことになるでしょう……けれど……」
そう、普通なら国力差そのままに、あっさりと里見は全ての所領を失うことになったのでしょうけど……。
「佐竹家も伊藤家も帰還中の軍、主力が間に合いませんか……どうしますか?復旧作業は一段落ついてます。徴兵をかけて当家で上総と安房を攻めとりますか?」
「……いや、この状況での徴兵は最後の手段でしょう。それよりもです。叔父上!十日と言わず、五日以内に碓氷峠の工事着手を!序盤は辛いでしょうが、元々の国力が我らと里見では違うのです。まずは、主力を手元に戻しましょう!」
「はっ!承知しました!それでは御前を失礼しますっ!」
言うや否や、叔父上は立ち上がって城の外へと駆けだしていった。
「清!蕨か
「う~ん、う~ん。ちょっと待って……いや、どっちも厳しいよ!姉上!蕨からは佐竹領の利根川が渡れないだろうし、金野井からは小金から先の道が使えない……本佐倉城に向かうなら、いっそ守谷の津から霞ケ浦を船で渡した方が早いぐらいだと思う!」
「……しかし、霞ケ浦を走るのは小舟ばかりであろう……こちらの動きがばれて、里見に上陸を待ち構えられでもしたら、目も当てられん事態になるぞ!?」
ということは、本佐倉には向かえない……ならば……。
「ここは、伊勢攻めを初めとする三国連合を相手した時に取った方針で行きましょう!」
「……つまり?」
「別の場所、本佐倉城とは反対の方角から攻める!海路から、館山、
「わかった!!」
「……では儂は土木要員を兼ねつつで、小金から東下総を臨める軍の編成に取り掛かろう。忠宗らの本軍が戻っても使える街道が無いのでは話にならんからな」
「お願いします、父上!」
これで、今のところで打てる手は打ったわね……しかし、こう、嫌なことが重なるとは……。
そういえば、こういう時にも太郎丸は言っていたっけ、最悪な状況だと思った時ほど、もっと最悪な事態が起きるものだと……なんか、そのことを旗が立ったとか言ってたわよね、確か。
でも、これ以上に最悪か……西の松平と北の蘆名……。
どちらも家督相続で不安定さは残っているわよね……やめてよ?旗とか立てたくないわよ!
1570年 永禄十三年 秋 勿来
「なるほど。里見でお家騒動か……義弘殿は小弓城に籠ってばかりだったというが……これって、輝虎殿も引っかかったあの公家繋がりか?」
「あり得るな……正直、小弓足利の庶子の姫など、誰も顔を覚えていないであろうし、周囲の者達も監視などは厳しくしないであったろうからな。草の者がその気になれば、すり替わり、なりすまし、そそのかし……なんでもできそうではある……」
だよなぁ……。
実際に彼らの刃が届いてしまった俺が言うのもなんだけど……勘弁してほしいよ。本当に。
「で、そんな里見家が佐竹に殴り込み……仕方ない、奥州軍から一万ほどを率いて万喜城を落としてくるか……報告を聞く限り、安房と南上総には兵を残してはいなさそうだし、大軍で押し寄せれば内応が効く将もいることだろう」
まだ身体がダルいけれども、今回は実際に刀を振るうことはなさそうだし、海上の船から指揮をするか……。
「おい、待て、この馬鹿殿が!」
「なんだよ、馬鹿殿とは失礼だな」
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪い……忠豪殿。済まんがこの馬鹿殿のお守りを頼む」
「お任せ下され、信長殿。陸での戦いでしたら某が率いるところですが、海からの戦いでは信長殿が率いられた方が宜しかろうと思いますな。某は奥州で殿のご一家のお守りをしますかね」
え~。留守番?
って、正直な所、この身体じゃ無理は効かないし、その方が無難か……。
「わかったよ。今回は申し訳ないが信長に指揮を頼む。姉上からは兵一万とあるけれど、勿来、小川、権現堂から陸の兵だけで一万。水軍は信長の判断で編成を頼む」
「承知した。おい、利家!」
「ハッ!」
「槍の又左衛門としての戦働きなど久方ぶりであろう、お前と慶次で兵の実践指揮は頼むぞ!」
「「お任せあれ!!」」
「ありゃ?儂はのけ者ですかのォ?信長様」
「猿よ。お前は勿来から戦の準備と補給の全てを見回せ……これは俺の予感だが、此度の動乱は里見だけでは終わらんぞ?」
「うきき!そりゃ、儂の仕事が一番の大忙しになりますな!承知致しました!」
なんだよ、吉法師。フラグは立てちゃダメなんだぞ?フラグは折れない限り、消滅はしないんだから。
「……しかし、吉法師の懸念も一理あるか……。上陸と実戦指揮に必要な分以外は船を勿来に待機させておく方が良いかもな」
「ん?自分で言っておいてなんだが、船を使う気か?どこへ?」
「西だ。最悪の事態となった場合は駿河湾だけではなく、三河の湾や熱田の湊まで大砲を撃ちに行かねばならんかもしれんからな」
松平が仕掛けてきた場合には、いっそ安全地帯と思っているであろう領内の城、拠点を潰す必要があるかもしれない。
「……そうなると、後見様。これまではまったく動く様子を見せなかった会津ももしや……」
「そうだな。可能性はある……忠豪、忠統と忠孝に蘆名の動向を注意するように伝えてくれ。多少はこちらが警戒している様子を伝えてしまっても構わん。こちらの警戒それ自体が良い牽制となろう」
「はっ、しかと!」
「……コンスル景藤。私からも良いだろうか?」
おお、獅子丸からとは珍しい!なんだ?なんだ?
俺は勿論だと、大きく頷く。
「前回の上杉攻めのオリ、里見の岡本一族とナカヨクなりました。彼らは義堯殿個人に忠誠を誓っテイタ様子。此度の騒動では……」
「ふむ。岡本一族と言えば里見水軍の要の一つ……味方に靡かなくても義弘殿も無駄に攻め取るようなことは出来まいし、試みたとすれば南に兵を振り分けることとなり、こちらとしては有難いか……」
「わかった!俺の方で接触を図ってみよう。それとは別に、太郎丸から相模に連絡を取って風魔を動かしてもらえるか?相模と安房・上総ある意味お隣同士だ、伝手も多少はあるであろうからな」
「その通りだな。了解した。早速、祥子殿と蕪木殿に連絡を入れよう……ふむ。館山は相模からと姉上は考えていたな……すると、ここは忠嘉に纏めさせるが吉かな」
忠嘉は剛柔両面に一方ならぬ才を持つからな。
臨機応変に、という指示を出すには最適任かも知れない……しかも鎌倉城代だしな!
「左様ですな。わが弟ながら、忠嘉はこういう局面にこそ輝きを放つでしょうな!」
「よし、計画は出来上がったな。それでは各々方、抜かりなく……任せるぞ!」
「「はっ!」」
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