第79話 松平混乱 ~前編~

1570年 永禄十三年 春 富山


 永禄十三年の春、軍神と呼ばれたひとりの武将がその短い生を終えようとしていた。

 四十二歳、中毒症状の強い香の過剰摂取、酒精の過剰摂取、ついでに栄養失調にたんぱく質の過剰放出なんかもありそうだ……どんだけヤク中になっちゃったのよ。輝虎さん。


 富山城を開城した本庄実乃ほんじょうさねのりによれば、年明けを最後に輝虎は昏睡状態に入っているという。また、輝虎が昏睡状態に入ったのを見た正室、近衛の方は即日、雪の中を側近の者達さえ置き去りにして城を出たという。

 富山城は連合軍が包囲していたというのに、その包囲を潜り抜けるとは大した人物だね。公家の姫さんと言えども、養子だろうから、どのような素性なのかは謎のままだ。


 そのような経緯から、一向に輝虎が目覚めない為、やむなく城を開け放ったということ。条件は自分を含めた守兵の命。

 こちらとしては、輝虎の存命も解らない状況なので、「命を無下に散らすようなことはさせない」とだけ伝えて城を開けさせた。まぁ、最終的には長尾家の判断次第ではあろうけど、上杉派重臣の数名は腹を切らねば話がまとまらないだろうな。


 「……我がヤクシ……よ、その……を果た……う」


 おや、輝虎が目を覚ましたのか?


 「お屋形様!」「政虎様!」「輝虎様!!」


 同席している長尾家の幹部連中も気付いたようだな。

 しかし、このような状況であれ、輝虎のカリスマは健在のようで、先ほどまで弓を構え合った間柄の両陣営の武将たちが、輝虎の声に大きな反応をしている。


 冷めた目で輝虎を見ているのは、直江殿と真田殿ぐらいか……肝心の政景殿ですらうっすらと目に涙を浮かべ、輝虎の手を取っている。


 「……済まぬな……皆には苦労を掛けた……その報いを……受けるのもまもなく……俺はそろそろ死ぬ……政景殿」

 「何でございましょう!お屋形様!!」


 う~ん。どうにも胡散臭い芝居を見せつけられているようで……なんとも首筋がかゆいな。


 ぽりぽり。


 あら?真田殿と一緒のタイミングで首筋を掻いちゃったね。

 お互いに、視線を交わし苦笑いをする。


 「……俺は死ぬ……迷惑を掛けたが……以降は全て其方に……お任せする……当家のすべてを……其方と姉上、息子の卯松に託す……」

 「わかりました!わかりましたぞ、お屋形様!!某、全力で長尾家をいや上杉家を盛り立ててまいりますぞ!!」

 「「ううぅ!」」「なんと御労しい!」「某たちも政景殿の下で!」


 いや、待とうね。

 その人、戦は強かったし、領内も発展させたけど、最終的にはクスリと酒と女に溺れて国に乱を引き起こしてるからね?

 更に、上杉とか名乗られちゃうと、当家とは手切れの関係よ?

 忘れちゃった?上杉は関東管領の職を継ぐために名乗った家名なんですけど……。


 思わず直江殿と真田殿を見る……あ、二人とも真っ青な顔で俺に向かって首を振っている。

 そりゃそうだよね。

 四国連合の一員として、ここまでの大軍を連合軍として組織したのだから、最後に「敵としていた輝虎の言い分を飲むので、伊藤家に弓引きます」じゃ話にならないよね。


 輝虎殿の意識が戻ったので、その連絡を受けて輝宗殿も義尚殿、義堯殿も駆けつけてくるだろうけどさ……姉上は来ないだろうな……正直、この場にいなくて良かったよ?いたら、変な雰囲気になって長尾家の存続も微妙な感じになっちゃっただろうからね。


 「ささ、輝虎殿の意識が戻ったことも確認出来申した。ここは一旦、医師達に任せ儂らは別室に行きましょうぞ!」

 「左様。輝虎殿には乱の責をどうとるかという問題が残っており申す。そのあたりを含めて我らで話を積めませんとな!」


 流石に、この三文芝居を続けられては堪らぬ、と強い調子の声を出して真田殿、直江殿が皆を別室へと連れ出そうとする。


 「!!しかし……!」

 「しかしも案山子もございませぬ!伊達家、佐竹家、伊藤家、里見家の皆さまの力をお借りしているのです。悠長なことを言ってはおられませぬぞ!」


 不平を重ねようとした武将に対して強い口調で警告をする直江殿。

 ……警告を受ける武将筆頭が政景殿ってどういうことだろうね。


 「……では別室へ移動いたしましょうか」


 皆さんが固まったままなので、この状態を解くべく、俺が率先して移動をしようかね。


 「……そうですな」「では某たちも」「如何にも如何にも」


 皆さんが付いて来てくれて嬉しい。真田殿も安堵の表情を隠そうともしていない。


 ……。

 …………。


 「で、まさか皆さんはそのような世迷言を本気で為そうとは思っていませんよな?」

 「世迷言ととは失礼な!」「お屋形様の言ですぞ!」「左様!遺言を曲げるなどと!」


 ……なんだよ。そのあたりは政景殿を担ぐと決めた時に乗り越えた心理障害じゃないの?

 今更、そんなこと言われても困るんだけど?

 まぁ、上杉派の人たちが自分たちの命を守るために、輝虎の言葉を使おうとするのはわかるけど、長尾方の数名がその言に引っ張られるってどういうこと?


 「合い済みませぬが、皆様には某に付いて別室でお待ちいただきたく……」


 真田殿が申し訳なさそうに頭を下げ、輝宗殿、義尚殿、俺を別室に案内する。


 「……真田殿、これでは話が全く違うな。これでは長尾家……いや、上杉家か?当家の隣国を任せるには……到底安心出来ぬので、越後は我ら伊達が切り取るが構わんだろうな!」

 「真田殿。当家は越後から離れています。ですので、土地を取るわけにもいかぬので、越中の財を費えの対価としてもらっていくことになりますが構いませぬな?里見殿にも手伝っていただいて、海路で関東へ持ち帰るとしましょう」

 「伊藤家としても関東管領などという家が隣にあるのでは安心できませぬからな。伊達殿のお手伝いをすることになりましょうな」

 「あいやしばらく!しばらく!皆様のお怒りごもっともなれど、そのような事態にはさせませぬ!某と直江殿の首にかけてそのような事態にはさせませぬ!」


 ……真田殿、直江殿のお二人のことは信頼しているが、あのような会議の席を見せつけられてはな。


 「お二人の首などよりも、あのような世迷言をほざく者達の首を出すことが先では?」


 おおぅ。輝宗さんってば過激。

 まったくの同意見だけれども。


 「……ご安心下され。明日には問題を全て片づけさせて頂きまする。当初の予定に何の変更もございませぬ。上杉を名乗る家は残しませぬ。旧長尾領・上杉領は全て長尾政景の下、四国連合・五国連合の一員として東国の安寧に力を尽くしまする!皆様には一昼夜の御辛抱を頂きたいと存じまする」

 「……そこまで、真田殿がおっしゃるのならば待ちましょう。皆様もそれで?」

 「嗚呼、当家も越中の財を運ぶにも段取りがありますからな。一昼夜は待ちましょう」

 「景藤殿がそこまで言うのならば、当家も待ちましょう……」

 「忝いことでございまする」


 真田殿は床に頭をこすりつけ、感謝の言葉を述べた。

 そこまではしなくても……いや、したくなるか。


 「合い済みませぬ、そちらに伊藤家の景藤様は?」


 ふすまの向こうから城の女中であろうか、そう声を掛ける者がいる。


 「何ぞあるか?!」


 真田殿が床に座りながらも声を返す。


 「いえ、お屋形様がどうしても死ぬ前に景藤様と二人で話したいことがあると……」

 「二人でだと?そのようなことが出来るわけがなかろう!何を寝ぼけておる!」

 「いえ、わたくしは何も……ただ、お屋形様がそう……」


 ん?死の間際に言いたいことでもあるのかな?

 まぁ、前世でも高名な軍神様の御指名だ。話をするのはやぶさかでもないな。


 「わかった。私が向かおう」

 「よろしいのですか?」

 「構わないさ。輝虎殿も最後に一言ぐらい話し相手が欲しいのだろう」


 軍神の最後の話し相手とか、何かいいじゃないですか。


永禄十三年 春 古河 伊藤景虎


 「なるほど、松平でお家騒動か……」

 「はい、兄上。一族の者の保護を求めて来た井伊の虎殿が言うには、広忠殿の暴発も間近と……」


 ふむ。伊織の兄上呼びもだいぶ様になってきたな。はじめのうちはぎこちなかったものだが……。

 まぁ、それよりも問題は松平か。


 「しかし、伊那への進軍か……どう考える。忠宗?」


 この場には議論を活性化させる役目の元景や景藤がおらんからな。

 違う角度の意見を忠宗には送り込んでもらわねばな。


 「左様ですな。流石に見捨てるのは如何かと思います。なにより伊那の高遠家は我らの要請に従って、上杉家への侵攻を手伝っております。小身の者を大身の者が使い捨てにするような行いは仁義に悖りましょう」

 「業棟はどう考えるか?」

 「某も筆頭様と同意見ですな。当家が関東と奥州を越える領地を直接差配することは難しゅうございます。ならば、現地の者達を保護し、彼らに治めさせることこそが最も当家の理念が広まる方針と考えます」


 確かにな。

 関東の西半分に奥州の南端、飛び地に蝦夷がある。

 人にも物にも限界がある。そう考えると、この辺り、今の当家の領地が良い案配であろうな。後は元景たちが考えることとなろうが、戦乱の気配収まらぬ西に広がることは、当家にとって良いこととは思えぬ。

 なにより、当家の鬼門たる京に近付いてしまうからな。


 「では、高遠家に援軍を出す準備を進めておくとするか。上野・下野・奥州軍の主力は越中に出向いておるからな……ただ、流石に相模・伊豆軍は動かさぬ方が良かろうな」

 「そうですね。広忠殿の軍だけを討つにしても、一応相手は松平です。駿河の軍なり諸将なりが当家に仕掛けてくることもないとも限りませぬ。十分な兵の厚みを見せて事前にそのような軽挙を抑えるのは大切でしょう」

 「して、そうなりますと。いかがしますか?下総・武蔵の主力……は残ってはおりますが、信濃守様が一部は連れて行っておりますから、数自体はそこまでは……徴兵を掛けなければ、大体七千ぐらいかと」


 そうよの。この時期に無理に徴兵を掛けるのが得策とは思えぬ。


 「上野と下野の残りから四千ずつ、総計一万五千で伊那に向かう手筈を整えておこう。上野は顕景、下野は寅清に率いらせることとする。総大将は忠宗。その方が執ってくれ、頼むぞ!」

 「……よろしいので?下野からは、一門に数えられる方が率いる形でありますが……」

 「全く問題あるまい。忠宗の方がはるかに年長であるし、何よりお主は当家の筆頭家老じゃ。何の問題もあるまい」

 「では!ご隠居様のお言葉通りに準備を進めてまいります!」

 「うむ。頼むぞ!」


 そう、これまでは万を超す軍の大将は一門の者が担ってきたが、今後もそれに固執することは危険じゃろうな。

 それに、純粋に伊藤家が動員できる兵数は増えておるのだ。一万前後の軍に必ず一門を付けるのでは、後々に面倒な前例となってしまうだろうからな。

 当家は公家ではないのだ。無駄な前例主義はいらぬ枷としかなるまい。


 「話は変わるが、その井伊の虎殿と息子というのはどのような人物じゃ?」

 「はは、そうですな。虎殿、年のころは三十、幼少の頃より駿河の今川で学問を収めたということで、中々に頭が切れる方ですね。また、彼女は活発な感じがする女性ではありますが、元景や輝のような剣術の達人では決してありませぬな。少しは刀が振れるでしょうが……そもそも戦場には出たことが御座いますまい」

 「……まぁ、当家が変わっているというのは確かであるな」

 「ご隠居様もお気になさいますな。女性が戦場に出ぬのは単に出産と子育てという大任が有るため。腕に覚えがあり、その点に不安が無ければ戦場に立つことも、なんということもありますまい。大陸の古典でも女将軍というのは幾らでも出てきますからな!」


 確かに、大陸の古典には数多くの女将軍が出て来るが……当家の女将軍の多さでは、かの楊家将演義になってしまうな。


 「虎殿がそのような女性ということで……では、その御子息というのは?」

 「実際は養子にした甥ということでした。名を虎松と申して、歳は十と言っておりましたな。なかなかがっしりとした体をした童で、なんとも勝気な眉が印象深い童ですな。眉を除けば、非常に女性的な美形ともいうべき顔つきですが……そのように評されるのが我慢できぬというのでしょうな。必要以上に粗い言葉遣いと態度を取ろうと健気にふるまっていますなぁ」


 おや?それではまるで……。


 「なんとも。それではまるで、伊織様の子供時分と……」

 「……言うな忠宗……私もそう思っているのですから……」

 「っははは!伊織も自覚ありか!それでは情勢云々を抜きにしても無下にも出来まいな」

 「まぁ、そういうわけです。ちょうど、高幹様が棚倉から古河に居を移しているので、虎松は古河の鹿島神宮に預けようと考えており、虎殿は古河で事務方塾での教師役をお願いしようと考えております。関東で事務方塾を開いて早十年、塾を卒業した多くの者達が事務方の仕事をこなしてはおりますが、未だに人材不足は否めませぬからな」


 確かにの。

 この十年で塾を卒業したものは千人を超えているのだが、全員が全員、そのまま事務方としての仕事に付いているわけでもないし、まだまだ、関東での人の流入は止まぬしな。

 城に田畑も増え、茶の栽培やら果実水、鉱山の仕事や最近では絹の生産も研究されておる。事務方の能力を持つ人材は幾らでも欲しいところじゃからな。


 「では、虎殿には教師として頑張ってもらうか……まぁ、松平で乱が鎮まったら、井伊の家来筋の者達も来るかも知れぬしな。その時はその時として考えようぞ。まずは元景が留守中の今だが、伊那方面への軍を早急に編成することじゃな。頼むぞ!」

 「「はっ!」」


 それでは、早速、伊那方面へ動かす軍の準備に取り掛からねばな。

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