第77話 長尾騒動 ~中編~
永禄十二年 春 古河 伊藤元景
わたしはこの朝の静かな道場の空気が大好きだ。
透き通って張りつめた空気に、何処かさわやかな香りがする朝の陽ざし。
「ふむ。それまでだ。慶次郎よ、見事な上達ぶりだ。十年の修行で姉弟子達に追いついたな。お主が私の技の原点に辿り着いたことを認めよう。これより後は己の技を極めるが良いであろう……」
阿武隈からも雪が解け切った辺りの春。お師匠様は慶次を連れてふらりと古河にいらっしゃった。
輝も呼んでいるので、自分の目の前で慶次と立ち合いをせよと。
慶次への最後の稽古だというのは言葉にしなくてもわかったわ。
師匠のあの雰囲気はわたしもよく覚えている。
私が皆伝と認められた日もそうだった。師匠に皆伝の認めを貰うには、何か決まった演目や立ち合いがあるわけではない。
師匠が弟子に教えてきたもの、その神髄を身に宿しているかどうかを見るのだという。
わたしの時は、抜身の真剣の間合い、その距離で師匠の殺気をひたすら耐えることだったわ。
「切りかかりたければ切りかかってくるが良い」
そう言って日の出から日の入りまで、間合いの中で師匠と向き合った。
最初の一刻ぐらいは恐怖との戦いだった。自分の腕も師匠の腕もわかっているし、これが修練であるとわかってはいても、やはりあの白刃の光には恐怖しか感じなかった。
だけれども、不思議なもので、その恐怖を乗り越えると、一の太刀の極意というものについての考えが深まってきた。「一にして全に非ず、全にして全に非ず、一にして一である」なんとなくその境地に達したところで向き合いが終わった。
師匠の殺気が消えたところで、その場に座り込んでしまったわね。
自分の汗でその場が池になってしまったかのような状況だった……人の体から汗ってあれだけ出るのね、びっくりしたわよ。
輝の時は、構えのままに、ひたすら師匠の周りをまわらされていたわね。
師匠は動かず正面に刀を抜いたままの構え……。
師匠は弟子に自分の技の、真の核となる物が届いているかを見ていると仰っている。
「ふぅぃ~、これで儂も十年の修行で姉弟子たちの境地に近づけましたかな?しかし、なんとも不思議な心地です」
「……不思議とは?」
立ち合いを終えたばかりだというのに汗の一つも掻いてない輝が問う。
慶次は、皆伝試練の時のわたし並みに汗まみれだというのに……。
「いやぁ、儂が勿来に密航してきたのが十年前、儂は十八でございました……あれから、確かに十年の時が過ぎたのですが、儂の心はあれより十年は若返りましたからな。これはなんとも不思議な心地ですぞ!しかし、何故か気味が悪いということもなく、ただ純粋に楽しいのです。世界はこんなにも華やかであったのかと」
「……修行の一区切りがついたぐらいで生意気。慶次も子供を産んでみれば、その先の道が見えるはず……」
「!!これはこれは、輝姉上は無茶を言われる!儂は男ですので、残念ながらその境地には……たどり着きたくても、とてもとても!」
輝も言うわね。
慶次は男だから産めないし、わたしは男に近寄りたくないから産もうとも考え付かないわね。
「ふむ!輝よ、流石は我が唯一の伝承者だな!……よし、そこの縁側から稽古を覗いておる童と青年達よ、出て来るが良い!」
「「!!!」」
あら?驚いているわね。
けど、それほど身を乗り出して覗いていたら隠れているとは言わないわよ?
「だから、言ったではないですか、どうせばれているのですから、頭を下げて堂々と見せてもらった方が良いと……」
「何を言うておる。それでは盗み見という楽しみがなくなってしまうではないか?」
「そうよ、そうよ。信尹はわかってないわよね!」
「ほれ、船様もこう言っておるであろうが!だから、お主は駄目なのじゃ」
「……いや、兄上もそれで駄目と言わんでも……俺が悪いのでしょうか?」
おや?童の少女と若侍が二名。
三人とも越後・信濃から来た子達ね。
「ははは。修練も終わったので、そんなところで観ているのではなくて門から中に入って来なさい。井戸水でよう冷やした果実水があるのでな。そこで見ていたのでは喉も乾いたであろう……慶次、社の方に言って果実水を人数分持ってきてもらいなさい」
「はい!お師匠様!」
伊藤家の領内には鹿島神宮が数多くあるが、棚倉の神宮、箕輪の神宮、鎌倉の神宮、そして古河の神宮には大きな道場が併設され、当家の兵達が朝な夕なと修練に明け暮れている。
そして、領内の修練については、全て師匠が監督した作法に則っている。
昔に「流派の名はなんという?」などと聞いてきた剣術かぶれの阿呆がいたけれど、師匠に一喝されていたわね。
「形や名などに囚われているようでは、武の入り口にも立っておらぬな。今一度家に戻って己を見直してから道場に来い」
そう、言い捨てて道場から追い出したこともあった……そういえば、その様子を見ていた太郎丸が面白いことを言っていたわね。
「そんな面倒なことを考える暇があったら素振りのやり方でも考えていた方がいいし、昼寝の方が気持ちいいのにね」
思わず手が出た私だったけど、師匠はえらく感心していたわね。
「太郎丸様は修練によってではなく、その智によってのみで武の極みに触れておられる」って……。
今にしてみれば、師匠が感心した点も理解は出来るのだけれど、きっと、太郎丸の本音は後半部分だったはずよ。昼寝をしないのに十分な理由なんかこの世には存在しない、っていう。
「……お邪魔致しまする」
「おお!これがかの有名な伊藤家の鹿島道場ですか!!やや!そこに追わすは卜伝様では……!」
「で、皆さま……その果実水というのは??」
自由な子が二人に礼儀正しい子が一人ね。
どうにも、礼儀正しい子が昔の竜丸に被ってしょうがないわ……けど、わたしの童時分はもっとおしとやかだった……はずよね?
「おう、童共、果実水は儂が持ってきたぞ!遠慮のう飲むが良い!」
「「!!!ギヤマンの入れ物!!!」」
グラスが珍しいのね。
確かに割れやすいけれど、そんなに珍しいものではないわよ?作り方を覚えた伊奈の者達が奥州の方々で作っているし……なにより、冷やしたものを頂くには最も涼し気な感じがするじゃない。
「おう!落とすなよ。ガラスの破片は尖っていて危険だからな……で、お主ら名前は何という?儂は殆ど棚倉におったので、御家中のご家族の顔は解らんからな」
……こうして見ると、慶次って、子供の面倒を見るのが上手ね。
昔の私を見ているようだわ。
「俺は真田幸隆の三男で昌幸と言う。隣は弟の信尹で今までは父上の脇で長尾家の為に働いておったが、今は古河に移られた母上の護衛役か?古河の屋敷を任されておる」
「はぁ、兄の紹介に預りました真田信尹です。先月に古河へは来たばかりです。よろしくお願いいたします」
「はい!同じく古河に来たばかりで船と言います!父は直江景綱、与板城で城主をしています!」
「ははっは。それはご丁寧にどうも有り難うだな。某は前田慶次、こちらにおわす塚原高幹様の弟子で剣術に明け暮れておる……奧におられるのが、伊藤信濃守元景様と奥州で後見様の近侍を束ねておられる安中輝様だ。お二人とも女子ながら某よりも剣の腕は遥かに上だぞ?」
慶次はそう言ってくれるけど、きっと私は抜かれたわね。
今日の感じだと、輝とほぼ同じ境地に達しているのではないかしら?伸びしろを考えたら慶次の方が上を行ったかも知れないわね。
「うむうむ。私が塚原高幹です、昌幸殿も信尹殿もお船殿も以後よろしゅうな……して、三人とも剣術は好きなのかな?」
「「「もちろん!!」」」
「ふむふむ……昌幸殿と信尹殿は二十そこそこ、お船殿は十二三というところかな?……丁度良い、信濃守様。もしよかったら、この者達への稽古、付きっきりで慶次にやらせることはできませぬかな?」
付きっ切りで?
師匠も難しいことを言うわね……。
「太郎丸と相談して、慶次には信長の下で水軍を率いる提督の一人として働いてもらう予定だったのですけれど……どうしましょう!」
「提督って船を沢山率いる人でしょ?カッコイイ!!」
「ほほぅ。俺たちは山国育ちで海を知らないからな、興味がある!」
「……どうせ、私には選択権が無いのでしょう?」
「っははは!信濃守様、某は提督もこの子らの指導も両方承りますぞ。なんとも面白いことになりそうではないですかな?」
……全員乗り気じゃないの。
しょうがないわね。二十を超えた男どもにそんな顔をされても嬉しくないのだけれど、お船の期待は裏切りたくないわね。
「わかりました。その方向で調整いたしましょう。だけど、真田家と直江家の説得は自分たちでやりなさい。説得出来たら慶次の下で動けるよう取り計らってあげるから」
「「はい!」」
「……輝も太郎丸にそのように言っておいてね。うまいこと動きなさい、と。」
「……」こっくり。
まぁ、どちらの家も古河に来たのは妻子ということなので、奥さんは古河に残られるのなら何とかなるのでしょうけど……まぁ、そうね。何とかなると思ってやっていくしかないわね。
1569年 永禄十二年 夏 北条
永禄十二年の夏。
長尾政景殿は頚城山塊の東、柏崎の湊を望むここ北条の城を本拠として、越後、信濃、飛騨を治める旨をここに宣言した。
見届け人は伊藤元景、伊達輝宗、佐竹義尚、里見義堯……そして、何故か京より現役関白さんの二条晴良が見届け人として来ている……畿内の勢力争いに巻き込まないで欲しいのだが……。
「春日山城を預かる柿崎殿は予想通りに上杉方となりましたか」
「左様。柿崎殿は為景様、輝虎様と二代に渡って守護代長尾家に仕え、他の越後の領主を戦で負かし、好き勝手をしてきた御仁ですからな。我ら、越後の国衆と輝虎様を抜いては手を結べますまいな」
「なるほど、他に輝虎殿についた武将はどのような方が?」
「他には
流石は長尾家のご家老の直江様。ここで有難い、長尾家の様子をレクチャーしてもらっている。
「後は新発田親子、
「では、代わりに新発田には?」
新発田は越後の北の要。会津から見れば日本海側への出口の拠点であろうし、酒田からの玄関口ともいえる要所だ。輝虎殿も大事にしていただろうし、新しく生まれた越後長尾家としても半端な人間には任せられまい。
「この十年、長尾家の武を支えてきた
「ほう!それは素晴らしい。長尾家にその人ありと言われた朝信殿が新発田でにらみを利かせているのなら、彼の地への他家の侵攻……この場合は蘆名ですかな?に国人領主共が妄動することは敵わぬでしょうな」
「まさにそれです。更に、儂の年の離れた妹が嫁いだ男で、中々の器量持ちである
おお!直江兼続の父親ですな!
いくつになっても戦国ビッグネームは心が躍るね。
「とっとっと。あい済みませぬな、ちとご挨拶を伊藤の後見殿にさせてもらえぬでおじゃるかな?」
「これは、これは、関白殿下。景藤殿、こちらが関白殿下、二条晴良様です。殿下、こちらが伊藤家の後見殿、伊藤景藤殿です」
おお、生おじゃるでおじゃるおじゃる、おじゃるボール。
「お初にお目に掛かります、関白殿下。伊藤家にて後見を務めております、伊藤景藤でございます」
初めての挨拶では、公家といって馬鹿にはしないよ?
イラっとさせられたら別だけど、今のところは二条さんに嫌味を言われていないからね。
「おほほほ。麻呂が「返り咲き関白」の二条晴良でおじゃる。伊藤家の統領殿の話はよう聞いておりますぞ?……あまり大きな声では言えぬが「前」関白殿をやり込めた伊藤家の方々には麻呂たちは大いに親近感を抱いておりまするのじゃ。京の惨状を嘆いて一助けしていただけるのならば、麻呂は全力で伊藤家の手助けをさせて頂きますぞよ?ん?」
おお、こわっ!
全力で権力争いに巻き込む気が満々じゃないか。
「いえ、当家は所詮東国の武士、この地の者として過ごしてはや数百年。今では京での仕来りとも縁遠くなり申した。このような者達では関白殿下のお役には立ちますまい」
「おーほほほっほ。なんとも物の道理がお分かりのお武家様じゃな。何、気にすることは無いでおじゃるよ。麻呂は同じ藤原とはいえ近衛の者達とは違って、現状の姿は解っているつもりでおじゃる。麻呂たちも東国には手を出さぬし、その方等も京には手を出さぬ。なんとも美しい形でおじゃるな!……ただし、ちぃっとばかし、宮中の懐事情を察して一助けをして欲しいとの思いはあるが、そこは追々の?」
ふむ。中々に話が分かりそうなお公家さんである。
こういうタイプなら多少は妥協し合えるというものだ。
「そのあたりは追々と……ともあれ、本日は殿下のような方と知己となれましたこと、この景藤光栄に思いまする」
「ほほっほ。まぁ、麻呂は武家と公家は、お互いに距離を保てば仲良う出来ると思っておるのじゃ。今後のことは今後のこととして、追々の?」
「はい。追々に……」
「おーほほほほ!」
高らかなおほほ笑いで遠ざかる関白さん。
敵対する必要はないんだから、遠くでお互いが幸せになるのが一番だよね!
「なにやら、関白殿下とはわかりあうものがあったようで良うござったな、景藤殿」
「ええ、前関白殿下みたいな方ばかりの公家社会だったら、どうしようと思っていましたから」
「……左様、すべては前関白様がお屋形様を……いや、これは繰り言でしたな。まずは、この勢いを駆り、春日山を落としましょうぞ!」
そう。
今日は就任式、宣言だけではない。
このまま軍議となり、近日中に春日山城を攻め、頚城郡を越後長尾家のものとするのですよ!
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