12.実在した少年
「井草線は八番出口ですか。中々ややこしいですね。名古屋という町も」
朝の通勤ラッシュ時間帯の喧騒で賑わう名古屋駅の西口から構内に入って、地下鉄の改札口がある東口を目指す。
「早めに出てきて正解でしたね」
真理が思わせぶりに笑いながら章子を見た。今日は章子の母に無理を言っていつもより早めに弁当を作ってもらっていたのだ。。
「お礼ならウチのお母さんに言ってね」
「大事な娘さんを奪う事になる身からすると大変に心苦しい限りですが……」
取り澄ました顔で言う真理の言葉からは、とてもそんな気概など感じられない。章子はため息をつきたいのを我慢して地下鉄の改札口を急いだ。
「昇くんていつも何時に家を出てるの?」
「8時5分ぐらいですね」
「え、そんなに遅く? 学校が近くにあるの?」
「いいえ、歩いて30分はかかりますね」
「……もしかして半野木くんて遅刻魔?」
学校まで歩いて30分はかかる距離を8時5分に自宅を出て通学しているとしたらいつもギリギリの登校だろう。それだけを聞いても半野木昇という人間がどういう人物なのかは容易に想像ができた。
現在の時刻は7時30分、半野木昇が家を出るまであと35分しかない。
「昇くんとはどこで会うつもり?」
「彼の家の前で待ちます」
「それまでに昇くんの家に行くの?」
「そうですよ」
あっけらかんとしたまま言う真理に、章子は足早に歩きながら驚く。
「間に合わないわよっ」
残り時間30分では地下鉄に乗って駅を降りた時点で足りなくなってしまう。そこから半野木昇の家まで徒歩で向かおうとしたらとても足りない。
章子が声を大にして言っても、真理はどこ吹く風のまま、駅ビルの構内の角を曲がると在来線の改札口が両端に連なる
「真理?」
「そうですね。では別の手段を使いましょう」
「別の手段?」
章子の問いに真理が頷くと、また一歩、歩き出す。章子もつられて歩き出すと三歩ほど進んだ先で周囲がガラリと激変した。
今まで周囲にあった名駅の雑踏が、誰もいない地下鉄の通路に一瞬で切り替わっている。驚いている章子の顔に目の前の階段の上から 地下鉄の駅に独特な風の吹き抜ける匂いがした。
「ここは」
「達代です」
驚いている章子に真理は淡々と言う。
「何をしたの?」
「単なる
落ちる気払う真理が階段に足を進めようとするので章子もそれに続いた。
しかしそれをここで問い詰める気にはなれなかった。今は昇の自宅に向かうことが最優先である。
「ここが、昇くんの住んでる場所」
人気のない階段を上って地上に出ると一番外れの出入り口から、降りたこともない見知らぬ街並みを眺めて章子は足を止めた。自分が住んでいる場所とは違い、起伏に富んだ上り坂や下り坂があり章子は一体どこへ進めばいいのか分からない。
「こちらです」
真理が躊躇いなく歩いていった先は恐らく北の方角だった。太陽を右から受けて真理の後についていく。ここから10分もしない距離に半野木昇の家がある。そう思った矢先に心臓が止まるかと思う出来事が起こった。
章子の正面から違う制服の少年少女達が歩いてくるのだ。おそらく昇と同じ中学校の生徒なのだろう。談笑し合いながら同じ方向へと歩いていく。
「この子たちにもわたしたちの姿って……」
「大人に見えているでしょうね」
だからなのか、違う制服の章子と真理が歩いていても誰も気にも留めずに先を歩いていく。この中の誰かが半野木昇という人間を知っているのだろうか?
「半野木くんの家は?」
「せっかちですね。もうそろそろですよ。ほら」
真理が指差した角を曲がって10分ほど歩いた時、真理が歩道の木陰に寄って様子を伺い出した。
「ここなの?」
「そうです」
真理の様子を伺う視線が一軒の民家に注がれている。通りから大きく外れた住宅地にある二階建ての平凡な家だった。その家から誰かが出てくるのを待って真理はじっと見つめている。
「真理……」
「静かに、もうそろそろです」
隠し持ってきた腕時計を見ると時刻は8時に近づこうとしている。すぐにあの玄関から半野木昇が出てくるのかもしれない。そう思った矢先に、半野木昇の自宅の角に二人の女子生徒が近づいていくのが見えた。よく様子を伺うと章子と同学年のようにも見える。その二人組の女子が半野木昇の家と思しき民家の前で、あまり会話もしないままインターホンを押した。
(え?)
その二人組の少女の行動に驚きを覚えつつも、章子は真理と共にさらに身を隠してこの成り行きを見守ることにする。
しかし、事態はしばらく動かなかった。二人の少女が民家の前で立ち止まったまま時間が流れていき、少女の一人が爪先をトントンと整え出した頃。
玄関の戸がガチャリと開いた。章子は慌てて息を顰めたまま事の成り行きを見守る。
開いたドアから一人の少年が出てきた。億劫そうに表情を暗くしたままインターホンの前で待つ少女二人に近づいて挨拶を交わす。
(……そんな)
目と鼻の先で起こった光景に章子は裏切られた思いを抱いた。あの暗い少年がおそらく半野木昇なのだろう。その半野木昇という男子に自分以外の女子がいる事に驚いたのだ。そして暗い表情の少年が重いカバンを背負って二人の少女と共に歩き出した時。
真理が動き出して、章子も仕方なくその後についていった。
章子はこれからどうなるのか見当もつかなかった。
やはりやめておけばよかったのだろうか。しかし、ここまで来たのだから既に選択肢は一つに絞られているようにも思う。第一にこの行動を提案した張本人が既に三人の後をつけていた。章子は唾を飲みこんで自分の身を運命に任せた。
通りを歩く少年はまだ、背後から近付く章子たちの存在に気付いていなかった。
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