郷愁

伊島糸雨

郷愁


 玄関の扉を開けると、金属の軋む音が虚しさを伴って響き渡る。室内は薄暗く、ヘルメットについたライトを点灯すると、ぼんやりとした円形が埃の煌めきを映す。床に溜まった灰色は、重ねられた年月に私の足跡をくっきりと残した。

 近くにあった化学工場の事故による汚染で街が放棄されてから、三十年が経った。

 当時十代だった私は五十を過ぎて、汚染の影響が薄まった今になってようやく、条件付きで街に入ることができるようになった。

 条件とはすなわち、かつての住人であること、これといって健康リスクを抱えていないこと、マスクや手袋等の簡易的な防護服を着用すること、政府が主導するツアーに参加することの四点で、私は幸いその全てを満たしていた。

 結婚して子供もできて、けれどもやはり、できることなら一度は戻りたかった。荷物もそこそこに逃げ出した日の忘れ物を、この目で見て、可能なら持ち帰りたかったからだ。

 夫も同じ街の出身だったので、相談して行くことに決めた。鉄道を乗り継いで、最寄り駅からは政府が用意したバスに揺られた。目的地へと続く街道の周囲はかつての面影を残しつつも、荒涼として寂寥感が漂っている。街が一つ封鎖されれば、そこへと向かう道も廃れるのは道理だった。誰も、何も、運ぶことがないのだから。

 降り立った先で、かつての街並みは表層を風化させている。アスファルトを割る植物、壁面を這う蔦、剥がれかけたペンキ。逃れ得ないものに侵されて、忘れ去られた廃墟の街。

 ガイドの男性に率いられて、通りを歩く。打ち捨てられた商店の並びを、古い記憶の中に見る。幼い頃に駆けた道も私と同じように年を重ねて、移ろいゆく時の、その愚直なまでの平等さに思いを馳せた。

 制約付きの自由行動になって、私は早速生家へと向かった。夫は自分の家はまだ先だからと、そばについていてくれた。

 住宅街の一角にある、当時はごく一般的だった外観の一軒家。かつて住んでいた家の間取りは、今でもよく覚えている。リビング、キッチン、バスルーム、父と母の部屋……。

 そして、私の部屋。扉は開け放たれたまま、室内が見えるようになっていた。

 人生の五分の一を過ごしたかどうかの空間に特別な感情があるかというと、微妙なところではあった。単純な時間であれば、結婚してから夫と共有している寝室の方が長く使っている。そう考えると子供の頃の部屋には思いの入れようもないけれど、それでも懐かしさは不思議と湧いてくるものだ。

 配布された手袋の薄いビニール越しに、埃に塗れたタンスに触れる。指先には、灰色の塊ができて、分厚い層の下にはペンキの乳白色が覗いていた。

 ぐるりと全体を見回すと、ベッドの枕元には写真立てが一つ置かれている。かつて手を伸ばして、けれど置いて行くしかなかったものだ。今一度手にとって表面を拭うと、幼い頃の私とまだ若い両親の、穏やかな微笑みがそこにはあった。

 あの日、両親に手を引かれてこの街から逃げ出した時に置いて行ってしまった、私の“忘れ物”たち。大切な写真、ぬいぐるみ、幾つかの思い出……。写真に映る私たちは二度と戻らない。父も母も逝ってしまって今となっては私だけ。何より私も歳をとって、今ではすっかり家族も増えた。

 あの頃とは、何もかもが変わってしまった。枕元のうすぼけたぬいぐるみも、私にはもう使い道もなく、ただ哀愁が残るばかりだ。

 忘れてしまったこともたくさんある。どんな激情も、時の流れとともにその強烈な色彩を欠いて、記憶の中で色褪せていった。過去を置き去りにした結果が、今の私なのだ。

 けれど、忘れ去られていたはずの街は、誰かの中で確かに息づいているのだと思う。それは例えば、私や夫のように。今回この街を訪れた、すべての人のように。

 それがいつまで続くのかはわからないけれど、少なくとも私は、私という存在の、この脳の機能の許す限り、記憶に留めていたい。

 街のことを。父と母のことを。かつてここにあった、たくさんの日々のことを。

「そろそろ行こう。置いていかれちゃうよ」

 振り返ると、いつの間にか夫がドアの陰からこちらを見ていた。私は少し考えてから微笑みを返して、

「そうね」

 視線を落とし、劣化の進んだ家族写真を手にとって、部屋を後にした。

 過去の残像を、私はこれから先の人生でも繰り返し思い出すことだろう。

 失くしたものは戻らない。けれども、忘れたものであれば、あるいは。

 想起することもあるだろうと、そんなことを思うのだった。

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