忘却の海

伊島糸雨

忘却の海


「人生は、大海をちっぽけな船で漕いでいくようなものだと私は思うのだけど、どうかな」

 先輩はそう切り出すと、コーヒーに角砂糖を投入して、スプーンでかき混ぜた。

 大学近くの喫茶店は、さほど広くない店内を暖色の灯りが穏やかに照らしている。

 扉に近い窓際の席では、客が出入りするたびにペトリコールがにおう。じめじめとした、肌寒い雨の日のことだった。

「そうかもしれないですね」

 ちょうど答えたタイミングで、私の分のコーヒーが届く。「ごゆっくりどうぞ」という言葉に小さく会釈して、立ち上る湯気にそっと息を吹きかけた。豊かな芳ばしい薫りは何度嗅いでも新鮮さに満ちて、猫舌の私はしばしの間、嗅覚でその魅力を楽しむことにする。

 先輩は私の様子を見てから、再び口を開き、

「忘却の海に頼りなく浮かぶ船が、私たち。船には生きていくのに必要な記憶が積まれていて、自然と新しいものが増えて行く。でも全部乗せたままだと沈んじゃうから、捨てるものを選んで海に投げ込んで行かなきゃいけない。船が壊れて、自然と沈むまで」

 言い終えた先輩は、カップを持ち上げて口をつけると、眉をぴくりと動かしてソーサーに起き、ミルクを注ぎ込んだ。それからもう一度味を確かめて、頷きながら微笑んだ。

 ここのコーヒー、ブラックが一番薫りがいいのにな、と焦げ茶色の液面を覗き込みながら、ぼんやり思う。先輩が甘党で、苦いのが得意じゃないのはよく知っているけれど。

 まだ熱い液体を少しだけ啜る。熱に触れた舌先が、ひりひりと痛んだ。

「……だから先輩は、《忘却の河レーテー》を入れているんですか?」

 私が聞くと、先輩は苦笑して「まぁ、そうかな」と言った。

 《忘却の河レーテー》。脳にまで作用する新型ナノマシンによって記憶の取捨選択をコントロールする技術、その商品名。

 それは、既存技術であった可変性未来予測プログラム《スクルド》を前提に、人が日々貯蔵と整理を繰り返す記憶を“これから先の可能性”に合わせて処理するというものだ。予測される“より良い”未来に不要な情報は、《忘却の河レーテー》によって忘却させられる。より効率よく、より適した確実性の高い記憶処理。

 先輩は、《忘却の河レーテー》のユーザーだった。

 不要なものを切り捨てて、忘れ物としてさようならすることを積極的に選んだ。忘れたぶんは、必要なことの記憶に使いましょう。そうやって脳みそを機械的なストレージに見立てて、人工的な未来像の中に自分を落とし込んでいくことをよしとしたのだった。

 先輩は魅力的な人だ。思索に富んで、話しをしていて楽しくて、程よい温度感で、そして嫌味のない愛嬌がある。大学に入ってから出会った人の中で、一番長く付き合いたいと思った相手が先輩だった。

 でも先輩は、私とは違う価値体系の元に存在していて、私たちは水面と水底のように、遠く、深く、離れている。

 忘れたくないものがあった。だから、たとえ先がないとしても、忘却という機能をこの肉体でなく外部に委託するのだけは嫌だった。

 だって、どれだけ大切に思っていたとしても、忘れてしまうということは「不要なもの」と断じられたということに他ならないのだ。未来において不要である。ゆえに過去に置いて、失くしていくべきだ、と。

 問答無用で置き去りにされていく。自分でも気づかないうちに取りこぼして、忘却の海へと消えてしまう。

 川から流れ出た水はやがて海に溶けるだろう。私たちは死によって沈むことを最期と定め、茫漠とした世界を脆く揺蕩う他にない。

 ならば、先輩はきっと正しいのだと思う。抗うことの無力を、私はよく知っているから。

 幾つかの些細な会話を重ねて、私は授業があるからと席を立った。

「私はもうちょっとここにいようかな。雨、止みそうにないし」

 窓の外に目を向けた先輩に「わかりました」と言って、自分の代金をテーブルに置いた。そして背を向けたところで、「ああ、そうだ」と声をかけられる。

「なんですか」

 振り向いた私に、先輩は、申し訳ないんだけど、と前置いて、

「名前、また教えてもらっても、いいかな」

 曖昧な笑みに罪悪感を滲ませて、言った。

 ああ、と思う。先輩が描く未来に私の姿は存在しないのだと、何十回目かの確認をする。

 それでも、忘れられたくないものがあるのなら、海へと向かう背中に追いすがって、何度でも私の存在を証すべきなのだろう。

 私の存在が、忘却の海に消えるとしても。

 未来に、互いの存在が不要だとしても。

 私は吐息混じりに口にする。

「もう、忘れないでくださいね」

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忘却の海 伊島糸雨 @shiu_itoh

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