Case.74 影響された場合
まだ雪浦たちが中学生だった時。
ある学校のトイレにて、全身びしょ濡れの女子生徒が窓際に追い詰められていた。
「ほんとさ、謝罪する気持ちがあるわけ?」
「
「……別に。勝手に向こうが何か言ってきただけで、彼とは付き合ってもないだってばよ」
女子生徒数人に囲まれて理不尽を吐かれても、ホースから吐き出される水をかけられても、毅然とした態度で立っていたのは五十嵐芳穂だった。
彼女は今のように、当時中学二年生としてはかなり大人びた容姿と性格をしていたせいで、男子からは好奇の視線を浴び、女子からは嫉妬の眼で見られていた。
その上、人と関わらない彼女に理解者はおらず、この件をキッカケとして女子による陰湿なイジメが始まってしまった。
「だからあんたが色目使ったからでしょ!」
「そんなことして私に何の得があるんだってばよ。それにこんなことしたところでその人が振り向いてもらえると思っているのならとんだ非効率だってばよ」
「さっきからその語尾イラつくのよ! 気持ち悪い、不思議ちゃん気取りなわけ⁉︎」
「だってばよ」
「肯定してるのか否定してるのかも分かんないんだけど⁉︎」
読んだ本に語尾が影響されることに難癖を付けてくる女子生徒たち。
これ以上付き合っても無駄だと悟った五十嵐は集団の間を突っ切って、帰る。
それが余計に気に触れたのか、先生や他の生徒が目につきにくい時間帯と場所で何度も嫌がらせをされるようになり、日が経てば授業中であってもイタズラが可愛く思えることをされるようになった。
生活に支障をきたすために、教師に相談するも「そんなもん無視すればいい」と相手にされない。
ある日、小説の中のキャラクターが亡くなった。
死、とは救済だと主張する哲学者がいた。
命が終わってから、始まる物語が存在した。
誰も止める人はおらず、エスカレートしていく中、ふとそんなことを思い出した。
「これ、あんたの本。分かるよね」
高く鬱蒼とした木が生え並ぶ校舎裏に無理やり連れてきた女子が一冊の本を出した。
それは、いつも持ち歩いていたシリーズ小説の5巻。体育の授業後から見当たらないと思っていた。
「返すんだってばよ」
「もちろん、返してあげるわよ。ちょっと借りてただけだから……‼︎」
女子生徒は隠し持っていたライターを取り出し、本に火を付ける。
「……っ⁉︎」
「やーっと、狼狽えた。大切なものが奪われて嫌な気分になったでしょ。私の気持ちがこれで分かったか‼︎」
女は燃え広がる本を五十嵐の顔に向けて投げつける。
さすがに自分の身を庇おうとするが、当たらずに済んだ。
「はぁ? あんた何?」
髪が雑然として長い男子、のちに知ることになるが、彼が雪浦だった。
彼は片手で燃える本をキャッチすると、何度か手で払い火が消えた本を五十嵐に渡す。
「お前のか?」
「はい……だってばよ」
「ねぇ、聞いてんの? あんたも何、この女に惚れたくち?」
「いや、こいつは知らんが」
「じゃあ、なんでここ来てんのよ」
「ただの勉強の合間の気晴らしだ。特に理由はない」
「チクんの?」
「興味ない」
雪浦は冷たく言い払うと、何故か落ちている小石を拾い上げる。
「ただ、そうだな。この辺の木には、夏先になると虫が多く集まる」
ヒュッと小石を木に投げつけると、女子生徒たちの頭上に虫が降り注ぐ。
阿鼻叫喚となった彼女たちは逃げてしまった。
「ありがとう、だってばよ」
「図書室」
「え?」
「図書室で俺は毎日勉強している。そこでならうるさい虫もいないし、本も読み放題だ」
それだけ言って雪浦は去った。
それからは放課後や休み時間になると、誰にも捕まらないよう図書室へと通い詰めた。
いつしか五十嵐へのイジメは薄れていき、また夏休みを挟んだことで飽きた女子生徒たちは彼女の生活を邪魔をすることがなくなった。
「先輩には芯があって羨ましいさー」
季節を何度か超え、春もほど近い頃。
五十嵐は『勝つための思考 vol.23卓球編』を読み終わった後に雪浦にそう尋ねた。
「別にないが」
「ありますさー。先輩は何があっても動じないじゃないですさー。私は昔から本に、文字に、言葉に影響されてばかりさー」
「そうには見えないな。五十嵐こそ我関せずな態度だったみたいだが」
「あれは……怖かったから。人と関わることで影響されて、自分が自分でなくなることが。今の性格も本当に自分なのかは分からない、さー」
俯く五十嵐。
自分が影響されるのは本だけでないことは知っていた。
もし、人と関われば、自分がどこに行き着くのかは分からない。
だから本だけの世界に閉じこもったのだ。
「……人は周りの反応や環境、そしてそれらをどう受け止めるかによって人格が形成されるものだ。何らおかしなことではない」
「それは、本でも読んだことがあるさー。けれど私は、普通じゃないことが分かってるさー」
「普通が何か。それは本で書いてあったのか?」
新しい本を開こうとした五十嵐の手が止まる。
見上げてみれば、彼が真っ直ぐにこっちを見ていてくれている。
「他に合わせる必要はない。けれど周りに迎合するのもいいだろう。流されて知らない自分に出会えるのも、それを受け止められる器量があってのものだろう。俺からすれば、それは羨ましい限りさ」
これが中学時代に交わした最後の言葉だった。
彼に影響された五十嵐は、変わっていく自分を変えないままでいた。
「──先輩のお陰で、私は救われたなの」
いつの日かあの日の感謝を伝えたい。
その想いで高校もここを選び、彼との思い出が残る図書室にいた。
ただ再会できたとしてもなかなか満足がいくようなことができなかった。
「そこで先輩には私の身も心も全て自由に使い捨てて欲しいなの」
「だからどうしてそうなった⁉︎」
「火炎寺」
「……あ」
土下座したまま話し尽くす五十嵐に、霧に隠れていた火炎寺は思わず飛び出してしまった。
雪浦に名前を呼ばれてしまい、もう引くに引けなくなったので素直に謝罪する。
「ほんと勝手に聞いてたのは悪いんだけどさ、さすがに意味分かんねーよ、せ、性奴……とかさ!」
「私はPUREの人におすすめされた本の通りに実行してるだけなの。何かおかしいなの?」
「あいつらか!」
五十嵐は読んだ本に多大なる影響を受ける。
きっと渡したのはかなりハードめな官能小説だろう。一体それのどこで純愛を促成できるのだろう。
「それは間違ってるから! もっとこうさ、雪浦のこと、その好き、なんだったらさ、シンプルなのでいいんだよ」
「……いえ、別に私は先輩が好きではないなの」
「……はぁっ⁉︎」
「あなたが言っているのはきっと恋愛でしょうけど、私が先輩に抱いているのは敬愛なの」
愛には種類があると、誰かが言っていた。
友達同士に芽生える友愛、家族間で結ばれる家族愛、自分を愛する自己愛、そして誰かを尊敬する敬愛。
誰かを想い慕うことに年齢や性別、対象は千差万別あり、どれだけ大切にしているかも個々で違う。
「私は先輩に感謝の気持ちを伝えたいなの。けれども、ただお礼を伝えるだけじゃ嫌なの。そこで、関係を繋ぐことが専門のPUREにお願いしたなの」
イジメからの救済、生命を踏み留めさせてくれた存在、それは神にも等しく思えるのだろう。
「ありがとう」と、単純に言えばいいほど、彼女にとっては軽い気持ちではないことを知った火炎寺。
「そうか……けど、それはやっぱ違うと思うぞ」
「そうみたいなの。ただ他にどうすれば──」
「いらない」
黙って聞いていた雪浦は口を開いた。
「別に見返りが欲しくて助けたわけではない。そもそも助けたつもりもない。飛んできた火の粉を振り払っただけだ」
「けれども……」
「俺はいらないと言ったんだ。そんなにも恩返しがしたいのなら他を当たってくれ。いずれ現れる感謝したいと思ったその人に、その分返してくれれば、それでいい」
「──やっぱり先輩は先輩のままなの。ただ、もう一度だけ最後に言わせて欲しいなの。助けてくれてありがとうございました、なの」
今度は普通に頭を下げた五十嵐。
水の霧が少し晴れて、暖かい光が差し込んだ。
「ああ」と答えた雪浦はほんの少し微笑んでいた。
(なんか、恋愛が今から始まりそうな気がすんな)
行く末を見守っていた火炎寺。二人の間に流れる空気が甘ったるくて、今すぐにでも敬愛が恋愛に変わりそうな気配を感じてしまった。
「じゃあ、次はあなたの番なの」
「え、アタシ?」
「告白、するなのね?」
「エッ⁉︎ いやアタシはいいというか、それに関しては既にしたというか……」
「恋愛小説を数多く読んできた私には分かるなの。あなたの先輩への気持ちが恋愛だといぅ」
「ばっ‼︎ いちいち言わなくていいんだよ!」
火炎寺は五十嵐の口を塞ぐ。
当の本人は知ってるとはいえ、改めて誰かに言われると恥ずかしい。冷たい霧が再び辺りを覆い出しても、身体中が熱くて堪らない。
「……俺も、少し火炎寺に話がある」
「えぇっ⁉︎」
しかし、驚いたことに決して自分から話の振らない雪浦が用事があるときた。
「では、私は行くなの」
「ちょぉ⁉︎ いいのかそれで⁉︎」
「安心するなの。私は誰かを邪魔するようなことはしないなの」
「……う、うぇぇ……?」
五十嵐は颯爽として霧の中に消えていった。
周囲にはたくさん人がいるはずなのに、二人きりとなってしまった。
彼女の熱はまだ下がることはない。
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