第44話
差し出された手取ろうと、ヴィオラはゆっくりと自分の手を上げた。以前のように、誰かに咎められることは無い。もう、ヴィオラは誰かの婚約者ではない。誰の手を取ろうとヴィオラの自由なのだ。
「光栄です。美しい人」
ヴィオラがその手を取ると、イヴァンは軽く礼をした。それに習ってヴィオラも礼をとった。周囲でもパートナーチェンジが行われたらしく、衣擦れの音が耳に響く。曲が始まって、イヴァンはスっとヴィオラに近づいた。つないだ手と反対の手が添えられるようにヴィオラの腰に回された。そうして、リズムに合わせて体を動かせば、先程とは違った景色が見えた。
「こちらが本物?」
ついこの間見たイヴァンとは、随分と違った姿をしている。焦げ茶色の髪はスッキリとまとめられ、貴公子然とした服には金のモールがあしらわれている。履いているエナメルの靴はピカピカに磨きあげられていて、踏むステップに間違いはなかった。時折強引にヴィオラをリードするのは、男らしくもあった。
「どちらも本物ですよ。美しい人」
そう微笑んで言われれば、ヴィオラもようやく気がつくと言うものだ。
「ごめんなさい。うっかりわすれていましたわ。私、ヴィオラと申しますの」
初対面の日、カフェで会った時にイヴァンは確か噂の妹君と言っていた。それはつまり、事前情報としてヴィオラのことを知っていたということだ。だけど、イヴァンはヴィオラの名前を口にはしなかった。ダンスに誘っているくせに、名前を呼ばなかったのだ。
だから、礼儀としてヴィオラは名前を教えた。
「ありがとう。合格したと思っていいのかな?」
「合格?なにに?」
イヴァンの話すことはイマイチヴィオラには理解しづらかった。けれど、イヴァンは紳士然とした態度で接してくるから、心地が良い。オンとオフの切り替えがしっかりと出来ているのだろう。
(お義兄様もこのくらい出来ればよろしいのだけれど)
今日は何とか出来ているようだけど、アルベルトはなかなかにポンコツ仕様だ。油断するとすぐにポンコツになってしまう。邸のメイドたちはことある事に「聞いてあげて下さい」と言ってくるけれど、ヴィオラの知識ではそれが礼儀だとは到底思えない。
だから、未だに聞いてはいないのだけれど…
ゲームの設定通りなら、アルベルトはヴィオラに惚れている。それも随分と前から。不意に取り戻してしまった記憶から知ってしまっているせいで、あえて聞くのもわざとらしく感じてしまうのだ。それに、わざわざ聞いてしまうと、なんだかあざとい女だと思われてしまうかもしれない。そう考えると、ヴィオラの中で臆病者が顔を出すのだ。
「考え事かな?」
イヴァンに言われて思わずハッとなった。ダンスの最中だと言うのに、パートナー以外のことを考えていたのだ。これは大変な無作法を働いてしまったものだ。
「あなたの正体?」
こんなとき、当たり障りのない嘘が口から出てきてしまえるのも才能なのだろうか?まあ実際、イヴァンの正体については気になるところだ。
「それは、今は秘密ですね」
口元に薄く笑みを浮かべてイヴァンは言った。そんな笑い方も、随分と慣れている印象だ。
「いつもそうなのかしら」
拗ねた様な口調で答えれば、イヴァンは笑って返すだけ。
ダンスをしながらパートナーとこの様なやり取りをするのは、貴族の間ではとても普通だ。一晩だけの恋の駆け引きを楽しむのだ。
けれどヴィオラは知っている。イヴァンは攻略対象者で、出会いの通りに熱烈にヴィオラにアプローチしてくるのだ。そうして親密度が上がっていくと、ある日ハプニングが起きてイヴァンの正体が明かされるのだ。
(大方予想はついているけれど、外国の貴族か王族ってところよね)
前世でイヴァンルートをプレイした記憶はないけれど、ありがちなのはそのあたりだろう。なにしろ乙女ゲームなのだから。そうでなければかわいそうな悪役令嬢が報われない。
「しりたい?」
ターンした反動で顔が近付き、その瞬間に耳元で囁かれた。温かく柔らかな息づかいを感じてしまい、ヴィオラは思わず俯いてしまった。
ハッキリ言えばヴィオラはこの手のことにはなれていない。ずっと王太子の婚約者であったから、誰からも誘われなかったしもちろんヴィオラから誘うなんてこともなかった。だから、上流階級の令嬢が暇つぶしに嗜む恋の駆け引きが未経験だったのだ。
悪役令嬢の肩書きを持っていた割に、随分とお粗末ではあるが致し方がない。
「お義兄様に……」
かろうじてヴィオラがそう答えると、曲が終わった。
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