第2話 心のゆくままに

 母に畳の廊下を引きずられている。身体中に棘が刺さって、チクチクする。

 実の母にこんな風に扱われるのは、悲しいはずなのに……もう慣れてしまって、何も感じない。

 感情を表現出来ず、感情がない物として扱われ続けていると、本当に感情がなくなってしまいそうだ。

 母が産まれてから一度として、一切の感情を表さない子どもに愛情を持てていないまま、それでも必死にここまで育ててくれてたのはわかっている。

 こんな気持ちの悪い子供だったせいで、離婚したのだから、私を恨んでいたりもするだろう。

 せっかくのお見合いの席に、放っておくと死にかけてしまうから仕方なく、私を連れて行ってくれる。

 こんな虐待紛いの扱いだとしても、感謝しないといけないんだ。

 こんな不気味な子供を見捨てていないのだから……そんな風には全然思えないけど。

 こんな死んだように、死ぬより辛い日々を生きるくらいなら、いっそ死んでしまいたい。自分の意思で体を動かす権利が、一分でもあればそうすることができるのに……

 感情どころか、生殺与奪の権利さえ、私自身には備わっていないのだ。


 畳が深く食い込んで血が滲み始めている。こんな私を見たら、お見合い相手にドン引きされると思うけど……

 だいぶ苦心して見つけた相手なのだから、こんな私を見ても何も思わない薄情な人なのだろうか。最悪虐待に加担されるかもしれない。

 そんな絶望的な未来を想像しながら、母が襖を開ける。そこにいた人は、母と同じ年に見える女性と、私と同い年に見える女の子。

 思考がはてなマークで埋め尽くされる。何が何やらわからないまま、座布団に座らされる。お見合い相手に、子供がいるとは聞いていなかった。

 それだけに私の興味は、母のお見合い相手ではなく、女の子の方に向いていた。

 眉をピクリとも動かさず、じっと座布団の上で正座している、その子の体には包帯がいくつも巻かれている。

 それに加えておびただしい数の絆創膏が貼られているのに、全ての傷を覆えてはいない。

 虐待されながら入ってきた私に驚かなかったことを考えると、この子も虐待に近い扱いを受けているのかも。

 原因はわからないけど、私と同じように、この子の表情は凍ったみたいに動かない。

 心の奥がどうなっているかはわからないけど、表面だけでも私と似ているなら、言葉を介さずに心が通い合うこともあるかもしれない。

 なんて子供じみた夢を膨らませる。目の前にあるお茶菓子一つさえ、手が届かないのに、どうして心が通じ会う相手と巡り会えるというのだろう。

 もし通じ合うというのなら、自分の意思では食べられない私の意思を汲み取って、食べさせて見せて欲しい。

「あなたはこのお菓子を食べさせて欲しいんだね。食べさせてあげる」

 その言葉と共に、まばたき以外に動作のなかった女の子が、おもむろに立ち上がって、私の側に近づいてくる。

 そして久遠の彼方に置かれていたお菓子を、私の口元に運んでくれた。

「よかった……菫にもちゃんと、感情があったのね……」

 声の方を向くことは出来ないけど、母のすすり泣く声が聞こえる。

「今までごめんね……これから菫のことちゃんとわかってあげられるから……」

 母が私を強く抱きしめてくれる。これまでの私の扱いを考えると、随分と都合のいいことを言っている気がする。

 それでも……こうしてお母さんに抱きしめて貰うのは嬉しかった。それを伝えることは出来ないけれど。

「お母さんに嬉しいって伝えたいんだね。伝えてあげる。お母さん、抱きしめてくれて嬉しいよ」

 女の子が、私が浮かべた言葉を代弁してくれる。

 何が起こっているのかわからないけれど、とにかく幸せなことが起こっているのだけは、確信できた。



 沙癒を見つけてくれたのはお母さんだった。お母さんのお見合いという形だったけれど、実際は私と沙癒を引き合わせるのが目的だったみたい。

 オカルト的な解決策だけど、人の感情を読み取れるエスパーを探していたら、沙癒を見つけたとのことだった。

 沙癒のお母さんの方も、他人の感情に振り回される沙癒に、振り回されるのにうんざりしていて、ブレーキになってくれる人を探していた。

 二人の母の利害は一致し、私と沙癒を会わせるという話になった。

 この出逢いは、少なくとも私の人生を変える出来事だった。

 産まれて一度たりとも、言葉も感情も交わすことの出来なかったお母さんと、色々なことを共有出来るようになった。

 初めて親子になれた。沙癒がいてくれたから、私はお母さんの子どもになれた。人間になれた。

 ありがとうなんて、月並みな言葉では感謝しきれない。きっと沙癒は、どれだけ感謝しても、喜んでもくれなければ、頬の一つも動かさないだろう。

 だとしても、感謝しかなかった。

 沙癒に恩返しをしないと。沙癒の安全を守るくらいなら、私でもきっと出来るから……




 こんなことをしたい訳じゃなかった。ほんの少しの……本当にちょっとの気の迷いで、人を殺したいと願っただけだった。それくらいなら普通に誰でもあることなのに。

 だけど私の側には沙癒がいた。他人の願いを無秩序に叶えて行く人間が。

 気付いた時には、お母さんは血の海に沈んでいた。沙癒が花瓶を手に取り、それをお母さんの頭に叩きつけて……脳漿が辺りに飛び散る。

 後悔という言葉では到底形容しきれない。私が意思決定できたのなら、お母さんを殺すことは絶対になかった。

 返り血に塗れた沙癒を見る。人を殺した高揚感に酔うでもなく、自責の念に駆られている訳でもない。いつも通りの機械的な沙癒のままだった。

 私のせいで、普通の親子関係ではなかったかもしれない。それでもお母さんは私を愛してくれていたし、私もお母さんを愛せるようになれた。

 沙癒が私とお母さんを繋いでくれた。その沙癒が、私とお母さんを……ううん、違う。私のせいだ。沙癒がお母さんを殺したんじゃない。我を失った私がお母さんを殺したんだ。

 沙癒と過ごす時に注意しないといけないことを、怠ったから。


 愛する家族を自分の手で殺めた実感が、体の奥から湧いてくる。それが嗚咽に変化することは決してない。

 感情を表に出すことは、こんな時でさえもできないのだから。

 私はどうすればいいの? お母さんもいなくなって、このままじゃ沙癒までいなくなっちゃう。

 ただ沙癒と肌を重ねたいと、そう願っただけなのに……全てを失うの?

 いやだいやだいやだいやだ。

 もうすぐ沙癒のお母さんも帰ってくる。この死体と血に塗れた沙癒を見れば、引き離されるに決まってる。

 逃げるしかない……どこか遠くに、沙癒と二人で。

 「菫お姉ちゃんは私と二人で逃げたいんだ。二人で逃げてあげる」

 私の願いを察知した沙癒が、手を引いてくれる。

 どこへ連れて行ってくれるのかはわからない。だけど、沙癒が側にいてくれるのなら、昔みたいな、人間未満の生き物にはならないでいられる。

 私を人間にしてくれる沙癒がいてくれるなら、生きる場所はどこでもいい。

 

 産まれて初めてだった。自分の意思で、玄関の扉を開いたのは。

 物理的な意味で扉を開けたのは沙癒で、側から見れば私は沙癒に引っ張られているだけ。

 だけど、間違いなく自分の意思で扉を開いた。

 嬉しかった。

 外にはいろんな感情が渦巻いている。前向きな物も、人には話せない後ろ暗い物も。

 感情の坩堝の中に沙癒を連れて行けばどうなるか分かったものじゃない。

 だから沙癒を外へ連れていくことは禁止されていた。

 でも、お母さんがいなくなって、沙癒とだって引き離される未来が見えていて……もう失うものなんてない私が、沙癒を使って自由を謳歌するのを躊躇う理由はない。

 どうせ同じことだから。全部失うことが約束されているのなら、最後くらい自分の意思で生きてみたい。


 沙癒が前を走って、私はそれに引っ張られて、街を行く。

 見慣れた風景でも、誰かに連れられている時とは、違って見えた。

 沙癒と二人で歩く世界は、どこか輝いていて。

 お母さんを失った孤独感と、退路は既にないという高揚感が、この逃避行をどこか楽しげなものにさせている。

 沙癒と出逢った。それだけでは自分の思い通りになんてならなかった。

 沙癒が問題を起こさないように、沙癒の母親が決めた規則で雁字搦め。

 私の意思が介在する余地なんて、ほとんどなかった。もちろん沙癒の意思も。

 心の何かが欠けたままの私たちは、二人合わさってはじめて人間になれる。

 機械のように生きることを強いられた私たち。ギリギリ譲歩できる最低限の自由意志を、生まれて初めて手にしている。

 お金も、未来もなさそうだけど、この逃避行は楽しいものになる。良い思い出になる。そんな予感があった。


 なんて思っていたけど、私たちが二人の逃避行は、たったの二時間で終わりを迎えた。

 十五年間、問題行動を絶え間無く起こし続けてきた沙癒を、なんの対策もなしに、見ず知らずの私に預けておくはずがなかったのだ。

 そんなこと冷静に考えれば分かったはずなのに。


 沙癒の体には、何か発信機が埋め込まれていて、それを辿って沙癒の母親が現れた。その隣には、警察の人もいる。

「お母さんは、私におとなしく従って欲しいんだね。従ってあげる」

 突然目の前に現れた追跡者に混乱する私をよそに、私を庇うように立ってくれている沙癒の意識を、沙癒の母親が奪う。

 沙癒は私の方をちらりと振り向くこともなく、自分の母親の方に向かって歩いていく。

 行かないで……私をひとりにしないで……

 そう強く願っても沙癒は歩みを止めない。あの母親は、自分の娘をどうすればコントロールできるかを、私より“心得”ているんだ。

 あの家で何が起こったのかを察しているのだろう。私に視線を合わせることもなく、沙癒を両腕で抱きしめて向こうへ行ってしまう……

 追いかけたいのに! 沙癒を奪わないでと叫び出したいのに! 私の足りない部分を埋めてくれる私の一部を返してと、赤子のように泣き喚きたいのに!

 どれも許されない……感情を表現できない私は、何よりも大切な、沙癒が視界から消えるのを、ただ漫然と見つめていることしかできなかった。

 沙癒がいない私は、沙癒を求めることさえ許されなかった。


 沙癒は殺人罪か何かで捕まるのだろうか……少なくとも、私と沙癒の人生が交わる瞬間は二度と訪れないだろう。

 いやだ……寒くても暑くても、自分ではどうしようもなくて……喉の渇きも、空腹も、何一つ自分では解消できない、置物になんて戻りたくない!

 沙癒のためとかどうでもいいから……苦しみたくないから……私のためだけに、沙癒に戻ってきて欲しい。

 一人で生きていける自分の母親じゃなくて、一人では呼吸さえままならない生物未満の私を選んで欲しい。

 私から沙癒を奪おうとする人たちなんて、殺すなりなんなりして、帰ってきて欲しい……

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