心を貴女に委ねたら
神薙 羅滅
第1話 心をさらわれ、堕ちて
きっと、私と沙癒は二人で一つだった。なのに私たちは遠く、離れて産まれてきてしまった。
ありえないほど時間的にも空間的にも……そして血の繋がりさえも。
沙癒との出会いはそれほど劇的ではなかった。今年の初めに親が再婚して、相手の連れ子だったから、姉妹になっただけ。
顔も体格も、髪の色さえ、何もかも似ていない。血なんて毛ほども繋がっていないのだから当然だった。
でも、きっと元々の魂は一つだったと……それが何かの不運で別れてしまったと、それだけは確信出来た。
私は産まれた瞬間から感情を表現出来なかった。心に喜怒哀楽はちゃんと存在するのに、それが行動や表情に反映出来ないのだ。脳の障害だとしたら、かなり悪質な部類だと思う。
私に許された行動は、実務的な物だけ。食べて、寝て起きる。それしか出来ない。
それらの行動だって、自由に出来る訳ではない。生命活動に著しく障害が出始めるまでは、自力でそれらを解消することは許されなかった。
徹夜程度の睡魔では、私の脳は感情的な不快感としか認識せず、過労死寸前になり、気絶するまでは意識を暗く閉ざすことさえ出来ない。
餓死寸前になるまでは、自分の意思で食べ物を口に入れられず、重度の空腹感程度では、誰かに無理やり口に食事を捻じ込んで貰うしか解消法がなかった。
日常生活を送るだけで生命活動が危ぶまれるのも相応に問題だが、この障害は私が人生を楽しむことさえも困難にさせている。
好きな物があったとしても、それを自分から手に入れる行動も取れず、誰かに察してもらうしかない。
でも、喜怒哀楽を他人には推察出来ないから、嫌な物を与えられてたり、逆に好きな物を取り上げられたりしたことも少なくない。
自由意志を極限まで削ぎ落とされ、まるで機械のような私。でもその内面はどこまでも人間なのに、誰もそのこと理解してくれなかった。
そんな私の埋め合わせをするように、沙癒は感情がなかった。なのに他人の感情を察知する能力はエスパー以上で、しかも察知したそれに行動が否応なく左右される。
例えば、沙癒の近くで人がイジメられていたとして、その子が相手に殺意を抱いたりしたら、その感情に沙癒が釣られて、イジメている方を殺そうとしてしまう。
そんなことが度々起こるから、沙癒は何度も少年院に入った経験がある。
でも悪いことばかりじゃない。子どもが線路に落ちていて、みんなが内心助けたいと願いつつも、恐怖で行動に移せない時、沙癒はためらうことなくその子を助けに行ける。だから感謝状だってたくさん貰っている。
だけどこれらのエピソードは、沙癒の目に見えやすい一面に過ぎない。
本当に問題なのは、沙癒に暴力を振るいたいと願う相手が現れたなら、沙癒はそれを無条件に受け入れてしまうことの方だから。
沙癒の親権がない方の母親が暴力を振るいたいと願う時には、沙癒は彼女の望む通りの反応を示してあげる、出来の良いサンドバックになってあげていたらしい。
それが原因で、沙癒の両親は離婚した。
突然なんの前触れもなく善にも悪にも移ろい変わる、それでいて酷い虐待を無抵抗で受け入れる、感情の箍が外れた狂人……それが沙癒に対する世間の評価。
でもそれは全く的外れで、その実、沙癒は他人の感情に引き摺り回されているだけで、いくら恨まれようと、感謝されようと、心が存在していないから何も感じていない。
表面的には激情の体現者なのに、内面はどんな機械よりも機械的な少女……それが沙癒という人間だった。
全く逆の感情についての欠点を抱えている私たち。共通しているのは、誰にも理解されず、気味悪がられていること。
沙癒は除け者になっても感情がないから平気みたいだけど、私はそうもいかず、なのに平気に見られるから辛い。
そんな私にとって沙癒は、人生ではじめて出来た、私を寸分違わず正確に理解して、表現してくれる人だった。
私だけが沙癒に助けられている感じがするけれど、それでも私はお互いの欠点を上手くお互いを補い合っていると信じたい。
少なくとも互いに欠けた魂の一部だと思えてしまう程度には、依存し合っているように、周りからは見られてはいるのだから。
私は日々の生活の不便を沙癒に補ってもらう。そして沙癒は、沙癒の身に降りかかる理不尽に私が怒り、その感情を沙癒が察知して、その場から立ち去る。
感情のない沙癒にとって私は特別でもなんでもないかもしれない。だけど放っておくと、暴力を振るい、理不尽に暴力を振るわれ、無秩序に傷を増やしていく沙癒が、正常な感情を心に描く私といる時間が増えたことで、体に刻まれる傷の数が減ったのは紛れも無い事実だった。
沙癒と姉妹になってから初めての夏休み。夏休みになってから、私と沙癒が接する時間は爆発的に増えた。
ただでさえ依存気味なのに、感情のブレーキが段々と効かなくなりはじめている。
「菫お姉ちゃん、喉渇いて苦しいんだ。炭酸がいいんだね。取ってきてあげる」
感情の起伏が全くない機械的な声質と行動。知らない人が見たら酷く不気味な光景だろう。そうでなくとも、全く動かない私と、言葉を介さずに私の考えを察知して動く沙癒を見たら、異常を感じない方が異常だろう。
でもそんなことはどうでも良い。私の代わりに冷蔵庫へ、飲み物を取りに行ってくれる最愛の沙癒を見つめながら、例年通りの夏を過ごさずにいられたことへの感謝を、胸に敷き詰める。
喉が渇いても、初期の不快感だけでは、感情にしか作用していないから行動に移せない。命に危機が生じる、熱中症寸前になってはじめて私は、生命維持活動の範疇に入り、飲み物を取りに行ける。親が定期的に水分補給することを忘れるだけで、私は生死の境を彷徨っていたのだ。
冬も似たようなもので、自分で着れるのは凍え死なないで済む最低限までで、それ以上は誰かに無理矢理着せてもらわないとダメ。そして、目的地に着いて暑過ぎたりしても、死に直結する暑さでなければ自力では脱げず、脱げても死なない程度の暑さまで。
気温に関することだけでも、不便なんて言葉では片付けられない程の激しい苦痛が伴っていた。
沙癒と一緒にいるとそんなことは起こらなくなった。嫌なことを嫌だと思うだけで、沙癒が察して、全部快適にしてくれる。沙癒が側にいて初めて、感情を表現して、誰かと共有できるようになった。
沙癒がいてはじめて、私は人間になれた。
「はいどうぞ……菫お姉ちゃん、私がいて嬉しくて幸せで、ずっと私といたいんだ。ずっと一緒にいてあげる」
そう言って沙癒は、私の腕に体を絡みつかせてくる。私の気持ちを完璧にトレースして、私が望んだことをしてくれる。
私が抱いている好意も簡単に見抜いて、その気持ちに応えてくれる。
一度たりとも味わったことのない、心が通い合うという経験に胸が高鳴る。その気持ちを心に描かないようにするのに苦労する。
具体的な望みを沙癒の近くで描くのは、お母さんとの約束で禁止されているから、ちゃんと自制しないと。
沙癒は他人の感情に相対した時、融通が全く効かない。殺したいと願えば殺すし、私がコーラを飲みたいと願えば、コーラをなんとしてでも手に入れてくる。その時にお金がなければ、万引きも強盗も厭わない。
沙癒といる時は、幅をもたせた感情だけにしておかないと危険だった。さっきも具体的な飲料名はぼかしてから心に感情を描いた。これなら沙癒が危険な行動に出るリスクを軽減出来るから。
自分の感情を制御するのは、沙癒の為でもあり、自分の為でもある。
私はあくまで、沙癒が感情に釣られて危ないことをしないための安全装置。
その対価として、沙癒の能力を使わせてもらっている立場なのだ。
私のお母さんと、沙癒のお母さんは愛し合って結婚した訳ではない。
我が子の幸せを考えた時に、二人を姉妹にするのが最良だと考えたから、結婚しただけ。
私の感情のせいで沙癒が危ない目にあったら、すぐにこの関係は終わる。それは私でも沙癒の意思でもなく、沙癒のお母さんの意思によって。
だからこの沙癒への想いは、ちゃんと制御しないといけない。
日常の苦痛を和らげるという打算で考えてもそうだし、一つの恋の結末として考えてもそうだ。
わかっている。わかってはいる。でも、心の底で抱いている感情に、幅を持たせるのは難しい。沙癒が好きで、恋愛感情を抱いていて、依存していて、独り占めしたい……
心の奥底で木霊する願い。これ以上は危ないと理性を取り戻して、感情を思考の隅へ追いやろうと……
「菫お姉ちゃんは、私のことが好きなんだ。恋人になりたいだ。恋人になってあげる。キスもしたいんだ。キスしてあげる」
自分の失敗に気付いた時には全てが手遅れだった。私が望んだように、床に押し倒されて、唇を塞がれて、舌を入れられる。恋人同士であることの証明として私が望んだように、一本一本指を硬く絡ませてくれる。
ファーストキスの甘酸っぱさには程遠い、あまりに深いキスで窒息寸前になってようやく呼吸が解放される。
私と沙癒の間に架かった透明な橋が、私たちの強い繋がりを表現してるみたいで嬉しかった。
「菫お姉ちゃんは、私とエッチがしたいんだ。エッチしてあげる」
歯止めが効かなかった。一度唇を重ねてしまうと、その幸福感に全てが吹き飛んでしまった。
バレたら二人の関係はお終い。感情のない沙癒とこうして体を重ねるのは、無理矢理しているのと同じだから。それは許されないことだ。
でも、たとえ無理矢理だったとしても、沙癒は嫌がる素振りを欠片も見せず、私が望んでいることを、淡々と実行に移してくれる。
頭ではダメだと、沙癒の性質に甘えているだけだと理解しながらも、心に理性が勝てるはずもなく、どんどん私は取り返しのつかない方へと向かって転がり落ちていく。
私が望んだように、沙癒が乱暴に私の服を破る。無機質な表情をした沙癒に、こうして原始的な方法で愛を注いで貰う。
側に沙癒がいない時に何度も何度も夢想した光景。それを今、沙癒がその手で実現してくれようとしている。
「菫お姉ちゃんは、もっとぐちゃぐちゃにして欲しいだ。ぐちゃぐちゃにしてあげる」
「菫お姉ちゃんは、もっと愛を囁いて欲しいんだ。愛を囁いてあげる。大好きだよ、菫お姉ちゃん……ずっとずっと、一緒にいようね」
二人で身体を重ねあっている時ですら、遠慮なく挟まる沙癒の機械的な宣言。その後に望んだ言葉を囁かれて、ちょっと思うところもあるけれど、それが沙癒の不器用な愛を象徴しているんだと思うと、なんだか一層沙癒を愛おしくさせた。
時間が流れていることも、体力の限界も……どこで交尾を行なっているかさえも忘れたまま、沙癒に嬲られる快楽に身を委ね続ける。ただこうしたいと空想するだけで、沙癒がそれを叶えてくれる。どれだけ浅ましい願いでも、ただ頭で描くだけで、沙癒は思い通りになってくれる。
私はこれまで自分の身体一つさえ、思い通りにならなかった。微細な意思表示一つ出来ない、私の気持ちを察してくれるだけでも、感謝しきれないのに。こうして献身的に尽くされたら……どうして沙癒に狂わずにいられるだろうか。
「ただい……ま……」
沙癒の肌の柔らかさと温もりで、埋め尽くされた脳内に響くお母さんの声。
上に乗っている沙癒の背後に映るのは、呆然と立ち尽くしているお母さんの姿だった。
何も身につけないまま、肌を重ねている私たちを見て、言葉を失っている。
義理の姉妹で交尾している姿を見られて頭が真っ白になる。
そんな状態でも、お母さんが何を望んでいるかは、はっきりとわかった。
「お母さんは、菫お姉ちゃんと離れて欲しいんだね。離れてあげる」
絡みついていた沙癒が、機械的な言葉とともに、離れて行く。
沙癒はその場に存在する最も強い感情に従う。沙癒と続けたい気持ちが弱まり、交尾の停止を望んだお母さんの望みが反映された。
「……菫が望んだこと……なのね……」
沙癒に感情がなく、人の感情に釣られることをお母さんは知っている。そして私には感情が存在していることも。
この後お母さんは何を願うだろう……私と沙癒が離れることだろうか……沙癒がこんなことしたのは、全部の私のせいだから……私が沙癒のお姉ちゃんでいる為の約束を破ったから。
もしそうなったら全部お終いだ。沙癒がいなくなったら、なんの意思表示も出来なくなる……昔の地獄の日々に戻ってしまう。
そんなのイヤだ。沙癒がいなくなるなんてそんなの耐えられないよ……でも大丈夫だよね? 沙癒は私のこと大好きだから、なにより私はこんなに沙癒のことを必要としてるんだから。離れ離れにならないように、沙癒が全部なんとかしてくれるよね?
「お母さんは、私と菫お姉ちゃんに別れて欲しいんだね」
でも……私の願いは届かなかった。沙癒が私の願いを踏みにじる言葉を淡々と紡いで行く。
「菫お姉ちゃんと別れてあげる。さようなら、菫お姉ちゃん」
私に突きつけられた三行半……沙癒が私を残して立ち去って行く。
……許せない。私と沙癒の仲を引き裂こうとするなんて、いくらお母さんが相手でも許せない。
こんなに私たちは仲良しなのに、私と沙癒の気持ちを無視して、強い思いで無理矢理引き離すなんて……
私の幸せを奪う人なんて……皆死んじゃえばいいんだ。
「菫お姉ちゃんは、お母さんを殺して欲しいんだ。殺してあげる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます