第3話  記憶


 幼馴染みの彼と再会したのは昨日の夕方のこと。

 学校からの帰り道、このなだらかな坂の途中で不意に名前を呼ばれて振り返るとそこに懐かしい顔があった。


「え、直斗?」


 ちょっと時代遅れな感じのチェックのシャツに白っぽいチノパンを穿いた彼はずいぶん身長が伸びて、少しふっくらした体つきをしていた。


「そっか、ここ直斗の家だったよね」


 偶然に思えたけれど、彼の後ろにある表札に目を遣った私は取り繕うように笑った。思えば通学路であるこの道を何年間も通りながら顔を合わさなかったこれまでの方が不思議だった。


「久しぶり。小学校の卒業以来かな。何年ぶりだろ」

「えっと五年と少し……」

「えー、もうそんなになるんだね。元気だった?」


 そう尋ねると彼は照れ臭そうにうつむいた。

 直斗は幼い頃から内向的で他人と話すことが得意ではない。それはいまも変わってはいなかったようで、その後は私が話しかけて彼が短く答えるというアンバランスな会話のやりとりをいくつか続けた。そして頃合いを見て立ち去ろうとした私を、けれど直斗は不思議なことを言って呼び止めた。


「え、ショコラ?」


 それは彼の家で飼われていた犬の名前だった。

 アプリコットと呼ばれる毛色をした人懐っこいトイプードルで一緒によく散歩に連れて行った記憶がある。

 けれどショコラはその頃でもすでにかなりの老犬だったはずだから、さすがにもう生きてはいないだろうと思うのに、直斗は会って欲しいと言うのだ。


「いや、ないでしょ。だって、ショコラ何歳?」

「さあ……」

「はあ?」


 その不自然な問答に訝しさは感じたものの、私は好奇心に任せていつのまにか直斗の家に入っていた。

 そこには懐かしい風景があった。下駄箱の上の置物やキッチンへと続く薄暗い廊下、靴脱ぎのすぐ手前から上がる階段。私はなんだか子供の頃に還ったような錯覚を感じ、ショコラが生きていても満更まんざらおかしくはないような気がしてきた。そしていざなわれるままに二階にある直斗の部屋に通され、ショコラを連れてくるまで待つように言われた。

 そのときになってようやく幼馴染みとはいえさすがに軽率だったかもしれないと多少の不安に苛まれた。その気分を紛らわすように私はスマートフォンを取り出して録画ボタンを押した。動画を撮影して SNS に投稿しようと思ったのだ。


「奇跡の老犬ショコラとの再会」


 フォロワーからのコメントが楽しみだった。とりあえず窓から見える夕焼けと鉄塔をスマホの画面にとらえた私は、次にそれを室内に向けぐるりと見回すように撮影した。

 けれどそのとき一瞬、微かな違和感を覚えた。

 なんだろう。

 私は画面越しにもう一度ゆっくりと室内を見回す。

 すると違和感の原因は学習机の上に置かれたノートパソコンにあった。

 その画面に流れているスクリーンセイバー。

 近づいた私はおもわず目を瞠りその場に立ち尽くした。

 それは数秒おきに切り替わるスナップショット。

 そしてあろうことか被写体は全て私だった。


 セーラー服を着た中学生の私。

 友達と私服で街中を歩く私。

 そしていまと同じように高校のブレザーを着て歩く私の後ろ姿。

 数多あまたの私が次々と映し出されていく。

 もちろんこんな写真を撮られた覚えなどない。


「なに……これ……」


 口に手を当て茫然と呟いたそのとき、背後に不穏な気配を感じて振り返った。

 いつのまにかそこに直斗がいた。


「……やっと会えた」


 その感情の見えない表情と声に私は瞬時に凍りついた。


「ずっと見てたんだよね、五年と八十四日の間。僕、香奈ちゃんのことずっと見てたんだよ」


 そう言って奇妙に歪めた表情が微笑みだと気がついて私の膝は震え始めた。

 私はとっさに直斗の背後にあるドアへと駆け出した。しかしその逃避は直斗の腕に呆気なく阻まれ、強い力でそのままベッドへと押し倒される。

 スマホが手から離れ、床に落ちた。

 恐怖で悲鳴が声にならなかった。

 そして覆いかぶさってくる直斗の頬を握りしめた拳で何度か打った。

 すると刹那、顔面に衝撃が走った。

 一瞬、視界が暗くなり、また光を取り戻すと目前にゴツゴツとした白色の塊がある。


「ほら、ショコラだよ。会いたかったでしょ」


 よく見るとそれは骨のように見えた。

 いや、たしかに骨だった。

 見たことがある。

 理科準備室で見た犬の頭骨。

 直斗はそれで私の顔を殴ったのだ。

 パニックになった私は馬乗りになって押さえつける直斗からなんとか逃れようと力を振り絞って暴れた。

 直斗はその私の腕や首を力まかせにベッドに押さえつけてくる。

 呼吸ができなくなり、こめかみがドクドクと脈打った。

 涎を垂らして私を押さえつける直斗の顔がモノクロトーンになり点滅した。

 そして私はいつのまにか気を失ってしまっていた。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 気がつくと私は仰向けで天井の一点を見つめていた。


「……ごめん、香奈ちゃん」


 その暗い涙声を耳にして、おもむろに起き上がると直斗はベッドを背もたれにして膝を抱えていた。

 私はヨロヨロと起き上がって、ベッドから降りた。

 衣服は乱れていなかった。

 興奮のせいか殴られた顔や絞められた首にも痛みはなかった。

 私は放心のまま、直斗の部屋を出て階段を降り、その家を出たのだった。

 いつのまにか夜になっていた。

 見上げると三日月とそのそばに赤い光の火星が見えた。

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