第四話・猛攻の騎士(C)

「慎之介?」

 ユリアは裏口に鉄ヶ山がいるのに気づいた。

 声をかけると鉄ヶ山が入ってくる。もう薄暗い中で、その姿はよく見えない。

「どうしたの? お煎餅食べる?」

 お茶を片手にばりばりと音を立てながらユリアが聞く。ユリアは仕事を終え、一息ついていたところだった。

「トーレン先生、頼みがあります」

 気の抜けていたユリアの表情が険しくなる。鉄ヶ山の声は真剣そのものだった。

「……行ってどうする気? あなたに何ができるの? それに、まだあそこに向かったと決まったわけじゃない」

「区長を調べる上で集めていた資料があったでしょう。あれの中で、譲って欲しいものがあるんです」

 ユリアは詳細を聞くまでもなく、どこかから紙袋を持ってきた。平たい箱のような形をした紙袋だった。

 ユリアは、こういうとき、鉄ヶ山が話を聞かないことをわかっていた。

「こういう雰囲気、何度目かしらね。毎回終わりを感じるわ。ああ、こいつはもう帰ってこないのねって……この気持ち、あなたにわかる? サイテーの気分よ」

「すみません」

「その心のない返事、腹が立つわ。ワタシ達がワルモノだって言われてるみたいで」

「……すまない、ユリア」

 去っていく鉄ヶ山の背中を見送って、ユリアは顔を伏せた。そして、鉄ヶ山は背中でそれを感じていた。

 ユリアの家を後にして、鉄ヶ山は道を歩く。自分の家まではそう遠くない。ただ、人通りが極端に少ない入り組んだ場所に鉄ヶ山は住んでいた。

 鉄ヶ山の家は、廃墟と呼んで差し支えないようなものだった。

 打放しコンクリートがボロボロになった外壁の前にきて、鉄ヶ山は足を止めた。

「自警団に全部話した方がいい。彼らが手を拱いていたのはたしかだが、複雑な状況なのもたしかなんだ」

 壁に手をついて、ようやくといった感じで振り返りながら、鉄ヶ山は暗闇に向かって話しかける。

「……信用できません」

 暗闇にヨモギがたたずんでいた。

 ヨモギは、誰に自分の見た夢を話したらいいのかわからなかった。鉄ヶ山のところに来たのは、頭に浮かんだのが鉄ヶ山だった、というだけだ。

「なにがあった?」

 鉄ヶ山の問いに、ヨモギはうまく答える自身がなかった。

 なんとも言えない不安。つまるところ、ヨモギにあるのはそれだけなのだ。

「いや、なにもなくてもいい。なにか、聞かせてくれないか? なんでもいい、声を聞かせてくれ。頼む」

 黙ったままのヨモギに、鉄ヶ山は静かに声をかける。どこか、懇願にも似た言葉だった。

 その言葉が、心をでた気がして、ヨモギはたどたどしくだが話し出す。

「澤本くんなんです。フォールの正体」

「……うん」

「チホは、たぶん、フォールに助けを求めたんです」

「うん」

「区長はチホのお姉さんの仇だから、きっと、許せなくて、それで、みんなを助けてまわってるっていうフォールが澤本くんだって知って……きっと、助けてくれるって、そう思って……」

「うん、うん……」

「だって、自警団は手が出せないから、助けてくれないから……大人からしたら間違ってるのかもしれないけど、それをしないと、チホは、もう……」

「うん」

「だからきっと、チホは澤本くんといます。あと、それで……」

「心配なんだな?」

「……嫌な予感がするんです。わたし、深く踏み込もうとしなかったけど、でも、でも、チホがやろうとしていることは、凄く危険なことだって、今になって、そう思って」

「だが、きっと、はじめからそれがわかっていても止められはしなかっただろう。だからこそ、怖いんだな」

「……はい。チホは、止めたって、きっと行ってしまった」

「オレに何をしてほしい?」

「お願いです。チホを、助けてくれませんか? 鉄ヶ山さんが自警団じゃないなら、それとは関係なく、お願いできませんか?」

 それが自分勝手な願いだということはわかっている。鉄ヶ山がいったいどういう立場なのかヨモギは知らないのだ。

 ましてや鉄ヶ山の体は見るからにボロボロだ。実力行使など期待できるわけもない。

 しかし、縋るしかなかった。

 自分の心を吐露して、それを、託すしかなかった。

「……できない。オレにはなんの力もない。すまない」

 鉄ヶ山の言葉は、氷柱のようにヨモギの心に刺さった。

 最後の一片の望みを打ち砕かれた。それは、あまりにも早く、唐突な終結だった。

「自警団に話すんだ。辛いだろうが、後のことを考えた方がいい」

 酌んでやれない、応えられない、というのは、一方的な判断とは言えないだろう。しかし、やはり、一方的な言葉に聞こえる。ヨモギにはそう聞こえた。

「……チホは、たぶん、もう」

 言葉に詰まったヨモギは、去るしかなかった。しかし、その表情には、強張った感情があるように見えた。

 後ろ髪をひかれるように振り返るヨモギの視線を、鉄ヶ山は受け止めようとはしない。

 だが、逸らした鉄ヶ山の目は、信じられないほどに鋭かった。ヨモギには見えていなかったが、人間の目とは思えないほどに、凶気と呼べる底知れぬ憎悪が、そっくりそのまま、色のない瞳に宿っていた。


***


 『城』。現行の区の象徴。

 温和な性格でありながら、隔離地域のために信念を貫く区長の、覚悟の表れとされてきた。

 そう信じて疑う者は少なかった。

 ありがたいとこそ思え、そこが伏魔殿であると知る者は少なかった。

 少なかったということは、いるにはいたのだ。誰も手が出せないのだ。

 経緯はともかく、もう今では疑いを口にすることすら危険が伴う、そういうものになっていた。

 触れざる者。計画的に目指された裏の棟梁。

 挑む者はいない。

 だが、今、前に立とうとする者がいた。

 それは傍目には正気とは思えないことだ。高速で走るトラックの前に飛び出すのと同じことだったからだ。その者が少女ともなればなおの事で、ナイーブな理由を思わずにはいられない。

 この場合のナイーブな理由とは、命を賭けるには軽い理由、というのを隠した言い方である。推し量ったようで、しかし、本音ではない表現だ。

 しかし、どうなのだろうか。本当はナイーブだったのではないか。

 少女は、逃げようにも逃げられなかったのだ。目を背けていられなかった。後ろに下がろうにも、自分自身が前へ前へと背中を押すのだ。そんなものを誰が止められようか。

 城の近くまで来たとき、少女は自分が虚ろになっているのがわかった。

 息は荒くなる一方なのに、まるで酸素が足りていない。城を見つめたまま焦点が固まる。そして、体がどんどん強張ってくる。

 同じ細歩地区とは言え、普段来ることもない離れた場所で、ヨモギは静かに自分が消えていくような気がしていた。

「おい」

 囁くように、ヨモギに声をかける者がいた。

 ヨモギの体が強張ったまま跳ねる。

「あんた、志乃原ヨモギか?」

 周囲を気にするように近づいてくる男は、ヨモギの名前を呼ぶ。

「安心しろ、澤本の仲間だ」

 その言葉で、ヨモギは足から崩れ落ちそうになった。

(よかった)

 勘違いだったか。全部、思い過ごしだったか。

「来るってわかってたよ。こっちだ」

 城から道を挟んでさらに裏手。建物の地下に連れられていくヨモギは、安心しているのとは違う感覚に身を委ねていた。

 自分を満たすこの感覚はなんだろう。

 知りたい。諦め。悲しみ。怒り。

 なぜそんなことを思うのかを自分に問えば、また、判然としない答えが返ってくる。  

 ズレ。食い違い。利用。

 自分への疑問をパズルのピースに変えたところで、ヨモギの中でそれらが勝手に動き出す。

 そして、地下室の扉を開け、差し込む光に紛れた澤本の姿を見たとき、それは完全に噛み合わさった。


 ややタイトな服。

 背中から垂れ下がるクロークのような四枚の布。

 そして、脇に抱えられた鋭い仮面。すべてが真っ暗だ。


 澤本は捕食者だ。夜そのものだ。あの日見た、夜を切り裂く月光ではない。

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