第143話 一万年の成就

 龍人の奏でる音色は、普段の様子から想像もできないほど美しかった。


 踊りを踊るように、軽々と鍵盤の上を滑っていく長い指。

 音色に誘われた天使が礼拝堂に舞い降りたのか、空気が澄みわたていく。


 喜びに満ちた旋律。

 心地よい音の粒が春の雨のように全身を打ち、ここ数日に訪れた悲しみを綺麗に洗い流してくれる気がした。


 やや切ない旋律へと曲調が変わる。

 すると、音の粒が先ほどよりも大きくなった。

 私の悲しみを分かって慰めてくれているのかもしれない。大きな音の粒が私の感情を背中から押し出して、より一層気持ちが浄化されていく。


 そして再び明るい旋律に戻る。

 今度は自分を励ましてくれているような、見守ってくれているような、愛情に包まれた気持ちにしてくれた。


 ……ピアノの音がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。


 はじめての音色にすっかり癒された私は、演奏が終わると自然に龍人へ拍手を送っていた。


「すごいよ龍人、かっこよかった! 下手だなんて言ってたけど、全然そんなこと……」


 龍人の背後から駆け寄った私は、顔が見えたところで足を止める。


「龍人……?」


 龍人の目から流れている大粒の涙。

 滝のように流れる涙がズボンの太ももをびしょびしょに濡らしていた。


「龍人! どうしたの⁉」

「……え?」


 私に声をかけられた龍人はまるで夢から覚めたばかりのようで、一呼吸おいてから自分の頬に触れ「あれ?」と呟いた。そして涙をこらえて苦笑する。


「やっぱり音楽は感情を引き出してしまうね。……ダメだなぁ」


 こらえきれなくなったのか、諦めたように龍人が下を向くと、数粒の涙が再び太ももを濡らした。膝の上で握りしめた手が震えている。


「龍人……」


 感情を押し殺そうとすればするほど辛さがつのる。以前「みんなに心配をかけないようにしなきゃ」と、なんでもないフリをしたときに私が感じたことだ。


 しかし、幸運なことに私は嘘が下手だったから、ユリミエラもユーリも私の気持ちに気が付いてくれ、慰めてくれた。

 龍人は嘘がとっても上手だから、きっとたくさん我慢してきたに違いない。


 ポタポタと音を立てながら龍人の足が濡れていく。


 涙が止まらない龍人を前に、私をエスコートした龍人の手が冷たかった理由、そしてここに来る前に言った「勇気を出して向き合ってみる」という言葉の重さを感じる。


 かわりになにかを解決することはできないけど、こういう時にどうすれば良いのか、私はユリミエラとユーリから何度も教わっていた。


 私は前よりちょっとだけ伸びた龍人の髪へ手を伸ばす。

 下を向いて震えている頭を引き寄せた。鎖骨の下に、熱くなった龍人の頬と温かい涙を感じる。いつもと変わらない消毒液の匂いの中、汗で湿る焦げ茶色の髪に指を通して抱きしめる。そして、もう片方の手でそっと背中をさすった。

 

「ここには私以外誰もいないから、なにも我慢しなくていいよ。今までとってもよく頑張ってきたんだね」


 最初は体をこわばらせていた龍人が、ゆっくり私に体重をあずけ、声を出して泣き始めた。背中をさする手に、長年凝り固まっていたであろう龍人の思いが、震えとなって伝わってくる。涙と一緒に全てを洗い流せる様、私は何度も何度も手を往復させた。


 詳しいことを知らなくても、いつもひょうひょうとしている龍人の今の姿を見ているだけで、どれだけ辛い経験をしてきたのか分かる。気持ちを察した私の目からも溢れる涙。


 自然と涙が止まるまで、二人は気の済むまで泣いた。


「もう、一人で頑張らなくて良いんだよ」


 私が言うと、ひとしきり泣いた真っ赤な鼻の龍人が、少し離れてにっこり微笑んだ。


「へへへっ、みっともない姿を見せちゃった。恥ずかしいな。シエラちゃんの気持ちはすごく嬉しい。でも、僕はまだやることがあるから、もう一度だけ頑張らきゃいけないんだ」


 ……龍人が頑張るって言っているのは、ジュダムーアとの婚約のことだろうか。


「龍人、本当のことを言ってよ。本当は私たちのこと、仲間だって思ってるんでしょ? ねえ……そうだと言って。私は龍人が敵だと思いたくない」


「龍人が好きだから」と言うと、龍人は再び泣きそうになりながらグッと涙をこらえた。


「……シエラちゃんに、僕から一つ、お願いがあるんだけど」

「なに?」


 私の質問には答えず、満面の笑みを見せる龍人。


「僕が死んだら、僕のファーストキス、もらってくれる?」

「え……? 何を言ってるの……し、死ぬなんて!」

「一回くらい、自分の望みが叶ってもいいかなって」

「死んだら……意味ないじゃん。生きてよ、龍人のばか! 龍人がいなくなったら嫌だよ!」


 縁起でもないことを言う龍人に、驚いた私が戸惑いを見せる。

 軽く握った拳で目の前の胸を叩くと、龍人は楽しそうに肩を上下させた。

 私は怒っているのになぜか嬉しそうだ。


「あははっ、そうだね、ごめん」


 穏やかな龍人が、私の頬を親指で拭って言った。


「今のは冗談。だから、僕に見せてくれる? シエラちゃんの、かわいい笑顔」

「もう、何言ってるの」

「はははっ、泣き笑いもかわいい」


 私を安心させようとしているのだろうか。

 しかし、龍人が明るく振舞おうとすればするほど先ほどの言葉がひっかかる。


 ……自分の命を犠牲に、なにかをしようとしているの?


「ねえ、龍人。本当に冗談なの? 龍人のことだからなにをするのか心配でしょうがないよ」

「シエラちゃんは天使のように優しいね。……大丈夫だよ。僕が永遠の命を持ってるって、知ってるでしょ?」

「そうだけど……」


 幸せそうに笑う龍人に、私は不安を募らせた。







 そのころ、トライアングルラボラトリーにいるユーリは、黒猫のキングを抱っこしながら植物園ビオトープを散歩をしていた。

 翌日の決戦を前に、意気込みを固めるようにつぶやく。


「いよいよ明日の夜か。上手くいくと良いな」

「上手くいくと良いな、じゃなくて、上手くいかせるんだろ。お前、肝心なところでなーんか弱っちいよな。そんなんじゃシエラを誰かにとられちゃうぜ」


 独り言のつもりが、誰か先客がいて聞いていたらしい。

 ユーリは照れ隠しをするように勢いよく振り返った。


「なんだよ、シエラは関係ないだろ! 俺のこと馬鹿にして……あれ?」


 誰もいない。


 何度もきょろきょろしてみるが人影らしいものはどこにもなく、人工の風でそよぐ草しか見当たらない。

 空耳だろうか。


「……今、確かに誰かの声が聞こえた気がしたんだけど」

「おいおい、耳も悪くなったのか。そんなんで大丈夫なのかよ?」


 ユーリとキングの目が合う。


「え、今のってもしかして……キング?」

「へっ、他に誰がいるって?」


 キングが牙をのぞかせ、楽しそうに黄色い目を細めた。




作者:田中龍人

https://kakuyomu.jp/works/16816452219517599517/episodes/16816452220373020091

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