第142話 主よ、人の望みの喜びよ 後編
お姉さんが引っ越してからも、僕は相変わらず同じような生活を続けた。
そして、ショパンコンクールの出場資格がもらえる十六歳を迎える。
血のにじむような練習を重ねた今は、子どもの時と違って感情のコントロールもうまくできるようになり、ピアノも段違いに上達した。
これならコンクールで優勝を狙える。
そう言われるまでに。
世界で最も古い歴史と伝統があるショパンコンクールは、コンクールの中でも最高峰。優勝者がいない時もあるほど、審査が厳しい。
日本人の優勝者は過去に一人もいない。
僕がはじめの一人になれるだろう。
このことが周りからの期待をさらに大きくした。
自分のテクニックは、他の参加者に引けを取らないことを客観的に知っている。
しかし、僕の目標は金賞を取ることではなく、さらに上。
両親の自慢の息子になるのは、ショパンコンクールよりも難易度が高い。
コンクールで優勝したら、両親は僕を認めてくれるのだろうか。
ここまでやっても駄目だったら、次はどうしたら良いんだろうか。
根拠のない不安が湧いてくる。
「だから、何度言ったら分かるんだ。感情を出し過ぎている。もっと感情を抑えろ。正確に弾け」
ピアノに向かう僕に父の怒号が飛ぶ。
「……すいません」
自分ではうまく弾けたと思ったのにこれだ。
ピアノの知識がない父親は、とにかく指摘をすれば上達すると思っているらしい。
些細なミスが結果を大きく左右するのは事実。だから、僕に寄せる期待が大きい分、父が真剣になるのも理解できた。
きっとこれも父親なりの思いやりなのだろう。そう自分に言い聞かせる。
音色に表情が無さ過ぎてもいけない。
感情が出すぎてもいけない。
良い演奏をしようと思えば思うほど父親の苦言が蘇り、無意識に感情が引き出さる錯覚に襲われる。
もっと頑張らなきゃだめだ。
恐怖を拭い去るために、限界を超えた努力を重ね、日に日に自分を殺していった。
ただひたすら無心に、ピアノへ向かい続ける。
2021年10月、僕は一人、ポーランドに来た。
会場はワルシャワのフィルハーモニーホール。
ショパンコンクールが始まり、一次審査、二次審査、三次審査と順調な成績を残していく。そして、コンクールのファイナル。
世界中から集まって来た百六十四名のピアニストから、十名のファイナリストが絞られた。
次々とノーミスで披露される優れた演奏の数々。
いよいよ自分の番がやって来た。
シャンデリアが飾られた高い天井の下、
僕は、薄暗闇を照らす複数の照明と人々の注目を浴びながら、断頭台に登るようにピアノへ向かう。
失敗してはならない。
自慢の息子にならなくてはならない。
いつも冷静でいたはずの手が震える。
……いつも通りに弾けば大丈夫。大丈夫。
不安をかき消すようにピアノの白鍵を叩き、演奏を開始した。
必ず優勝しなくては。
魅力的に、かつ正確に弾け。
ピアノの音色が聞こえてからは音が僕を守ってくれて、いつも通り指が動いた。
バックを彩るオーケストラの演奏が自分の奏でる音色と心地よく混ざり合っていく。
僕は自分の音色に陶酔した。
いつも以上に心地よい。
————龍人にピアノは向いていない!
突然、父の声が聞こえた。
————私の息子なのに、なぜできないんだ!
鍵盤を滑らせる手が鈍る。
————もっと感情を抑えろ。正確に弾け!
次々と聞こえる父の怒号とともに、ガラスが砕け散るような不協和音が突然耳に届いた。
驚いた僕が演奏を中止する。同じように、オーケストラも演奏を止めた。客席がざわめく。みんな何が起きたか分からないようだ。
……大事な演奏中に、誰がこんな音を出したんだろう。
観客が唖然とした顔でステージにいる僕を見つめている。
なぜそんな驚いた顔で僕を見ているんだ。
不思議に思い自分の手に視線を落とす。
僕はやっと、僕の拳が鍵盤を叩きつけていたことに気が付いた。
演奏を中断し、逃げるようにフィルハーモニーホールを後にした。
無と化した十六年。
僕は一生懸命になにをしてきたんだろう。
なんて無駄なことをしていたんだろう。
頑張っても僕が認めてもらえる日は一生来ないのに。
「はははっ。僕って馬鹿だったんだなぁ」
夜のシフィエントクシスキ公園を歩いている時、両親の期待に応えようとする操り人形が死んだ。
全てを無くした僕は、もう一度お姉さんに会いたくなった。
僕の演奏が好きだと言ってくれた、唯一の人に。
日本に帰ってから家に戻らず、昔お姉さんに教えてもらった引越し先の住所へ直接向かった。
庭先には二人の子どもと手をつなぐ、幸せそうなお姉さんがいた。
……子どもが生まれたんだ。
せっかく会いたかった人を見つけたのに、コンクールでの失敗よりも心が重くなり、声をかけることができない。
遠くからお姉さんを見た時、僕は初めて気が付いた。
子どもの僕は、お姉さんが好きだったんだ。
そしてもう一つ気が付いた。
僕の居場所は、ここにも無いんだ。
ささくれだらけでボロボロの胸が、チクチク痛む。
僕は命綱を持たないまま、光の無い真っ暗な宇宙に投げ出された。
つかまる所が無い。何も見えない。誰もいない。
誰が僕を必要としてくれるのだろう。
両親にも必要とされない僕を。
世界が僕を必要としていない。
それなら、僕も世界を必要としなければ良い。
他人は所詮他人。
期待なんか持つ方が無駄だ。
僕を理解できるのは僕しかいない。
これから僕は、自分の好きなことだけをしていく。
自分のためだけに生きていく。
そう、僕は、
もう誰も、
必要じゃない。
もう二度と傷つかない。
傷つきたくない……。
「龍人……?」
誰かの声でハッと意識を取り戻した。
「龍人! どうしたの⁉」
「……え?」
横に立っているシエラちゃんがとても驚いた顔で僕を見ていた。
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