第141話 主よ、人の望みの喜びよ 前編

「龍人にピアノは向いていない」


 十歳の僕に、パパが言った。

 僕は、ダメな子どもだ。





 僕は、医者をしている両親の自慢の息子になるために努力した。

 大きくなったら、お父さん、お母さんみたいに立派なお医者さんになるんだ。


 目標に向かい、簡単でつまらない学校の勉強、そして両親の望む全ての習い事を完璧にこなす日々。

 友達も作らず、一生懸命期待に応えようとした。


 つもりだった。


 ある日、ピアノの講師がパパにこう言ったんだ。



「龍人君は、感情が表に出すぎるんです。感情が出ること自体は悪くないんですが、龍人君の場合はリズムも音の強弱も、全て悪い方に狂ってしまう。クラシックですからもう少し冷静に弾かないと」

「言われたことが分かったか、龍人。感情をコントロールするんだ」

「はい、パパ……」



 僕は両親の自慢の子どもでいるために、普段から感情をコントロールしていたはずだった。わがままも言わないで、両親の教え通り自分の中だけで感情を処理する。

 でも、ピアノを弾くとどうしても感情が引きずり出されてしまう。ダメだってわかっていても、音が聞こえてくると無意識のうちに流れ出るんだ。


 他は全部完璧なのに、ピアノだけは上手くいかない。

 父親から「だめな息子」という烙印を押された僕は、今まで以上に自分を押し殺すようになった。



「龍人君、どうしたの? 元気ないんじゃない?」

「あ、お姉さん」


 落ち込んだ僕が庭先で蟻を見ていると、唯一僕を可愛がってくれるお姉さんに声をかけられた。

 お姉さんは十個も上で、僕の隣の家に住んでいる。


 フェンスの上からのぞく可愛らしいお姉さんの顔に、僕の心が少しだけ慰められた。そして、この世で唯一甘えられる人に、自分の気持ちを打ち明けた。


「僕、ピアノが弾けないんだ」

「えー、そう? とっても上手に弾いてるじゃない。いつも一生懸命練習しているの、外にも聞こえてるよ」

「……うん。でも、ピアノの先生に言われたんだ。感情が出すぎるって。パパにも『龍人にピアノは向いてない』って言われちゃった。だから、もう人前でピアノを弾きたくない」


 僕はしょんぼりうなだれ、蟻を棒でつつく。


「うーん、そうかなぁ。私はそう思わないけど……。ピアノ、嫌いになっちゃったの?」


 ピアノの音色は心の隙間を埋めてくれる。

 寂しいときも、優しいメロディーが僕を包んでくれて、行きたい世界へ連れて行ってくれる。

 手に入らないものも、音の世界なら手に入れられる。だから……


「……嫌いとは違うと思う」

「そっか。実は私、龍人君が弾いているピアノを聞いてすっごく癒されてるんだ。いつも優しい曲ばかり弾くじゃない? だから、『今日はピアノの練習まだかなー』って、毎日楽しみにしてるの」


 お姉さんに無邪気な笑顔を向けられ、嬉しくて恥ずかしくなった僕はちょっとだけ意地悪なことを言った。


「……音楽って、満たされないものを満たしてくれるって言うから。お姉さんも満たされてないものがあるんじゃない?」


 ……また感情的になってしまった。


 自分の言葉にショックを受けていると、お姉さんは意地悪を気にせず「そうかも」と言って笑った。


 ピアノの音色に満たされていたのは僕の方なのに。


 寂しくても両親に抱きしめてもらえない。認めてもらえない。

 どれだけ頑張っても愛してると言ってもらえない。


 そのフラストレーションが意図せずピアノに向かっていく。

 そしてそれが、ピアニストとしての欠点にもつながっていた。


 せっかく優しくしてくれたのに、余計なことを言ってしまった。申し訳なさ、自分を棚にあげてしまった情けなさで、僕は再び蟻に注目しているフリをする。


 僕がいつもよりも深く落ち込んでいることを察したのか、お姉さんが初めて提案を持ちかけた。


「ねえ、もし良かったら、私に一曲弾いてくれない? 私、本当に龍人君のピアノが好きなんだよ。音楽のことは詳しく分からないけど。でも、先生みたいに細かいことまで分からない分、自由に弾いていいから。ね?」


 自由に弾いていい。

 それが何よりも魅力的に感じた。

 そして、お姉さんが僕のピアノを聞きたいと言ってくれたことも。


 単純な僕は、久しぶりの笑顔を向けてうなづいた。


「うん!」




 お姉さんの手を引いて家に入る。

 どうせ両親は遅くまで帰ってこないし、誰の許可を得る必要もない。


 ホールに置いてあるグランドピアノの前に座り、意気揚々と聞いた。


「なに弾いてほしい?」

「そうだなぁ……私のイメージに合う曲!」

「分かった!」

「本当⁉」

「うん!」

「なんていう曲?」


 すぐに選曲を決めるとお姉さんが驚いた顔をした。


 だって、もう決まっていたんだ。

 寂しい僕の心をいつも支えてくれていた、天使のように優しいお姉さんにはこの曲しかない。


「主よ、人の望みの喜びよ」


 この時の僕は、お姉さんの言葉に甘えて好きなように弾いた。

 ありのままを受け入れてくれる人が聞いていることがとても嬉しく、そして今までで一番楽しかった。

 だから、きっとリズムも強弱もきっとめちゃくちゃだったと思う。

 でも、お姉さんも楽しそうに聞いて、拍手をしてくれた。


「やっぱり、すっごく上手じゃない! 私は龍人君のピアノ大好き!」

「えへへ! ありがとう、お姉さん。じゃあもう一曲弾くよ。次はね……」


 一人ぼっちでも良いんだ。

 パパとママが僕のことをダメな子どもだと思っても、僕にはお姉さんがいる。

 だから大丈夫。


 先生とお父さんに叱られたことはすっかり忘れて、僕は日が暮れるまでピアノを披露した。





「え……引っ越しするの?」

「うん。すぐにではないんだけどね。私、結婚することが決まったの」

「そう……なんだ。おめでとう」

「ありがとう」


 両親のおかげで、普段の僕は感情をコントロールするのが得意になっていた。

 だからこの時、ありったけの笑顔を向けてお姉さんの結婚を祝福できた。


 そして僕は初めて、わがままを言った。


「最後にお願いがあるんだけど、僕のピアノの発表会、見に来てくれる?」


 両親はどうせ来ないし、正直来てほしくもなかった。

 僕は、僕のピアノが好きだって言ってくれたお姉さんにだけ聞いて欲しかった。


 勇気を出してわがままを言うと、お姉さんは嫌な顔もせず僕の要求を受け入れてくれた。


「もちろん! 楽しみにしてるね!」


 約束通り、お姉さんは僕を見に来てくれた。

 そして僕はお姉さんのためだけにピアノを弾いた。


 お姉さんに捧げた曲は、もちろんあの時と同じ曲。

 同じ曲なのに、弾いてる気持ちはあの時と全然違った。

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