残業の終わる時

よるにまわりみち

深夜12時

「はいこれ、あんたが次の仕事に使う資料」


「ありがとう、そこに置いておいてくれ」


 彼女が持ってきた資料を横目に、私は眼鏡がずれることを気にせずパソコンのキーボードをひたすら叩いていた。


「ついでだからよかったけど、資料持ってきたんだから今度昼飯奢ってね」


「ああわかった。また誘うとしよう」


 適当に答えながらコーヒーを一杯。カフェインを五臓六腑へ染み込ませ、私は今日も終電ギリギリまで労働にかまけている。






 彼女は学生時代の同級生である。


 そして今は同じ二十代の前哨戦を終えた会社の頼れる同僚である。


 当時学生だった私とは同じ学年であった。クラスメイトとして話し合い、廊下で幾度もすれ違った。


 ただそれだけであり、今は他愛もない会話をするというだけの普通の同僚である。


 休日一緒に遊びに行くわけでもない、たまに自販機の前でコーヒーを飲み合ったり、彼女の淹れた苦いコーヒーに感想を言うだけの関係だ。そもそも私に女性を遊びに誘うような度胸などない。


 今もこうして先輩からありがたく頂戴した啓示の如き仕事や、後輩から税金の如く巻き上げた資料作りやらを二十代の遊び心を薪として燃やし勤しんでいるのである。






「あー……」

 思わずため息が漏れてしまった。これはいけない、口に蓋をせねばなるまい。人の口に戸は立てられぬが蓋ならばできようか。



 オフィスは現代の蟹工船。とはよく言ったものではあるが現代の蟹工船は船ではなく鉄筋コンクリートの様相を醸し出している。ここにあるのは潮の香りではなく豆を液体へ溶かした香りであり、海の男たちの葛藤を私は書類越しに感じていた。






「あなたまた阿保なこと考えてるでしょ?」


「むう、なぜばれた。さては神通力の使い手か」


「そういう顔してたからよ。天狗じゃなくても誰にでもわかるわよ」


 彼女は私の妄想を釈迦の一息の如く消し飛ばした。かの斉天大聖もこれには敵うまい。




「あんたの分のコーヒーもここにあるから、適当に取っておいて」


 そんなことを言って左隣の席に座り、私と同じように涅槃への修行を開始した。デスクの仕切りで表情は見えないがおそらく悟りを開いた表情であろう。






 彼女は私とは違い、仕事のできる人間であった。





 東にダメ出しをする上司がいればダメ出しを突き返し、西に欠伸をする後輩がいれば尻を叩いて指導し、南に泣きつく同僚がいれば休めと定時で帰路へと着かせ、北で営業トラブルがあれば通話越しの解決をやってみせる。


 そうして出世街道の裏道を逆走する彼女は、私の隣という窓際族予備軍の希望として燦燦と会社を照らしていた。


 何故彼女が幾人もの上司が敷き、通過していったレールから外れているのか私は存じないが、彼女の淹れるコーヒーが苦く美味であるという事実の前には些細なことであった。






(はー……終わった~……)


 私はキーボードから指を離した。残業の終わりである。


 アダムとイヴの時代から続く人類史にも、これほどの解放感を感じえる瞬間は数えるほどしかないだろう。


 明日は、否、今日は休日である。かの旧約聖書にも休みだと書かれている日曜日である。もし私が清貧な信者であったならば、上司が電話越しに伝えてくる休日出勤の命を是非とも罰していただきたいと願う、素晴らしき日曜日である。





 ようやく休めると思うと、安堵の息とともに疲れがどっと出てきた。私の体はスポンジの如く疲れを吸収しており、風呂で絞れば銭湯であろうとタイル一面を疲労とカフェインで満たすだろう。






 私は休みに何をするかを二秒ほど考えたが、すぐに頭の中を通り過ぎていった。特にやることはなく、いつもどおり檻の中のライオンと同じく食べて寝る一日であろうと私は推察した。






 まあどうであろうと、ノルマが終わった以上もう休みなのだ。早く帰って横になりたい。毎夜ともに過ごしているはずの布団が恋しい。住んでいる築25年のアパートまでは片道30分なのだが、遠距離恋愛をしている気分になった。


 そして「今夜も君と眠ろう」などと寝具に思いを馳せた。


 後で思い返せばセリヌンティウスのことを考えたメロスの如く走りたくなる痛々しさである。痛み止めでは直りそうにないが、緋のマントを身に着けるには私の肩幅は狭すぎるのであった。






「終わったの? おつかれさま、お互い明日はゆっくり休みましょ」

 彼女は私の様子を感じ取ったらしく、顔を起こすことなく私を労った。


 彼女自身の仕事はまだ終わっていないらしく、ため息を堪えているのが仕切りから透けて見えた。


 そもそも、彼女が残業をしている原因は夏のアブラゼミのように逃げていった上司の仕事の後始末である。


 厚い面の皮から濃いヒゲを突き出した上司は体重を軽くし、彼女の網から逃げ出し帰っていったのである。今はどこかのいかがわしい店でジージーと鳴いているのだろうか。



 私は、自分だけが帰っていいのかという思いに心が奪われた。


 蟻の群れの中には常にだらけているだけの存在がおり、サボりが生まれるのは自然の摂理であると主張している。


 だが私は日本人であった。休んでいいのかと思う摂理に反した日本人である。


 しかし私も疲れているのである。


 疲れていなければ獲物を見つけたオニヤンマより早く手伝うと決めるのだが、どうしたものか。




 そうして彼女の言う阿保なことを考えながら、私は鞄に手を伸ばしかけた。




「ん……? 」




 ふと、私は私のデスクの上に置かれていた物に目が行った。それはコーヒーの入った紙コップであった。彼女が淹れてくれていたものであった。




 忙しい中、私の分のコーヒーを淹れてくれていたのであるが私はすっかり忘れてしまっていた。今更お礼を言うのも遅いだろし、この一杯を飲んでから帰り際に軽く礼を言えばいいだろう。




 そんなことを考え、私は私自身を騙し後ろ指を指しながら紙コップに手を伸ばした。






「……んん?」




 思わずピタリと手を止めた。




 なんの変哲もない、いつも使っている紙コップだった。





 一つ違うのは、それが使用済みであることだった。薄い口紅の付いた使用済みの紙コップである。






 私はもちろんのこと、他に残業している者はいない。口紅の色からしてこれは、彼女が使った使用済みの紙コップである。






 他の可能性も考えたが、そのことごとくが私の脳内をかき乱すことなくニューロンの隙間へと消えていった。






 コップは一つ。もうその時には置かれてからコーヒーは冷めてしまっていた。








「……飲まないの? 」




 しばらくして、彼女は作業の手を止めないまま、キーボードを叩く音をBGMに尋ねてきた。






「いやしかし、これは……」






「飲まないの?」






 どうやら、私は弁解も文句も言えない身分らしい。






「ちゃんと淹れたわよ、ちゃんと」






 画面に向かっている表情は仕切りで隠されている。彼女は先ほどとは違い、キーボードは叩いていなかった。






「飲まないつもり? 本気? 」






「……私はいつだって本気だ」






 彼女はいつもコーヒーを淹れてくれる。




 そしてその味は、何物にも代えがたい。




 私いつもと同じようにグイっとコーヒーを飲み干し、デスクから立ち上がった。





 こころなしか苦みに違いがあった。






「約束どおり昼飯を奢ろう。明日、いや今日の昼なんてどうだね」





 彼女へ普段話しかけるように、私は彼女を食事に誘った。




「ええ、いいわね。すごくいいと思うわ」




 彼女は顔を起こし、手を上に伸ばして笑みを浮かべた。




「私も仕事が終わったところだから、途中まで一緒に帰りましょ」





 彼女は乱雑にデスクの上の書類を纏め、鞄を手にして立ち上がった。






「終電ギリギリだし、早く帰りましょうよ」






 そして彼女は、雲一つない晴れやかな表情で私を見やった。






「あなたって、単純よね」






「君に言われたくはないな」





 私は精いっぱいに言い返した。

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