番外編 赤い暴鬼と黄色い狂鬼 ろ

 牟鬼が凶鬼の背を見て嘆息していた頃、彼女も同じように溜息を漏らしていた。

 

「またよ。また言えなかった……」


 その顔も牟鬼とは違った意味で疲労感をにじませている。

 そうしているうちに、貧魂街の中心地に凶鬼はたどり着く。

 ここを境にして、東と西ではがらりと街の『色』が変わる。

 東は赤。鬼も人も空さえも真っ赤に染まっている。怒りと哀しみと、そして流血が絶えることがない。

 西は黄。鬼も人も空さえも黄色い光に包まれている。喜びと楽しみと、そして地面は黄土のまま汚されることがない。

 同じ街とは思えないほどに東と西で何もかもが違っている。

 しかし、ほんの数年前までこの街は二極化されてなどいなかった。

 東も西もなく貧魂街全土が、今の東以上に荒れ果て、廃れ、腐り、濁り切っていた。

 

 ――そう。


 凶鬼は当時のことを思い返す。

  

 ――ちょうどこのあたりだった……。


            ◆


 三年前。

 凶鬼は貧魂街を孤独の中で生きていた。それはただ生きているだけで、それ以外には何もなかった。

 心臓が鼓動している。手足が動く。腹が減る。魂を喰う。それだけ。

 理知も倫理も道徳も、単純な思考さえ凶鬼の中にはない。

 そんな暇があれば魂を求めて必死にもがき、足掻かなければならなかった。

 空腹の前にはすべてが掻き消えた。

 それでも一つ、凶鬼の心を動かしたもの。それは武器だった。

 鬼としての力と体格に乏しい凶鬼には、武器はなくてはならないもので、唯一にして絶対の味方だった。

 ほかには何も信用できない。

 裏切り。騙し討ち。そんなものは挨拶代わりの世界の中。

 あるときから武器の美しさに凶鬼は魅入られ、狂ったように武器や武具を集めて回った。

 そうしてついた呼び名が黄色い狂鬼。

 全身を万遍なく武装する。一分の隙もないほどに。そうすることでしか安心感を得られなかった。

 ただ、それは仮初の安心に過ぎず、借り物の強さでしかなかった。

 目立ち過ぎた凶鬼は、それまで以上に多くの鬼から狙われることになる。

 闘いの中で、かき集めた武器は瞬く間に残骸ざんがいに成り果て、凶鬼は素の姿――すなわち孤独で脆弱ぜいじゃくな自分に近づいて行った。

 ついに凶鬼は、鬼にとっての最大の武器である角を片方失うほどの痛手を負った。

 辛くもその場から逃げ出せはしたものの、途中で力尽き彼女は死を覚悟する。

 死ぬまでの間に、これまでのことを思い返そうとしてみたが、その作業はすぐに終わった。

 思い出など何もなかった。


 ――何も……ない。


 その事実に凶鬼の心はちょっぴりもの悲しくなって、しかしその感情もすぐに虚しさの中に埋もれて消えた。

 もう考えることはやめようと思った。

 このまま死んでしまおうと、無感情に、無感動に思った。

 そのときだ。

 死にひんする彼女の前に一匹の大鬼が通りかかったのは。

 鬼はつまらなそうに凶鬼を一瞥いちべつすると、何事かぽつりと呟いた。

 だがその言葉は凶鬼の耳には届いていなかった。

 そのとき凶鬼の意識は鬼が持っている金棒に釘付けだったからだ。

 

 ――綺麗だな……あの金棒。欲しいな。


 凶鬼は無意識のうちにそんなことを思っている自分に気付いて可笑しくなった。

 武器を求めるのは、あくまで生きるための手段のはずだったのに。

 もはや、あの金棒を奪ったところで生き残れる状況ではないというのに。

 いつしか、凶鬼の中で武器集めはそれ自体が目的になってしまっていたのだ。

 何もないと思っていた自分にも、死んでも捨てられない思いがあった。

 黄色い狂鬼はどんなときでも武器への偏愛だけは捨てられない。

 それが分かったとき、凶鬼は今更ながら死ぬのが惜しくなった。

 生きて、あの金棒を使ってみたい。

 

 ――鈍器ってあまり使ったことないんだよなあ。

 あれで脳天を叩き割ったらどんな感触なんだろう? 気になる。

 片手で扱うには……きついか、両手か。なら守りの面は鎧でするかな。

 けど、そうすると重すぎて動けないかも。

 

 武器のことを考えるのは楽しかった。

 ただ同時に妄想で終わってしまうのが明らかだったので、悲しくもあった。


 ――せめて、あれで殺してくれないかな?


 凶鬼はここで初めて金棒の持ち主である鬼の方へ目を向けた。

 しかし、すでに彼女の視界はかすんでいてその顔をはっきりとは捉えられない。

 辛うじて分かるのは赤い肌と金色の髪。

 鬼は、凶鬼の願いとは裏腹にしばらく立ち尽くした後で、その場から去っていった。

 凶鬼は途端に不安になった。

 先程までは何ともなかった孤独が、どうしてかひどく辛く重くのしかかる。

 生きてこういうことをしたいなと思って、駄目ならこうやって死にたいなと思うも叶わず。

 次に凶鬼の中に浮かんでくるのは、こんな死に方は嫌だ――だった。

 つまり、初めの気持ちとは真逆の思いだ。


 ――死にたくなくなっちゃったな。でも死ぬしかなさそうだし。

 

 この後に及んで凶鬼は、未だに己の死をどこか客観視していた。

 涙の一つも流れない。

 次の瞬間、凶鬼の体を覆っていた重苦しさが消えた。

 代わりに腹の中心から全身が温かくなっていって、目頭に到達する。

 そして、涙が流れた。

 今、自分が人魂を食したのだと気付くのに随分の時間を要した。

 その間に、この人魂を与えてくれた者ははるか遠くまで離れていた。


「あ……」


 声が出た。

 反射的に凶鬼は叫んでいた。


「ありがとう!!」


 その赤肌金髪の鬼の後ろ姿と彼の持つ金棒は、今でも凶鬼のまぶたに焼き付いている。


            ◆  


「戻ったわ」

「「「お帰りなさい!」」」


 凶鬼の帰還に、鬼たちは一斉に頭を下げた。

 そこに集まっていたのは、黄色い狂鬼の配下である貧魂街西側の鬼たち。

 彼らは皆、凶鬼に従順であり献身的だ。

 が、凶鬼はこの集団のあり方が不満だった。

 死の淵から救い出された凶鬼は、自分も同じように魂を他の鬼に分け与えようと思った。

 初めは失敗ばかりだった。

 疑われたり、騙されたり、付け込まれたり、それでも少しずつだが凶鬼の努力は報われていった。

 何匹かの鬼が凶鬼の考えに共感し、力を貸してくれるようになったのだ。

 凶鬼は嬉しかった。

 ところが、一匹ではなく徒党を組むようになると今までのようにはいかなくなった。

 目立ち過ぎれば狙われる。

 凶鬼も経験で知っていたはずだった。

 多勢の前にはなすすべがないということも。

 対抗できるだけの力をつけなければ、かつての自分のように潰されるだけだ。

 最初は一匹一匹の話を聞き、考えを正そうとしていたが、やがて限界を感じ始めた。

 止む無く凶鬼は、力尽くで集団を束ねることになった。

 再び一匹に戻るという道もあったが、すでにそれが許される状況ではなくなっていた。

 そこから勢力は一気に膨れ上がっていき、気付けば貧魂街の半分にまで及んでいた。

 凶鬼の考えは確実に実行され、着実に広まっている。

 ただ現状は凶鬼が目指していたものとは、何かが違っていた。


「どうでしたか、赤い暴鬼の野郎は?」

「いつも通りよ。本当に厄介な奴だわ」

 

 配下の一匹からの問いに凶鬼は淡々と答えた。

 それから凶鬼は、目前に立ちはだかっている最大の障害――赤い暴鬼のことについて考える。

 というより、三年前に命を救われてから、凶鬼が牟鬼のことを考えていないときなどほとんどない。

 そもそも凶鬼は、あの鬼は自分の活動に真っ先に応えてくれるに違いないと思っていた。

 むしろ、自分を救ってくれた鬼にもう一度会いたくて、こんなことを始めたのかもしれない。

 それが逆に最後まで反抗し続けているというのは意外であり、衝撃だった。

 きっとあのときのことを忘れてしまったからだ。

 凶鬼はそう思い、牟鬼に思い出してもらおうとした。

 ところが、どうしてかそれを言い出せないでいた。

 配下の鬼たちには『赤い暴鬼には手を出すな』と命令し、毎日毎日彼の元を訪れてはいるが。

 いつも凶鬼はあの出来事について話せないままに、西側へと引き返してくるのだった。

 なぜかは凶鬼自身にも分からない。

 分からないが、牟鬼には自力で自分のことを思い出して欲しかった。


「まどろっこしくありませんかねぇ、凶鬼さん?」


 とここで、不躾ぶしつけな声が凶鬼の思考を遮る。

 声の主は緑髪緑眼の鬼だった。

 全身から気怠げな空気をかもし出している、貧魂街の鬼には珍しくない手合いだ。

 凶鬼は彼の顔に見覚えがなかった。

 近頃は凶鬼の与り知らぬところで勢力が拡大しているので、全員を知っているわけではないのだ。


「あなたは……誰さんだったかしら?」

「最近入った信楽鬼しがらきってもんですが」


 やはり緑髪緑眼の鬼――信楽鬼はここ最近の間に勢力に加わった鬼らしい。

 自己紹介もそこそこに、信楽鬼はすぐに話を戻す。


「いかに赤い暴鬼といえど、所詮は一匹。全員でかかって潰しちまえばいい話じゃないですか」

「駄目よ。何度も言っているでしょう。赤い暴鬼のことは私に任せなさい」


 凶鬼は本当に幾度となく口にした言葉を発する。

 すると信楽鬼は呆れたような渇いた笑いを漏らした。


「そもそもそれが怪しいんですよね。あんた、本当に赤い暴鬼とやり合ってるんですか?」

「…………どういうこと?」

「いや。俺だって疑いたくはないんですよ。ないんですけどね」


 次の瞬間、信楽鬼の声の調子が途端に低く、重苦しいものに変わった。


「あんたと赤い暴鬼が仲睦なかむつまじそうにしているのを見たって奴がいるんですよ」


 信楽鬼は食い入るように凶鬼の目を見つめてくる。

 凶鬼はその視線に嫌悪感を覚えながらも、真っ直ぐに見つめ返した。


「そんなの根も葉もない出鱈目でたらめだわ」


 淀みない凶鬼の返答に、信楽鬼は気怠げな語り口に戻して言った。


「でしょうね。ただ俺は、こういう話が出てくること自体がまずいんじゃないかって言いたいんですよ。

 もちろん俺たちはあんたのことを信用してますが、だからこそはっきりさせておくべきなんじゃないかってね」

「つまり? あなたは私にどうしてほしいわけ?」


 その言葉を待っていたとばかりに、信楽鬼はにぃと口の端を吊り上げる。


「次の決闘に、この俺を同伴させてもらえませんか? 手を出す気はありませんよ。俺は見てるだけ……」

「駄目よ!!」


 集まってきた周囲の視線に凶鬼ははっとする。

 落ち着きなさいと心の中で唱えてから、凶鬼は続けた。


「赤い暴鬼はね、本当に凶暴で危険な奴なの。

 あなたは見てるだけと言うけど、向こうはそんなのお構いなしにあなたのことも狙ってくるわ。

 私はあなたを庇いながら奴と闘えるだけの余裕はない」

「なる・ほど・ねぇ。よく分かりましたよ」


 信楽鬼は妙に意味ありげに言葉を区切る。

 凶鬼は目前の男がまた口を開かないうちにと、口早に話し切る。

 取り返しのつかないことを、『言わされた』ということにも気付かずに。


「私の潔白を証明するのなら、もっと手っ取り早く確実な方法があるわ。

 次で私は赤い暴鬼を仕留め、奴の首をここに持ってくる。ね、これ以上ない証明になるでしょう?」

「確かにその通りだ。いや~新入りのくせに出過ぎたことを言ってすみませんでした。以後、気を付けます」

「気にすることはないわ。私たちの間に新入りも古参も、上も下もないから。言いたいことがあるなら、遠慮せずに言いなさい。

 それじゃ、私は休ませてもらうわ。明日の晩に備えて、力を蓄えなくちゃいけないから」


 戻ってきたときと同様一斉に、鬼たちは凶鬼に頭を下げる。


「「「お休みなさい!」」」

「お休み」


 疲れていたために凶鬼の瞼はひとりでに閉じ、すぐに眠りに落ちた。

 次に目を開けたとき、どんな光景が待っているのか、彼女はまだ分かっていない。

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