番外編 涙のない鬼と血のない魂売師 ろ

 朽ちた木目の隙間から差し込む日の光が、ちょうど顔に掛かり円堂の睡眠を阻害した。

 ズキズキと痛むまぶたを抑えながら顔を起こせば、思っていたよりもずっと日の色は淡かった。

 すでに夕刻と言って差支えのない時間である。

 こんな状況の中、緊張感もなく熟睡してしまっていた己の不覚に、円堂は恥じ入る他なかった。

 ここ数日は牟鬼への警戒もあり、まともに眠れていなかったとはいえ、ここで寝入っていては元も子もない。

 慌てて問題の牟鬼へと視線を向ければ、彼の方も疲労の限界がきていたのか、意外にも静かな寝息を立てている。

 そこは年季の違い、あるいは種の違いと言うべきか、牟鬼のいる場所は絶対に日の光が差し込まない本堂の最奥さいおうだった。

 金棒は脇に置き、肘をついて巨体を横へ広げた寝相が、後ろで傾いている仏像の姿勢とぴったり重なっている。

 もちろんただの偶然だろうが(牟鬼はこんな遠回りな皮肉めいたことをする男ではない)見るものが見れば憤慨ふんがいものの光景である。

 少し前ならともかく、今の円堂にはそれをたしなめる資格はなく、続いて子供たちの方へ目を移した。

 夕刻とはいえ、普通の人間が眠りに就くにはまだ日が高い。

 ところが、牟鬼と円堂から最も距離を置いた入口側の隅、ただ一人を除いて子供たちはそれぞれ個性豊かな寝相を見せていた。

 唯一目を開けていたのは、あの少女――佐耶だった。


「おかしいですね。なぜ、この時間に起きているのがあなただけなのでしょう?」


 平静を装いつつ円堂は言った。


「あなたたちのせいでしょ」


 佐耶は愛想ない調子でそう突き返す。 

 『あなたたち』が指すのは自分と牟鬼のことだと円堂は思ったが、佐耶がこの言葉に持たせた意味はより広義的だった。


「あなたたち、鬼と魂売師のせいで、私たちは夜に安心して眠れないのよ」


 普通の人間ならばこの時間にはまだ寝ていないはず、とは何と自分本位な考えだったのだろう。

 円堂は自省する。

 牟鬼と円堂がここに来たとき佐耶たちが起きていたのは、気配に勘付き目を覚ましたからなのだと思っていた。

 実際には、夜の間ずっと起きていたのである。

 鬼を恐れ、魂売師に怯え、それこそここ数日間、円堂が牟鬼に対してしていたような警戒を、佐耶たちは生まれてからずっとしていたのだ。

 そんな生活を、人生を送るのが一体どんな気分なのか、強力な神力を持つ円堂には分からない。

 ひょっとすると貧魂街にいた彼らは、そんな恐怖から逃れるために命への未練を捨てた人間の成れの果てだったのかもしれない。


「でしたら、どうして私たちを泊めたりしたのですか?」


 佐耶たちの恐怖を円堂は想像することしかできない。

 だが想像からだけでも、佐耶の取った行動がその恐怖と矛盾していることは明らかだった。

 佐耶はちらりと牟鬼に目を配る。


「あなた、あの鬼を本当に殺すつもりだったでしょ?」

「………………」


 円堂は答えない。

 あのとき、牟鬼を殺す気だったのかどうか、自分でも分からなかったからだ。


「あれを見て、私たちに危害を加えるつもりがないってあなたの言葉は本当だと思った。

 だから、少なくともあなたのことは信頼することにしたの」


 佐耶の答えは非常に単純明快だった。

 ただ、やっぱり腑に落ちない。

 それだけのことで、急に現れた円堂のことを信頼に足ると思えるだろうか?

 

「本当にそれだけですか? 何か他に理由があったのでは?」

「それだけよ。他の理由なんてない」


 円堂がさらに深く問うも、佐耶の言葉にはよどみがない。


「そんなことはないでしょう。何かあるはずです。何か……」


 なおも納得できる答えを引き出そうとする円堂に、さすがに引っ掛かりを覚えたのか、佐耶は逆に問いを返す。


「何? どうして私があなたを信頼した理由にそんなに拘わるの? 私が信頼したっていうなら、それでいいじゃない」

「しかし、あのとき私は……」


 あのとき、円堂が牟鬼を殺しかけてまで守ろうとしたのは、佐耶たちの命ではない。

 円堂が守ろうとしたのは、自分のちっぽけな自尊心だったのだから。

 そんな自分を見て信頼を勝ち得たと言われても、それを素直に受けることはできなかった。

 円堂の表面的な言動が佐耶の心を動かしたのだとすれば、そんなことを認めてしまえば。


 ――私は人を殺した。数え切れないほどの多くの人を。


 表面的な言動で悪人だと決め付けて。

 もしも、彼らの本質が違うところにあったのだとしたら、円堂のしたことは途端に意味を変えてしまう。 


『何が違う?』


 昨夜の牟鬼の言葉が頭の中によみがえる。


『真っ先に死ぬべき悪人は――』

 ――私かもしれない……。


 急に口をつぐんだまま何も言わない円堂に首を傾げながら、佐耶は根負けしたとばかりに話し出した。


「実はね。何となくなの」

「……何となく?」

「そう。何となく。この子たちのためにああいう態度を取ったけど、初めて見たときからあなたは悪人じゃないって確信してた。女の勘でね」


 円堂は自分の口元が自然と緩むのを感じた。


「女の勘ですか。ぜひともあやかりたいものです」

「どうしてあなたみたいな人が魂売師になんてなったの?」


 昨夜は頑として聞き入れる気のなかったことを、向こうから聞いてきた。

 しかしようやく佐耶が聞く気になったところで、今度は円堂に話す気がなかった。

 今のはっきりしない心のままで口に出して、また佐耶に本質と違う印象を与えるわけにはいかない。

 円堂はわざと話を逸らし、佐耶の言葉の別の部分を拾い上げる。


「私の方も不可解ですね。どうしてそれほど魂売師に拘わるのか」


 次の瞬間、佐耶の顔色が変わった。

 いくつもの感情がないまぜとなった複雑な面持ち。

 ただ、その中に負以外の感情は微塵も含まれていない。

 円堂はすぐに失言だったと気付くが、容易に撤回することさえ許される雰囲気ではなかった。

 佐耶は左手首に巻かれた数珠を握り締め、子供たちの寝顔を一人一人見渡す。

 そして、震える唇でゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「私たちの両親は、とある魂売師に……」


 そこで佐耶は下唇を噛み締めた。

 今にも血が出かねないほどに歯を食いしばり、たとえ出たところで気にしないだろうほどに悲嘆の表情をあらわにしている。

 円堂は引き返すとしたらここしかないと思った。

 けれど、やはり掛ける言葉が見つからず、しているうちに佐耶は続けた。


「催眠術をかけられたの」

「催眠術?」


 円堂がこれまで出会った僧や魂売師に、その術を使える者はいなかったが、他者の認識に干渉する術を使う者には心当たりがあった。

 その者は人間ではなく天狗であり、使う術も神力ではなく仙術せんじゅつという天狗特有のもの。

 あくまで似て非なるものであり、神力と仙術の間には天と地ほどの差がある。

 無意識の内に浮かんできた修行時代の義姉の姿を打ち消して、円堂は意識を佐耶の話へと戻す。

 

「そいつは私たちの村に突然やって来た。催眠術で親たちの目には、私や子供たちが化物に見えるようにされたの。

 私たちには分からなかったけど、鬼でも天狗でもない、とにかく恐ろしい姿形をした化物みたいだった。

 それでも……『子供たちはどこ?』って必死に叫ぶ親たちの横で、あいつがささやいた言葉以上に恐ろしくておぞましいなんてことはないはずよ」


 佐耶は吐き捨てるように、その魂売師の言葉を口にした。

 佐耶の言う通り、それを聞いた円堂の体に、これ以上ないほどの恐ろしさと悍ましさが走り抜ける。


『あの化物が喰い殺してしまいました。私めも加勢致します。子供らの仇を取りましょうぞ』


 魂売師は真剣そのものの顔で言ったのだそうだ。

 少なくとも表面的には、彼の言葉が嘘だとは思えなかったという。


「私たちはもちろんお父さんたちに力の限り呼びかけたわ。

 けど、私たちの声は何か別のものに聞こえていたみたいで『黙れ、化物』と一蹴されるだけだった」

「その魂売師は、なぜ佐耶さんたちを直接狙わずに、そのような回りくどい真似を?」


 鬼にとっての極上の餌は清らかな子供の魂であり、魂売師にとっても最高の商品である。

 何を置いても真っ先に狙うべきは子供たちのはずだ。

 円堂が抱いたのは当然の疑問だった。


「あの男はこう言っていたわ」


 佐耶はやはり悍ましさに身を震わせながら魂売師の言葉を繰り返す。

  

『魂を最高に甘くする方法を知ってるか? 恐怖と絶望にさらすことさ。

 そのときこそ真に純粋な光を魂は放つのよ。どんな色した魂も一様に染め上げる真っ黒な光。

 その光を見るのが好きなんだ。誰よりも俺がな』


 魂売師は醜い顔をさらに醜く歪めて言ったのだそうだ。

 もちろんその言葉は、催眠を受けている佐耶の親たちには、また違ったものに聞こえていただろうし、表情も、もしかしたら顔そのものも違って見えていたかもしれない。

 佐耶は何とか逃げ延び、ここで暮らしているのだと話を締め括った。

 そのような目に遭っては、魂売師に強い反感を抱くのも無理からぬことだった。

 そうなると尚更、魂売師である円堂をすぐに信頼したことがより引っ掛かる。

 女の勘……それにしてもだ。


「よくその子たちを連れて逃げようと思いましたね」


 とりあえずその問題は棚上げして、円堂は差し障りのない感想を漏らす。

 佐耶のまとっていた空気が途端に和らぎ、慈しむように再度、子供たちの寝相を見渡した。


「私ね。元々は捨て子だったの」


 突然の告白に円堂は驚く。

 佐耶が捨て子だったという事実にではない。

 自身も捨て子であるという偶然の一致にだ。


「私を拾ってくれたお父さんとお母さんにはとても感謝してる。だから、私も同じようにこの子たちを救いたかったの」


 今度は驚きではなく共感を覚えた。

 円堂もまた、捨て子だった自分を拾い上げ育ててくれた師匠のように人を救いたいと思っている。

 結局、その師匠とはたもとを分かつことになってしまったが、原点であることに違いはなかった。


「実は私も……」


 思わず円堂が口を開いた、そのとき。

 急に佐耶の体がぱたりと横倒しになって床に打ち付けられた。

 慌てて駆け寄れば、呼吸は浅く意識もはっきりしていない。

 恐る恐る、円堂は佐耶の額に手を当てる。

 

 ――熱い……!


 もはや疑う余地もなく病いを患っていた。

 咄嗟とっさに抱きかかえた体は、何の抵抗もなく持ち上がるほどに軽い。

 よくよく見れば、佐耶の体には至るところに自分でつねった跡と思えるあざがあった。

 きっと、痛みで無理矢理に眠気を飛ばしていたのだろう。

 夜は鬼と魂売師のせいで眠れないと佐耶は言っていた。

 では昼間、子供たちと一緒に寝ているのかと言えば、そんなはずはない。

 彼女たちが最も恐れている相手は、その姿をよく見たいがために、むしろ昼間にこそやって来かねないのだから。 

 佐耶が寝ずの番をしたのは今日が初めてではなかった。

 容易に想像がつくことではないか。 

 肉体的にも精神的にも、もう限界だったのだ。


「牟鬼!!」


 気付けば円堂は声を張り上げていた。

 眠っていた牟鬼と子供たちは揃って体を弾ませる。


「今すぐ水を汲んできなさい! ありったけ!!」

「ふざけるな。急に起こしおって。俺様はまだ……」


 眠気がまとわりつく両目を擦りながら文句を垂れていた牟鬼はぎょっとした。

 貧魂街で出会ったとき以上の円堂の気迫に、牟鬼は逃げるようにして外へと飛び出す。

 

「さて」


 くるりと、円堂は後ろへ向き直る。

 そこでは子供たちが昨夜と同じように、昨夜以上の恐怖で身を震わせ、隅へ縮こまっている。


「彼女を助けたければ、あなたたちも私の言う通りにしなさい。いいですね」


 子供たちは涙を浮かべながらも、全員がこくこくと首を上下させた。

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