夏の終わりに五線譜を。

高村 芳

夏の終わりに五線譜を。


 夏の終わり際、久しぶりに長袖をタンスから引っぱり出してきた今日、日野廉太郎は精彩を欠いていた。バイト中に、細かなミスが多い。釣銭を間違えて渡してしまい客に注意されてしまったり、商品であるボールペンを陳列中に床にばらまいてしまったりと、散々である。バイトに集中できない理由は、今日が例年に比べて気温が低くなっただけではなかった。


 日野廉太郎は、音楽をやめるか否か、悩んでいたのである。



 大学で出会った仲間と組んだロックバンドは、メジャーデビューを目指して活動している。「いつかデビューしてやる」と音楽に明け暮れたが、昼はバイト、夜はスタジオかライブ、という生活を、大学を卒業してから三年経った今も続けている。この文具店のバイトを選んだのも、家とスタジオの中間に位置しており、指が傷つく心配がなさそうだから、という理由だったくらいに、音楽が生活の中心だったのである。


 それは突然訪れた。

 一昨日、バンドメンバーのひとりが「辞める」と言い出した。スタジオ練習を終えて、日野がギブソン・サンダーバードのベースをケースにしまっているときだった。よくよく話を聞くと、「もう音楽で先が見えない。一般企業に就職して、彼女や親を安心させたい」という、ありがちな話だった。確かに、この間の大学の同期飲み会では、「今度新しいプロジェクトを任される」だの、「会社の後輩が入ってきた」だの、フツーの奴らは社会人という道を二歩も三歩も進んでいたのである。

 ありがちな話ではあったが、確実にメンバーに衝撃が走った。全員、口に出さなかっただけで、薄々と肌では感じていたのだ、「このまま俺たちは芽が出ないんじゃないか」、と。もちろん、何とかごまかしながら音楽を続けていた日野廉太郎も、いよいよその不安から逃げられなくなったのである。


 今日も、バイトの後はスタジオ練習が入っている。ロッカーには、つい最近弦を張り直したばかりのサンダーバードが息を潜めていた。家を出るとき、今日ほどベースを重たく感じたことはなかった。ひとり欠け、まともにバンド練習ができるとは思えない。バンドとしても個人としても、答えを出さなければベースの音が濁り続ける。日野はそうわかってはいるものの、答えを出せずにいるのだ。


「すみません」


 はっ、とした日野が顔を上げると、そこには女子高生がいた。セミロングの黒髪に、beatsの赤いヘッドホンが映えている。


「あの、五線譜ってありますか? ノートでもルーズリーフでも、なんでもいいんですけど」


 五線譜ということは、彼女も音楽をやっているのだろうか? ヘッドホンからかすかに漏れているのは、今流行りのオルタナティブ・ロック・バンドの初期の曲だった。

 日野は五線譜のノートが陳列されている棚に彼女を案内した。彼女はぺこりと頭を下げて、ノートを物色しだした。日野はレジに戻った。


 彼女が聴いていたバンドと自分のバンドは何が違うのだろうと、日野は虚しさを覚えた。結成時期もそんなに変わらない。彼らも地方でライブ活動を続けていたところ、レコード会社から声をかけられて数年前にデビューした。三曲目の楽曲がテレビコマーシャルに起用され、爆発的に売れた。 

 自分たちも、必死に音楽活動を続けているのだ。

 芽が出る人間と出ない人間の差は何なんだ? 運だとしたら、もう潮時なのかもしれない。



 突然、五線譜ノートが視界に入った。驚いて視線を上げた先には、先ほどの女子高生が立っていた。ノートをこちらに差し出している。

 日野は機械的に、ノートのバーコードをリーダーで読み込んだ。値段を読み上げ、ポイントカードの有無を女子高生に尋ねたが、彼女は何も答えず、スマートフォンを触っている。おそらく、ヘッドホンから流れてくる音楽で聞こえていないのだろう。日野は少し大きな声で、「恐れ入ります」と彼女に声をかけた。


「すみません、何ですか?」


 彼女はヘッドホンを外し、日野の方へ耳を寄せた。日野がもう一度ポイントカードの有無を尋ねようとした、そのとき。



 彼女のヘッドホンから漏れている曲。


 その荒く若いベースライン。



「それ……」


 間違いなく、大学時代の日野の指で生み出されたものだった。

 日野が二の句を継げずにいると、彼女は、


「ああ、ポイントカードですね」


と、カードを財布から抜き出しながら言った。日野はふと我に返り、カードを処理し、釣銭を彼女に手渡す。


 彼女は財布とノートを黒革の通学カバンに放り込むと、ヘッドホンをして店を出ていってしまった。

 日野は「ありがとうございました」という決まり文句を言うのも忘れ、彼女の後姿が見えなくなるまで見送り続けた。「俺って、あんな下手くそだったんだな」と笑いがこみ上げた。



 ちょうどバイトからあがる時間となり、日野はロッカーの前で着替えた。ロッカーの中で眠る、ギブソンのサンダーバード。スタジオへ向かうために背負ったベースは、朝よりも不思議と軽くなっていた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の終わりに五線譜を。 高村 芳 @yo4_taka6ra

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ