第9話 終わりの総括
慌てずに、急がずに、見つからずに、それでいて無駄なく。
走りたくなる気持ちを抑えながら、意識して速足になり、人がいそうな場所ではペースを落とす。警戒はするが、周囲をちらちらと見ていては不審者だ。
相反するものを同時にやれと言われている気分のまま、どんな訓練よりも苦しい時間は二十分ほど続き、アラディール子爵の屋敷が見えた途端、膝から崩れ落ちるよう座り込みたくなるほどの虚脱感があった。
だが、まだ休むわけにはいかない。
最後の気力を振り絞るよう中に入り、背後を気にしてから、扉をノックする。
やってきたのは侍女だった。
「――すまない。家主にこう伝えてくれ、チヒロのことで話がある、と」
「どうぞ中へ、そこでお待ちください」
できた侍女だと気づくのは、あとになってからだ。彼女の疲労を見抜き、身を隠したいことを察して中に招いたのだから。
呼吸を整える。
屋内に入った途端、鼓動が高鳴っていることにも気づき、袖で額の汗を拭う。こんな状態では、誰が見たって何事かと思うだろう。
「こちらへ」
二階の一室に案内されて中に入ると、家主が待っていた。
「やあ、先ほども顔を合わせたね。グリッチェ・アラディール子爵だ」
彼女もまた、名乗りを返した。
「まずは、そちらの椅子へどうぞ。すぐ侍女が飲み物を持ってくる。すまないね、今の屋敷でカーテンがついている部屋が、寝室しかなかったんだ」
「いえ……」
言われて気付く。そして同時に、この人はあえて部屋のカーテンを閉めたくなかったことにも。
警戒慣れしている。
どこからか、誰かが見ていておかしくないと、そういう大前提の思考だ。
飲み物を出され、失礼と言って彼女は飲む。氷の入ったグラス、中身は水ですぐなくなるが、侍女が
「――ふう、すみません。まだ混乱していて」
「では情報を整理しようか。どうしてあなたは同行を?」
「ある貴族の家で、その主犯である――だろう人物と遭遇しました。それが彼女に似ていたので、観察をしたかったんです」
「なるほど。私としては、同一人物だと確信していたけれど、その行動も頷けるよ。教会の内部に案内されたのでは?」
「そうです。そこで、彼女は神父を殺しました」
「方法は?」
「首を斬りました」
「見えたかな?」
「――いいえ」
そうだ、あれもよくわからない。
「得物を所持していたようには見えませんでした。私は最後に部屋に入り、二人が視界の中に捉えていましたが……間合いは、やや遠かったと思います。振り向きに合わせて攻撃した……のではと考えますが、想像が入っているかもしれません」
「うん、冷静になってきたね。見えなかったのに、斬ったとわかったのは?」
「両手を軽く広げた神父の動きが止まったんです。そうしたら彼女がポケットから財布と鍵を取って、軽く押すようにして倒してから、ようやく、首が転がりました。私が知る限り、それは切断以外にありえません。しかも、とても鋭利な……」
「なるほどね……」
「――あ、そうだ、あの部屋」
「部屋?」
「はい。案内されたその部屋は、シードが封印されていました。彼女に言われて試してみましたが、具現することはありませんでした……」
「そうか。シードを生み出したのが教会なら、封じることも可能なわけか。どうりで手が出せないわけだ……」
「あれは脅威です」
「これは予想だけれど、王騎士でも上にいる人たちは知っていて、黙っているんだろうね。それが致命傷になることを知っているからだ。あなたも、どれほど信用している人物でも、今回のことを話さない方が良い」
「信用している人でも?」
「私はまあ、チヒロさんに――認められているというか、使われているというか、多少の信頼があると受け取ってもいいんだろうけれど……あなただって、まだ教会を疑っているだろう?」
「それは……そうです」
「それは疑いなんだよ。疑いというのはね、信じたい気持ちがあるから発生するものだよ」
そうだ。
彼女はまだ、信じたい。いや、信じがたい。
教会とは、そういうものだったから。
「教会にとって、王騎士一人を殺すくらい、簡単だからね」
「……彼女にも同じことを言われました」
「うん、チヒロさんの方がそのことをよくわかってる。あなたを助けたのも、気まぐれか、偶然だろうね。敵意がなかった、それだけのことだろう。――それで、そこから先は?」
「え、ああ、地下にある研究所へ。そこにはご老人が一人……」
「すまない、少し待ってくれ」
おかしい、なにか見落としている。
彼女の判断に、言葉に間違いはない――はずだ。けれど何か、忘れている。
「――失礼」
そうか。
どうやら、話をしたくて浮足立っていたのは、自分だったらしい。
「申し訳ないが、あなたは今すぐ鎧を脱いでください」
「え?」
「ミメア、着替えの用意を。できれば彼女が普段、あまり着ない、それでいて動きやすい服を。簡単なもので構わない」
「――わかりました」
「よろしいですか、最低限、あなたは教会へ向かわなかったことへの言い訳を作る必要がある」
「……私が?」
「そう、あなたは神父と一緒にここへ来たけれど、体調を崩してこの屋敷にいた。その体裁を作るため、最低でも着替えてもらわなくては。ミメアは今の服の洗濯を。余裕があるのなら、明日まではこの屋敷に滞在していただきたい」
「わかりました、お願いします」
「うん。終わった頃に顔を見せるよ」
――危なかった。
もしここに教会の人間が、足早に訪れていたら、言い訳もできない。
執務室に戻って、仕事を片付けるが、頭の中はチヒロのことでいっぱいだ。
殺しの技術は、暗殺ではなかった。真正面からでも通用することが証明され――正面を向いて会話をしていた、過去の状況を恐ろしく思う。
であればこそ、頼られたのなら応じておいた方が良い。そうでなくとも、いろいろと情報をもらっているのだ。対価としては不十分でもある。
しばらくすると侍女が呼びに来たので、寝室に戻った。
「やあ、さっきよりも落ち着いたようだね」
「はい。服も、ありがとうございます」
「構わないよ、彼女の意思だ。――さて、研究所に向かったのは、彼女が先導してのことだったかな?」
「そうです。彼女は、二年前の忘れ物を、取りに来たと」
「――そうか」
やはり、そうだった。
「私も耳にしていますが、あなたはこちらに?」
「ええ、教会の内部でだいぶ死者が出たからね。その忘れ物というのは?」
「わかりませんでしたが、宝石でした。彼女が言うには、英雄ケイレアネ様のものだと」
「……、――まさか」
これは、そういう話なのか?
チヒロと出逢って、英雄の会話をして気づけたことがある。その正解を、ここで見せられた。
「……彼女と出逢ったのは、中央噴水でね、英雄の像を見ていたから話しかけてみたいんだ。そして遠回しに教えてくれたよ、英雄はもういないことをね」
「いない?」
「十年前の大戦、その英雄は今、彫像になっている。私たちの憧れはただ、その石が形を変えたものへ向かっているに過ぎない」
「しかし、英雄はいたのでしょう?」
「そう、いたんだ。けれど今はいない――仮に、あなたがその所在を知っていたところで、口には出せないはずだ。そういうものになってしまった」
「いえ、私は知りません、が……」
「どこにいるのか知らない、誰もわからない。姿を見たこともない――けれど、彫像を知っている。英雄が六人いて、彼らが大戦を終わらせたのだと、誰もがそれを知っている」
本人たちが。
今何をしているのか、そんなことも知らずに。
「こうなると、英雄が二人死んでるという彼女の言葉に真実味が増すね」
「なっ――そんなことは!」
「あるんだよ。何故なら教会は、シードを使えなくすることができて、封印することができる」
「……」
「彼女が忘れ物と言ったのも、封印されたシードだろうね……」
なぜ?
わかる、わかってしまう。この騒動に巻き込まれ、知ってしまったからこそ――気づく。
強い力を持つ者なんて、大戦が終わってしまえば、邪魔になるだけなのだ。
「では子爵、その、……教会がシードの研究のためだけに、大戦を引き起こしたと、それは」
「事実だろうね」
「――しかし、いくら
「うん、その通りだ。――はは、すまないね。彼女と出逢ってすぐの私と同じ状況だと思ってね。そしてすぐ気づく。大司教なんてものは、多少の権力はあれど、彫像になった英雄と同じだと」
「……あくまでも象徴でしかない、と?」
「王都の大聖堂にいる、そんな情報があればもう、ここを狙ってくれと言っているようなものだよ。それに、――教会は大陸全土にある」
「あ――」
なにも、この国の話だけではない。そして戦争は、一つの国だけでは行えない。
敵がいる。
ほかの国がいた。
「じゃ、じゃあ、本当に……それこそ、掌の上で踊っていただけ、だと」
「私はその可能性が高いと考えているよ」
あまりにも非現実的だが、しかし。
彼はシードを持たないがゆえに、その特性をよくよく知っている。
「この国の人間は、必ず教会で鑑定される。そしてシードがあると認められれば、クリスタルが配られ、大半の人はピアスとして耳に着ける。それを壊されるとシードが使えない――私も、今までその仕組みには、疑問を抱かなかったけれどね」
「逆を考えれば、それだけ教会はシードの仕組みに精通していて、私たちはそれに頼っている……」
「それこそ、教会の手でクリスタルを奪われただけで、シードが使えなくなるわけだ」
「それは……十歳の頃にはもう、教会の手の上になります」
「おおよそ半分、というのも疑わしく感じるね。まるで――戦力として、戦場に行って、半分だけなら死んでも大丈夫だと、そういう狙いがあったようにも考えられてしまう」
「さすがにそれは極論では?」
「それだけ怪しい、ということだよ。けれど、だからこそ、私は彼女のよう踏み込めないよ。人体実験なんて、当たり前のようにやっていそうだ」
「大戦が終わっても、まだ何も変わっていないと、研究所にいたご老人は言っていました……人質を取られ、逃げ場もないのだと」
「よくあるやり方だけれど、効果的だろうね」
「ただご老人の場合は、自由を認められている――らしい、です」
「逃げるよりも、状況を受け入れた方が良いんだろうね。それがもう、教会の手の内だとわかっていても、どうしようもない」
根深い問題だと、彼は肩を竦めた。
「やはり、気軽に誰かに話すことは避けた方が良さそうだ。ほんの少しでも教会側に気づかれれば、相手も自分も殺されるか、拷問されるだろう。上手くやるしかないね」
「とんでもない秘密を抱えてしまいました……」
「仕方がないことさ。あなたは教会へ行っていない、そう信じこむことだよ」
「努力してみます」
「うん、じゃあゆっくりしていってくれ。侍女は数人いるから、何かあったら気にせず呼んでくれて構わない。夕食の時間になったら、また呼びにくるよ」
「はい、ありがとうございます」
そしてまた、執務室に戻って仕事を続けるが、ふと思う。
彼女はいったい、どうしたいのだろうか。
いやそもそも、あの幼さであの実力だ。今までどうしていたのかも気になる。
今回はおそらく、英雄のシードを
仮に同じことをしても良かったのなら、真正面から教会をノックして暴れたはずだ。
結果的には最小限の被害で済ませた。
ある貴族の裏帳簿が盗まれ、それで得をしたのはおそらく、カモのネギ亭だろうし、教会内部も
二年前と関連付けする人は、いるだろうか。いるかもしれないが、あまりにも違いすぎる。かつては、感情に任せて暴れただけの印象だったが、今回はそうなっていない。
教会を嫌っているのは、たぶん、そうだろうけれど、復讐が目的ではない気がする。おそらく彼よりも、教会の大きさを知っているはずだ。
「若様」
「――ミメア」
「どうぞ、お飲み物です」
「ありがとう。……ミメア、王都へ行く予定は、なかったね?」
「……」
彼女は、小さく吐息を落とし、窓際に背を向ける位置へ移動した。
「リッチ、彼女を追いかけるつもりですか」
「興味があるんだ。随分と久しぶりに、興味を持てたよ。私は同じような生活を続けることは
「……」
「いや、もちろん私はミメアを愛しているよ」
「知っています。そういうことではありません。大戦には興味を示さなかったでしょう?」
「まあね。半分は吸血種の血が流れているから、長生きできるとはいえ、だからこそ教会との関わりは最低限で済ましている。わざわざ戦いたいとも思わなかった」
「――まさか、あの少女が気づいていると?」
「それも確かめてみたいね。たぶん、気づいていないだろうけど」
「はあ……火傷しますよ」
「そこまで踏み込みはしないし、手助けもしない――つもりだよ。心に留めておく」
「ではいくつか手を考えておきます」
「よろしく」
彼は子爵であり、大人だ。感情や目の前の出来事だけで動かない。なにかにつけて理由を作り、そのために動いているよう振る舞い、本来の目的を達成する。
――そう。
王騎士の彼女がまだできていなくて。
あの少女が当たり前のようにやったことだ。
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