第5話 ある貴族の不運
ごっそりと、自分の中から何かが抜け落ちたような虚脱感を得たのは、翌日になって落ち着いてからだった。
何度も、何度も試したのに、自分の中からシードが出てくる気配がない。寮で過ごす気にもならなくて自宅に戻って、父親には伝えておいたが、部屋から出る気にはなれなかった。
さらに翌日になって、ようやく現実が見えてくる。
自分が種なしになってしまった。
シードが扱えるのは、ある種の名刺である。特に見栄を重視する貴族の社会において、これは大きなアドバンテージだ。それを踏まえて、学校で上位の成績を出していた彼は、何もかもを失ったっも同然であった。
その事実を受け入れてしまったからか、食事が喉を通らなくなった。空腹なのに、固形物を口にすると、気持ち悪くなって吐いてしまう。
――何故だ。
どうしてこうなったのだと、何度も何度も考える。
シードが破壊されることは、おおよそ十年前の大戦ではあったと記録に残っている。そもそも大勢が亡くなった大戦だ、投入された兵士も多いため、そういうケースもあっただろう。ただし、全体の総数を考えれば、ごくわずかだ。
その対策についてもそうだが、そもそもシードは破壊に対する
シードは心の複製品。所有者の心のかたちを具現させる――そういうものとして教わり、彼らはそれを疑っていない。きちんと想像して、心のかたちを変えてやれば、いくらでもシードは成長する。
その、はずだった。
何をされたのかもわからない。もしかしたら、対峙したあの少女は何もしていなくて、勝手に自滅しただけなのかもしれない。恨みや怒りが浮かんでいたのは、本当に最初だけで、今はただ、喪失感だけを抱いている。
なくなったのは、事実だ。
どうして、どうなって、そんな過程や原因を追究してどうする。
見栄を張って、力を得て、好き放題やっていた自分を考えれば、笑いが出る。乾いた笑いだ、どうしようもない。
だって自分は、今こうしているように、昔はもっと臆病で、怖がりで、自分から何をしようと意欲的に動くタイプではなかった。
……どうしたら良いのだろうか。
これではもう、男爵という地位すら危うい。
――ノックの音で顔を上げた。
「……誰だ」
「教会の者です。よろしければ少し、お話をうかがいたい」
誰とも話したくなかったが、これはまた父親が面倒な手を打ってきたなと、吐息を落とす。貴族社会と教会はつながりも深く、そう簡単に拒絶はできない。
「どうぞ」
躰を起こし、ベッドから足だけ下ろして出迎えた。
神父の服装はしていなかったが、眼鏡をかけた男の胸元には
「こんな恰好で済まない」
「いえ、構いません。こう言うしかありませんが、心中お察しします」
本当に気休めだなと、彼は肩をすくめた。
「何があったのか、聞かせていただいてもよろしいですか」
「……正直に言えば、何があったのか俺にもわかんねえ。ガキがいきなり出てきて、俺はシードを出して、脅してやろうって剣を振り下ろしただけだ」
「この際、学校の規則は無視しましょう。当てるつもりでしたか?」
「いや、止めた。肩のあたりだ」
「実際には当たっていない?」
「当たってない。それから――」
「待ってください。覚えていたらで良いのですが、それは止めたのですか? それとも、止められたのですか?」
まるでその二つに、大きな違いがあるような物言いだ。
けれど。
「悪い、俺にはどちらとも言えない」
「そうですか……」
「気づいたら剣が半分に折れて、そのまま崩れ落ちるようにシードが消えちまった」
そう、消えた。
今も、ない。
「折れた?」
「見た目には、斬れらたみたいな感じ――だったと、思う」
「相手は武装していたのですか」
「いや、してない」
しているはずがない。そんなことまで見落としたとは思いたくはなかった。
「そうでしたか……」
相手は、
「可能性は低いですが――
「――」
それは。
「できるのか?」
「ゼロではありませんが、チャンスは一度きりです。ただし、教会の中でも秘儀に位置するものなので、ここで詳しくは話せませんし、いくつかの契約を結んでもらうことになります」
「それは……」
けれど、でも。
取り戻せるのなら。
またシードが扱えるのなら、それこそ元通りに――いや。
甘い話には裏がある。そのことを、いくらまだ学生の彼でも、知っている。
「急に言われても、すぐ頷ける話ではないのはわかります。教会の人間、全員がそれを知っているわけでもありません」
言って、彼は両手を広げた。
「ただこれはチャンスでぇぁ――」
「……え?」
言葉が途中で途切れた。
あまり視線を合わせようとしていなかった彼は、遅く、顔を上げて気づく。
相手の喉から刃物が飛び出していた。
こちらに切っ先が向いており、それはゆっくりと、相手の背中側へ、つまり、喉を貫いていたものが、引き抜かれる。
彼が状況を受け入れたのは、男が床に倒れ、血だまりを作ってからだ。
「ひっ――」
何が起きた?
殺された? ここで? 自分のほかに、誰もいないのに?
出入口でさえ、開いた気配もないのに――けれど、ここにあるのは、
何が起きている。
自分の周囲で、いったい何が。
「だ――誰か! 誰か来てくれ!」
彼は転がるように移動しながら、扉を開いて廊下に向かって声を上げた。
※
出遅れた、とは思わないが、同じタイミングだったことは、彼女にとって誤算だった。
敵対しているわけではないにせよ、教会とバッティングした時は、あちらを優先しなくてはならない場面が多く、あまり良い気分ではないのだ。
発端をたどれば、まだ学生の知り合いから相談を持ち掛けられたところだろう。
シードを壊すことはできるのか。
そう問われ、偶発的に発生しうるけれど、その可能性は限りなく低い――としか答えようがなかったが、それは現実に起きたらしい。
どうすべきか迷ったが、相談もされたので、念のため調べておこうと、領主へ話を通して警備兵を借り、二人で貴族の学生がいる屋敷へ向かった。
断られても構わなかったが、中に招き入れてくれて、屋敷の主と顔を合わせたが、今は教会の人間が面会しているらしい。
待たせてもらったとしても、専門家のようにケアができるわけでもなく。
「ではやはり、シードを失った、と?」
「まあ私はそう聞いている。息子の様子を見れば、それが嘘ではないとわかるし――そんな嘘をつく理由も私は知らないな」
それはそうだ、その通り。
気になるのはそれが自壊なのか、それとも壊されたのか、その一点だ。
もしも後者ならば、それは危険すぎる――。
その時だ。
やや遠く、廊下から声が聞こえたのは。
「……なんだ?」
「誰かを呼んでいるように聞こえましたが……」
しばらく無言で耳を澄ませていると、ばたばたと廊下を走る足音が聞こえてきて、慌てたノックと共に、侍女が顔を見せた。
「し、失礼します旦那様。若様がお呼びです、お願いします、とにかく来てください!」
「――わかった。すまないが待っていてくれ」
「ええ」
彼女は頷いたが、警備兵の男性に
縄張り争いとは違うが、あくまでも王都からやってきた王騎士の彼女は、この街の人間ではない。こういう細かい部分においては、踏み込むべきかどうかは悩ましい。
悩んだ時は、踏み込まない。
それを鉄則としていた。
ふう、と吐息を落とし、開きっぱなしの扉をどうしようか悩み、閉めておくのもおかしいかと、窓際に移動しようとして。
彼女はぎくりと躰を
先ほどまで。
この屋敷の主人が座っていた机のところに、フード付きのローブを着た誰かが、後ろの棚を
「――、……誰だ、貴様は」
大声は上げなかった。それは自制心であるし、誰かを呼べない状況であることを即座に思い出したからだ。
しかし、あとになって考えれば、その判断は間違っていたのかもしれない。
「あら」
その声色で、少女であることがわかる。
「あなたこそ、どちら様でしょうか」
こちらに背中を向けたまま、棚にあるものを半分ほど引き抜き、確認して戻す、という作業を続けている。
いつの間にかそこにいて、当たり前のように動いている少女に対し、全身から汗が噴き出すのを感じた。
「王騎士だ」
「逆の
小さな笑い、わずかに口元だけが見える。かなり大きめのフードで、鼻の下まで隠れてしまっているため、顔はおろか、躰の
「ところで、一つ質問をしましょう」
「……」
「もしもあなたがシードを失って、教会の人間から、シードを取り戻せる可能性があるけれどと、そう言われたら、どうします?」
「――それは、この屋敷の息子のことか」
「いいえ、あなたのことです」
「シードは心の種だ、そう簡単に失いはしない」
「なるほど、それはまた現実が見えていない見解ですね。気持ちはわからなくもないですが」
「それに教会が、そんなことをしているとは聞いたこともない」
「その通りです。言えるはずもありませんよ。理由はちょっと考えればわかります」
口調に、特別な感情は混じっていない。それはまるで独り言だ。
「しかし、貴族と教会は繋がりが深いですね。あなたのような王騎士は、そうでもないようです――ああ、これですか」
二冊のファイルを引き抜き、それを片手に持った彼女はようやく振り向く。
「では、わたしはこれで」
「……それはなんだ?」
「裏帳簿の記録です。戦利品……とは、言い過ぎですね。ついでです」
「ま――」
そのままの動きで窓を開き、そのまま外へ身を投げた。
ここは三階だぞと、慌てて駆け寄るが、下を見てもいない。だから迷わず上を見上げたが、そこにもいない。
消えた?
ありえないと、視界を広く持って周囲を観察するが、やはり、その姿はない。
どういうことだ。
仮に、一瞬にして消えるような動きをしたのなら、間違いなく200メートルほどを一秒以内に移動しているはず。上に飛んだとしても、屋根に気配がない以上、かなりの距離を跳躍したはずだ。
それをやったとは、現実的に考えにくい。
ただ、この場にいてはまずいことだけは、わかった。
このままでは自分が犯人になると思い、すぐ部屋を出て人の気配がある方へ向かう。彼女には、それしか行動が許されていない。
そういう状況に
そして、彼女も現状を知る。
先に来ていた教会の人間が、背後から喉の一突きで殺されており、会話をしていた息子でさえ、部屋の中に誰もいなかったとしか証言しない。
誰がやった? 消去法で考えれば、あの彼女だろう。
相談された学生の件と照らし合わせれば、あの少女こそ、シードを破壊した――らしい、本人なのだろう、けれど。
理由がわからない。
ここでまた、彼女も判断を迫られる。
踏み込むべきか、否か。
彼女の選択は――。
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