朝読には短編集を

水無月やぎ

朝読には短編集を

「起立、気をつけー、れーい」

「はい、みんなおはよーう」

「着席」


 着席したら、すぐに朝読あさどくの時間。私の学校は実質五分間しか、朝読の時間を取らない。

 毎朝五分も読書なんてめんどくさっ! と文句を言う人もいるけれど、私にとってはささやかな幸せの時間だ。五分——いや、三〇〇秒なんて短すぎる。いっそのこと、一時間目を丸ごと潰して朝読にして、二時間目はブランチ食べて、三時間目から授業……なーんてスタイルなら完璧なんだけどな。さすがにこれを学校でやるのは優雅すぎるか。ごめんなさい。



 今日の三〇〇秒で、何を読もう。



 私は毎朝、通学電車の中で考える。本当は家を出る前にでも決めておけばいいのだけれど、「どんなジャンルを読みたいか」はその日の気分で決まるものだから、当日に吟味した方がいい。部活に入っているわけではないので、日々の荷物は軽い方だ。だから毎朝三冊ほどを鞄に忍ばせる。今日はミステリとラブコメとエッセイ。基本的には全て短編集だ。


 以前は長編小説の読みかけをよく持って行って、朝読の時間に読んでいた。でも五分でキリの良い章に移ってくれるような、気の利いた長編などそうそうなくて、結果として私は朝礼後の休み時間まで潰して、ひどい時には一時間目の授業中に先生の目を盗んでまで、続きを読んでしまう悪い癖がついた。そうなると授業の内容なんて一切頭に入ってこない。頭も心も遠く物語の世界へいざなわれて、なかなか帰ってこられないのだ。このせいで、なんと私は試験で赤点を取った不名誉な実績がある。数学の試験が赤点だった。……はい、お察しの通り、一時間目の授業は数学でした。


 朝読のせいで赤点なんて、笑えるでしょう? でもホントの話。さすがに情けないし、親にも理由なんて言えなかった。

 その上、長編だと朝読の前の通学時間からずーっと読みっぱなしになるので、電車の乗り過ごしのリスクが非常に高まる。あと、ホームで読んでいると人によくぶつかる。私にとっては、歩きスマホよりも駅や電車内の立ち読み(あるいは没頭しすぎて歩き読み)の方がよっぽど危ない。


 そんなわけで今は、朝読には短編集を持っていくようにしている。最近は電車で読めるショートショートなんて本も売っていて、あぁ、やっぱり短編は需要があるんだなぁと思う。時折、放課後にふらりと立ち寄る大型書店で読みたい短編集をいくつかと、家でゆっくり読める長編小説を買うのが楽しみの一つだ。毎月のお小遣いはだいたい本代に消えていく。お小遣いをもらうまでの間に書店で欲しい本を吟味し、お小遣いをもらえたら即買って、本棚に迎え入れる。その儀式が私には楽しくてしょうがない。



 さて、今日も朝読が始まった。何を読みたい気分だろう。

 私は鞄に入れてきた三冊の中から、紫色のブックカバーを選んだ。——つまり、ミステリの短編集。本にこだわる者は、ブックカバーやしおりにもこだわるべきである。……っていうのはどこかの本に載っていた名言ではなくて、私なりのルールね。


 やっぱり三〇〇秒はあっという間だ。ちょうど一つのお話を読み終えた。つくづく、短編がちょうど良いと思う。本当はもう一つ読みたいけれど、我慢我慢。続きは帰りの電車の中で。



◇◇◇



 ある日、早めに教室に着いた私がいつも通り朝読に備えて本を選ぼうとしていると、「ねえ」と声をかけられた。

 斜め後ろの席の相馬そうまくんだ。

 クラスで最も人気者の彼が、クラスで最も地味な私に何か用でもあるのだろうか?


「なに?」

「あの……さ、今日の朝読で、本、貸してくんない?」

「え?」

「持ってくるの忘れちゃって」


 学級文庫でも良いのでは? と思ったけれど、ちょうどそう思ったタイミングで相馬くんは「学級文庫あんま面白くないんだわ」と言った。


相川あいかわさんさ、いつも何冊か持ってるだろ? しかも毎日違う色の本読んでるし。読書好きそうだし、おすすめとか貸してくれないかなぁー、なんちゃって」


 毎朝、机の上に三冊出して一冊だけ選抜するあの儀式、見られてたんだ……!

 見られてたと分かった途端、ちょっと、いや結構恥ずかしくなる。

 私は少し考えた。相馬くんとはほとんど話したことがないから、表面的なキャラクターしか分からない。読書のイメージはまるでない。今日持ってる本から選ぶなら、きっとこれが読みやすいんじゃないかな。


「じゃあ、これは……どう、かな」


 私が差し出したのは紫のブックカバーをまとった本。つまり、ミステリの短編集。今週から読み始めたけれど、短編なのに味わい深くて、読み応えがある作品だ。


「おお! サンキュ」


 反応は上々だった。

 相馬くんは今日の五分だけですっかり気に入ってしまったらしくて、「全部読みたいからしばらく貸して!」と言ってきた。「挟んであるしおり、なくさないでね」とだけ注意して快諾する。

 翌朝、彼が朝読で読んだのはもちろん、あのミステリの短編集だった。


 それから二日後。


「めっちゃ面白かった! あの最後の話、犯人絶対弁護士だと思ってたら最後の一文でひっくり返されたよ! まさか検事だったなんてなぁー! いやぁ見事に裏切られた!」


 満面の笑みで本を返してくれた相馬くん。しおりもなくさずに返してくれた。

 うん、嬉しいよ。このクラスに一人でも、読書が好きだと、さらには五分じゃ足りないんだと思ってくれる人が増えれば嬉しいです。図書委員として。


 でもね。


「相馬くん……私、最後まで読んでない……ネタバレ……」


 相馬くんは「え」と言って固まった。数秒して、うわぁぁえぇぇっ!!! とうろたえる。朝からこんな大きなリアクションができる彼がすごい。さすがクラスで一番の人気者。


「ごめん! 俺盛大にネタバレしたごめんごめん! えーと、うん、今の忘れよ、ね! ほら、今の俺のセリフ、忘れろー。忘れろー。……これでどうでしょう相川さん」


 痛いの痛いの飛んでけー、と同じテンションで何やら魔法をかけてくれたみたいだけど、残念ながらここはそうした魔法が有効なファンタジー世界ではない。ここが物語の世界だったら良かったのにね。


「うーん、た、多分忘れられた? かも?」


 俺のノリに合わせてくれてありがとうございます。と深々とお辞儀をした相馬くんがちょっぴり可哀想になってきて、「もう一冊……読む?」と声をかけた。

 すると相馬くんはバッと勢い良く体を起こして、「読む! 読みたい!」と言ってきた。


 じゃあ今日は、オレンジのブックカバーのこれにしよう。


「これどうかな? お仕事小説、なんだけど」

「相川さんのおすすめなら、きっとどれでも面白いからそれにする!」


 たまたま借りた一冊が面白かっただけですっかり私を信用した相馬くんは、気持ちいいくらいに思いっ切り食いついた。こんだけ素直だと将来ハニートラップとかかかりそう、なんていらん心配をしつつ、本を相馬くんに渡す。

 挟んであるしおりをなくさないことと、感想は言ってもいいけどネタバレはしないでね、という注意を新たに追加して。


 そうしたやりとりが何回か続いた。


 相馬くんは短編だけでは物足りなくなってきたみたいで、長編小説のおすすめまで聞いてくるようになった。私は読み終わった数多くの長編から、相馬くんの好みに合わせて数冊を選んで貸し出す。読み終わっているものだから、ネタバレしてもいいよ、と許可を添えて。

 人の好みに合わせて本を貸すのは、カウンセリングにちょっと似ている気がして楽しい。今まで私の部屋の本棚に眠っていただけの本たちも、新たな読者を見つけて嬉しそうだ。


 二人の共通の話題がぐんと増えて、また新たな話題が欲しいと思って、大型書店に足を運ぶ。

 自分の興味だけじゃなくて、気づけば相馬くんの好みも考えながら本を手に取る自分がいた。

 彼ならどんな文章に心惹かれるのだろう? どんな設定が好きそう? 男性作家さんと女性作家さんの、どっちが好き? 明るめのテーマか暗めのテーマ、どっちに読み応えを感じるだろう?


 たくさんの本を読んで、色んな登場人物の心の動きに触れてきた。

 だから今、経験がなくてもちゃんと分かる。



 私、相馬くんに恋をしている、と。



◇◇◇



 ある日のこと。

 いつも通り相馬くんは、ネタバレにならないギリギリのラインの感想を添えて、私に短編集を返却した。

 今朝も朝読用の新たな短編集をご所望。それは昨夜のSNSのやりとりで把握済み。


 今日、私は朱色のブックカバーがかかった本を彼に渡した。


「今日は何のジャンル?」

「……それは、開いてのお楽しみ」


 その短編集の一話目は、クラス一の人気者でバレー部のエースの男の子と、クラス一地味で帰宅部の女の子の爽やかなラブストーリー。

 奥手すぎる私なりの……精一杯の、メッセージ。


 バレー部の相馬くんに、伝わるだろうか?


 朱色のブックカバーの本を手にすると、いつものようにハイテンションで「サンキュ!」と言って席に戻る相馬くん。

 着席しても私の方をチラチラと見て、「えーお楽しみとか何だろー? 気になる気になるー」と軽く煽ってくる。私は微笑むだけ。朝読が始まるまで、本は開かないらしい。変に律儀な所も、何だか彼らしくて良い。


 まだ朝礼は始まらない。

 誰にも見えないようにして、一時間目の数学のノートの端っこに、何となく名前を書いてみる。


 相馬 思苑しおん

 相川 愛絵


 ハッとして、二つの“相”と、お互いの名前の一文字目を丸で囲ってみた。


『相 思 相 愛』


 …………まさか、ねぇ?



 チャイムが鳴る。担任の先生がやってくる。週番が教壇付近に立つ。


「起立、気をつけー、れーい」

「はい、みんなおはよーう」

「着席」


 朝読が始まる。

 自分用の黄緑のブックカバーにまとわれた本を手にするけれど、今日は物語の世界に入り込めそうにない。


 いつも五分なんて風のように過ぎていくのに、今日は永遠に続くかのように感じる。


 こんな朝は、初めてだ。


 私は形だけ本を開き、斜め後ろに向かってテレパシーを発する。

 このテレパシーが有効な、物語みたいな世界なら良かったのにな。




 この五分で、


 想いよ、届け。

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朝読には短編集を 水無月やぎ @june_meee

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