part.3
朝十時の一番客というのはコルボ・ノアールのマスター。浅田アーサーだった。
彼は二週間に一度はこの理髪店にやってくる常連客で喫茶店でいつもの、と言うとコーヒーが黙っても出てくるように、アーサーが散髪台に座るともうオーダーは決まっていた。
「襟足3㎜、揉み上げ6㎜、自然な感じのグラデーションのツーブロックですね?」
「流石秋山先生はわかってらっしゃいますな。今年もよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
秋山は白いケープを掛けながら、鏡の中のアーサーに笑顔で会釈したが、いつものとびきりの笑顔というわけでは無かった。
その理由をアーサーは来店早々、八神から聞いていた。
「お辛いですねえ秋山先生。でもまだ分からない。神様がお助けになるかも知れませんよ?」
「…そうですね、まだ分かりませんよね?」
秋山は塞いだ気持ちを振り払うように笑って鏡へと向き直った。
珈琲のいい香りが店の中に漂って来ると、八神が店の奥からアーサーの為に淹れたての珈琲を運んで来た。
「今は店の二階に寝かせてるんですが、後でちょっとのぞいてやって下さい。案外知ってる猫かも知れないし。
はい、珈琲どうぞブラックでしたね」
「ああ、ありがとう八神さん」
カタカタ…
「うん?」
ミラーカウンターに珈琲を置いた時だった。ソーサーの上でカップが小刻みに振動してる事に八神が気がついて小首を傾げた。八神の異変に気がついた秋山が顔を上げた。
「どうしました?八神さん」
「……地震か?」
ガガガガガガガ……
「ガガガ…だと?」
地震ならガタガタじゃないか?
それはもっと身近でもっと聞き覚えのある音。何かが勢いよく迫ってくる音と振動だった。
「なんですかな?」
八神、秋山、そしてアーサーが外の異変に気がついて揃って窓を見た時、その危機はもう回避出来ない所まで迫っていた。
「うわあっ!何だ?!嘘だろ?!」
「ええ?!八神さん!八神さん!八神さん!!!」
「おやまあ…?」
三人が見たモノはこの世の光景とは思えなかった。
真っ裸の男が車のボンネットに乗せられた状態で店のドアに迫ってくる光景だったのだ。
それはまるでいつか見た映画のようなリアリティの無い映像だった。
「止めろ!!やめろ!!ぶつかる!ぶつかるー!!クソ馬鹿野郎ー!!!うわあぁぁああっーーー!!」
ボンネットの上では恐怖の形相で真っぱの男が騒いでいたが、車は止まる気配は一向になく、そのままドアへと突っ込んだのだ。
どしん!!
ガッシャーーン!!!
バキバキバキバキ!!
キュルルルルル!!
店のドアは破壊されてガラスが飛び散り、空回りするタイヤの白い煙が店内に充満した。馬鹿でかいセダンの鼻先が店の中へとめり込み、秋山はその光景がスローモーションのように見えていた。
砕けるガラスはまるで星屑のよう。その中を真っぱの男が宙を舞った。
「うわぁぁあぁ〜〜!」
叫んだのは宙を舞った男ではなく、誰あろう秋山だった。
投げ出された男は暫く仰向けに寝っ転がっていたが、誰が呼んだかパトカーのサイレンが聞こえて来るとカッと目を見開いた。
「警察?!マズイ…っ、マズイいよ!頼む!匿ってくれっ…」
慌てふためく男は勢いよく立ち上がったが体がぐらりと揺れて床に倒れ込んだ。いや、倒れ込んだと言うよりそのまま気絶してしまったのだ。
運転していた男達はと言うと、車と男を見捨てて既に逃走した後だった。
「ど、ど、どうしよう八神さん!匿ってって言ったって…」
「どうするって…どうしたもんかねえ」
よくよく見れば男はまだ幼く見えた。二十歳行くか行かないか、そんな少年がこの寒空に裸で匿えとはどう言う事だろう。
取り敢えず理髪店の住居である二階の六畳一間に運び込む事になった。
幸いという言葉が相応しいかどうか分からないが、裸の男の存在は、ここにいた三人以外に誰も知らないだろうと思われた。
三人はこの男の存在を隠蔽する事に決めた。
程なくしてやって来た警察は、この一件を雪道でスリップした車の単独事故という事で処理した。車に乗っていた者達は即刻、指名手配となったが、例の男の存在は八神達によって隠蔽された。
この日、風通しの良くなった店のドアはブルーシートに正月飾りがぶら下がると言う滑稽な事になり、理髪店は今年最速最悪のスタートとなってしまった。
「で?…これからどうするんですか八神さん」
階段下では秋山が二階へ行く階段を恐々とした面持ちで見上げていた。
「取り敢えずアレだ。起きたら飯でも食わせれば何か喋るだろう」
やはり八神にたいした考えはなかった。簡単に言う八神と違って、秋山は頭が痛かった。
「うちは駆け込み寺じゃ無いんですよ?最初は八神さん貴方です。それから瀕死の猫に裸の少年。どうしてこうも面倒な事に巻き込まれるんですかね」
「え、何でそこに俺の名前が出てくるんだ?」
「自覚ないんですか?貴方が一番の…」
『厄介ごと』と言い掛けたが、今となっては秋山にとって八神は大切な人間になっていた。赤面しながら秋山は口を噤んだ。
「一番の?…なあ、一番の何なんだよ」
「な、何でも無いですよっ」
ニヤける八神から逃げるように、秋山は二階へと駆け上がっていった。
ところが秋山は怪訝な顔で首を捻りながらトボトボと引き返してきたのだ。
「何だ、どした?」
「…八神さん…僕の見間違いだろうか。あの子がいなくなってる」
「はあ?六畳一間をどうやって見間違うって言うんだよ」
秋山を押し除けるように八神が二階へと上がっていくと、布団へ寝かせたはずの少年の姿は忽然と消え、大きく開いた窓にはカーテンがヒラヒラとはためいていた。
「ちくしょう!逃げられた!」
八神は窓に駆け寄り、柵に手を掛けて外へと身を乗り出した。辺りを見渡したがそこには真っぱの男の影もない。
「まったく!どうなってんだ!」
八神がしきりに外を見ている間、秋山は猫の眠る段ボールを気にして覗き込んだ。
「…八神さん」
秋山は八神を呼んだが頭に血が登っている八神はそれどころではない。
「まったく、この高さからどうやって降りたやら、アイツ警察から逃げてるくせに真っぱで逃げたら猥褻で捕まるっての!」
この時、こんな状況下で奇跡は起きようとしていた。
「あーっ!!あいつ〜〜!オレの一丁らのコートを盗んで行きやがった!」
「八神さん…」
「何だ!」
「…猫が…」
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