さぶるこ

白浜 台与

第1話 さぶるこ

秋も深まり夜明け前が一番冷え込むこの季節、公文書を作成する中堅役人の史生ししょうである尾張少昨おわりのおくいは幸福な気持ちで目覚めた。


きっと伽耶かやが気を利かせて火鉢で部屋を暖めてくれていたに違いない。おかげでぐっすり朝まで眠れたのだから。


「お目覚めでございますか?」と年若い伽耶がぬるま湯を入れたたらいを持って自分の洗顔の手伝いをしてくれる。


朝餉の粥を彼女と一緒に食べ、下級役人の制服であるくすんだ黄色の麻の衣から立ち上る、ほのかに薫るくらいに香を嗅ぐとただ働いて生きているだけのみじめさが少しでも晴れていくような気がする。


「行ってくるぞ、伽耶よ」

「行ってらっしゃいませ、殿」


と長い睫毛を伏せる彼女に見送られて今日も一日頑張るぞ!と胸を張って戸を開けた途端、少昨の幸福な日々は終わった。


ぶるるん、と自分の顔に馬の鼻息が遠慮なくかかり、武装して葦毛の馬にまたがる女人が直刀を掲げてこちらを見下ろして黄色いかぶとの下でにこりと笑った。


「まああ…お久しぶりでございます。殿」

「ふ、芙実古ふみこ!?」


都に残して来た彼の妻、芙実古の装束は綿襖甲めんおうこうというコート状の布に革または鉄の小さな板を綴じ付けた黄色の生地に赤い縁取りの唐風の甲冑姿。


これでは夫に会いに来た、というより戦いを挑みに来たつわものではないか!


「なんだなんだ、何処かでいくさが始まったのか?」


と気色ばんだ近所の住民たちがわらわら出てくるので少昨はいたたまれなくなり、

「と、とにかく中へ」と甲冑姿の妻を中に入れた。



土間の中央に石を並べて作っただけの炉の中で真っ赤に燃えた薪がばちばち!と音を立てて爆ぜている。

「同僚の羽鳥どのに言って今日は欠勤にしてもらったゆえ」


とはるばる都からここ越中まで来てくれた妻に少昨は甘柿と木の実と白湯でもてなした。


が、妻はそれには目もくれずにまるで粘土に切れ込みを入れただけってくらい細い両目を精一杯広げて伽耶をじっと見据えているではないか。


「お前その甲冑はどこで?」

「我が父から借りてきました」

「女人のお前がなぜそのようないくさ支度を?」

「なぜ、とは?」


語尾をはね上げて質問に質問で答えた芙実古ふみこは脇に置いてあった刀を手に取って構え、


「戦いに来たからに決まっていますでしょう。我が夫が佐夫流児さぶるこ(遊女)に入れあげ、よりによって女の家から毎日出勤しているだなんて!都でも噂になって私はいても立ってもいられなくなり…つい、こうして来てしまいましたの」


とよく研いだ剣先を話の間伽耶に向けたり夫に向けたりしながらわなわな震えてここまで来た経緯を話した。


その間、重くて長い刀を室内で振り回され剣先を向けられる度に少昨は体を強ばらせ、伽耶はひいっ!と身をよじって少しずつ後ずさった。


「伽耶とやら」

「はい…」

「お前は人の夫を我が家に住まわせて一体どうしようというの?」


どうしようって?伽耶は目をきょとんとさせながら


「わたしはただのさぶるこ、殿方を居心地良くさせるのだけがつとめですから」


と平坦な声でそう言い放った。


少昨はぎこちなく首を動かして伽耶を見た。

全ては現地妻に惚れぬいた我が身の不徳であるが、今まで伽耶が我に与えてくれた優しさは、全て偽りだったのか…


ほれ、ご覧なさい。と芙実古は甲冑を揺すって高笑いし、


「偽りの愛を売るさぶること違って妻は本気の本気なのです。

これ以上恥をかかされたら殿もこの女も刺して私も死ぬ。

そのような覚悟でここまで参りました」


と物騒過ぎる宣言をした。


再び刀を向けられた伽耶はもう何なの?この気性の激しすぎる女は。と呆れ果て、次に激昂してから、


「あなたたち、私の家に来てやりたい放題!こんなちょび髭いらないから出てって!二人とも出てってよ!」


と立ち上がって少昨の道具を全部夫婦に投げつけて近所の住人たちに助けを求めてまで我が家から夫婦を追い出した。


ばたん!と後ろ手に閉めた戸の向こうから妻が夫をなじる金切り声とつい二ヶ月間自宅に泊めていただけの男の詫びる声、夫婦喧嘩をせせら笑う庶民の笑い声がしばらくしたが、それも四半刻(30分)経つと収まった…


やっぱり先輩の遊女の行った通りお客を自宅に住まわせるなんて情のかけすぎだったわ。


さえない男だったけれど誠実で優しかったからついほだされてしまった。

今度はうまくやらなきゃなあ。

と散らかした部屋を片付け、興奮して汗ばんだ顔を洗って化粧を施し、


「さて、次の殿方を探さなきゃ」と鏡に向かって色っぽい流し目をしてみせた。



それから六年後、


「まったく、あの時のお前の醜態ったらなかったよ。上司である私の忠告も耳に入らないんだものなあ…」


と都の自邸で無事都の役人に出世した尾張少昨をもてなすのは当時、越中の国司で少昨の直接の上司であった大伴家持。


「は、まことに申し訳ありませんでした…」とあの時の出来事を思い出しては、まったく、任地の美しい女に優しくされて舞い上がっていた我のていたらくよ。


と恐縮するのであった。


思えば道端で刀を振り回して捨てないで!と泣き叫ぶ妻に少昨は見苦しい様まで晒して我が身を慕ってくれるとは可愛い女よ。と改めて思ったし、そんな妻をなだめすかして官舎に帰ると早速上司の家持さまに呼び出され、


「都で待つ妻とは

お互いに助け合ってやっと史生ししょう(書記)という地位にまで

出世したのではないか。

今こそ妻と共に生活を楽しむ時ではないか」


懇懇こんこんと諭されて心を入れ替え、外出もあまりせずにひたすら仕事に励んだ。二年後に任期を終えて一層妻を大切にし、子も三人生まれた。


「我も地方任官の長い身だったゆえ独り身の寂しさは分かっておるつもりだ。そんな時、庭に咲く撫子を妻だと思って歌を詠み、我が心を慰めて来たさ」


さすがは愛妻家として知られる家持さまだ。


と少昨は上司に尊敬の眼差しを向けたが、さて、本当に家持さまは現地の美女の秋波(流し目)を受け流すことが出来たのだろうか。


任地の溌剌とした娘たちを見てたとえ一瞬でも美しい、と思う気持ちがよぎらなかったのであろうか。


「今では妻と穏やかに暮らしています。が、ひとつ、心に引っ掛かっている事があるのです」


「何だ?申してみよ」


「我が任期を終えて都に戻った時、誰も我と伽耶との仲のことは知らぬのです。噂になっていたから妻は乗り込んで来た筈ですが、噂なんて最初から無かった。一体どうやって妻の耳に入ったのか…」


「実は我が仔細を書いた文を妻女どのに送って報せたのだ。日頃から悋気が強いとお前がこぼしていた女人よ、

効果てきめんだったわい」


そこまで言って家持はうっふっふ、と肩を揺らした。真相を知った少昨のからだから全身の水気というものが引いた。


「優秀な部下であるお前を任地での色事一つで台無しにしたくはなかったのも本音。

だが…さえないちょび髭のお前一人が何を気に入られたのか美しいさぶること暮らしているのが悔しくてなあ!」


なんだ。

結局家持さまもさぶるこで寂しさを紛らわせていた我を、

羨んでいらしたのか。


新年の祝いの席で一体何がそんなにおかしいのやら。


と大伴家持とその部下、尾張少昨おわりのおくいが割れんばかりに大声で笑い合うのを招待客たちは不思議な目で見ていた。


この出来事は後に、


里人の見る目恥づかし佐夫流児さぶるこにさどわす君が宮出後風みやでしりぶり


(里の人から見ても、佐夫流児に惑わされている君の出勤する後ろ姿は恥ずかしいものだ)


と家持自身が後世の部下たちへの戒めとして万葉集に書き遺し、1300年経った今でも男女の仲のありようは変わらないのだ。という事を教えてくれているようである。


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さぶるこ 白浜 台与 @iyo-sirahama

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