第4話 (2-2) なぜか死ねない

 飛び降りる場所を決めたのは昨晩だった。どこでも良かったが、新潟方面へ出張する際に、走行中の新幹線から見えたビルを思い出して、その屋上から身を投じることにした。


 ビルは、地平線の向こう側にまで広がる越後平野の稲田の中に、直径数キロほどの小都市にあった。低層階が並ぶ駅前商店街の中に、忽然と一棟だけ十階建てのビルが建っていたので、新幹線の車窓からひと際目立って視覚に飛び込んでいた。


 実は、ビルからの飛び降りを考える前に、通り一遍の自死の仕方は試してみた。富士山麓の樹海で太い枝にロープを括りつけて首吊りを決行したが、見掛けよりも脆い枝は圭太の体重に耐えうることができずに折れてしまった。


 一度失敗した死に方を繰り返すことに躊躇いを覚えたので、次は駅のホームから電車への飛び込みを決行することにした。


 朝の通勤快速列車が駅を猛スピードで通過するのを狙ってホームの端で待っていたのだが、目的の列車に乗るためにホームに整列している多くの通勤客の間の前で、四分五裂になった無残な屍骸を見せてしまうのは申し訳ない気持ちになって、そのまま通過する列車を見過ごしてしまった。


 硫化水素などを使って、苦しくない方法での死に方を考えてみたものの、気体が漏れて近所の人を巻き添えにしてしまう危険性もあった。 


 そして人に迷惑を掛けずに、かつ苦しくなく、永遠の眠りに就く遣り方として、人の少ない田舎町での飛び降りをする結論に至ったのであった。


 目的のビルは駅前商店街の末端にそびえ立っていて、一階は廃店された、いわゆる街の電気屋だった。


 近隣もシャッターで閉じられた商店が並んでおり、営業しているのは牛丼屋やファミレスやハンバーガーショップなどのファストフード店と、郵便局や医療クリニックなどの公共サービスが中心だった。


 郊外にある大型ショッピングセンターに人の流れが移ってしまったのだろう。ビルはもはや廃墟と化しており、「立入禁止」「不法投棄厳禁」などの看板が掲げられていた。


 圭太は、自身最後の法律違反に対して、誰とはなしに許しを乞いつつ、昼なのに薄暗くて冷んやりとした空気が充満している鉄筋ビルのコンクリート階段を昇っていった。


 最上階の階段の踊り場にある梯子を昇ると、エレベーター機械室になっていて、錆びついた重い鉄扉を押し開けると、コンクリート打ちっ放しの殺風景な屋上が目の前に広がってきた。


 今生の繋がりを断絶する儀式の意味で、圭太はスマホをコンクリートの床面に叩きつけて破壊した。煩わしい係累が立ち消えて、重苦しかった心が浄化していく。


(地球上の重力加速度は、9・8メートル毎秒毎秒。この十階建てビルの高さは、およそ四十メートルとして、屋上から地表までの時間は、最初の一秒で9・8メートル落下。次の二秒目では、その倍の距離を落下して19・6メートル落下。三秒目では39・2メートル落下。そして地表に激突)


 圭太は、念仏を唱えるようなリズムで、物理の法則を呟きながら、屋上の端までゆっくりと足を運ばせた。囲いの無いビルの端に到達すると、身を投げ出す緊張を和らげるために、両足を揃えて深呼吸をした。


 今生に別れを告げるように、呼気を緩やかに体外へ排出して、二度とは戻れない永い就眠の世界への一歩を宙に向けて踏み出した。が、圭太は持ち上げた片足に履いた革靴を見ながら、その先の行動を静止させた。


 なぜ人は飛び降りる前に、靴を脱ぐのだろう。と、間際になって一つの疑問が脳裏を過った。幽霊になったら靴は無用だからか、はかない人生だったからか、などと自問自答してみたが、携帯電話は既に止められていたからネット検索する手段はなかった。


 靴を整える理由はさておき、とりあえず世の中の慣例に従っておくのが適策ではなかろうかと、圭太は宙に浮かべた片足を引っ込めてから、両足の革靴を脱いで、丁寧に左右を揃えた。


 テイク2となる深い息を吸って、再びゆっくりと呼気を排出して、片足を前方に突き出す。真夏の太陽が薄汚れた靴下の不潔さを際立たせた。屋上に舞う微風によって運ばれた靴下の臭いが鼻をつく。この臭気が圭太を現世の観念へ引き戻した。


 少しだけ冷静になって、客観的に物事を推認する脳内回路が動き出した。飛び降りた瞬間に、ビルの向かい側にある郵便局から人が出てきたらどうなるだろうか。


 高さ四十メートルからフリーフォールした時、三秒後には、およそ時速百キロに達する。もし下を歩く人と衝突した場合、巻き添えになった人が死亡する確率は限りなく百パーセントに近い。


 もちろん圭太は、自身の都合で他人の生を奪うことはしたくなかった。商店街側への飛び降りをやめて、違う側から決行することにして、屋上をぐるりと歩きながら下の様子を伺うと、民家がビルを取り囲むようにして建っている。


 人が往来する空間はないが、これではどこから飛び降りても、民家の屋根への衝突は避けられない。これでは落下する時速百キロに達した自身の体躯は、瓦を砕いて、お茶の間に飛び込んでしまう。


 もし食事中に血塗れの男が屋根を突き破ってお茶の間に飛び込んできたら、ホラー映画とは比べ物にならないくらいの恐怖とPTSDを与えてしまう。


(ダメだ、ダメだ)


 首を振った圭太は、商店街側への飛び降りへと計画を戻した。街頭が少ない田舎町は、暗くなれば人の往来がほとんど無くなるはずだ。


 大の字になって人生最後の空を仰ぎ見ると、一点の曇りもない快晴の空が天国への入口となって圭太を包み込むように広がっているような気がした。


 寝そべったまま、少しだけ寝落ちしたのだろうか、空がオレンジ色に染まり、帰巣するカラスが飛び降り決行の合図とばかりに悍ましく鳴いている。あと一時間もすれば陽が落ちて辺りが暗くなるだろう。


 薄暮の空には一番星が輝きを見せている。死んだら星になるという言い伝えがあるが、もしそんなメルヘン的なことがあるならば、ほんの一時だけ派手な暮らしぶりをした圭太は、さしずめ流れ星なのだろう。


 人生において調子のいい時期は、その輝きは一生続くものだと思いがちだが、それはいつも一炊の夢となって終わってしまう。


 その輝いている時期に次の手を打っていたならば、人生の軌道修正あるいは新規開拓もできるのだろうが、豊かさと楽しさに満ち溢れている時期は、それに溺れて次なる蒙を啓くことを怠りがちだ。


 人生の処世訓はいつも反省と後悔から始まるようだ。圭太の場合は、現実逃避をすることで次なる「楽」を選んだのだ。


(「楽」と「落」も同じ読みだな)

 

 圭太は呟くと、三日月が浮かんだ空を見るや、決行の時が来たとばかりに、スッと立ち上がった。


 ビルの端に来ると、夜風が圭太の頬を撫でた。近所の民家からは、風鈴がカウントダウンよろしくリズミカルな音色を伝えてきた。


(三、二、一で行こう)


 風鈴のリズムに合わせるように、内心でカウントダウンを始めた圭太は、「一」を言い終えると、「さようなら、俺」と声を発しながら、片足を宙へ向けて差し出した。


 と同時に、ガガガガッと、下からいきなり轟音が響いてくる。片足を引っ込めて、何事かと真下を見やると、ドリルでアスファルトの歩道が掘り返されていた。周囲にはガス管工事中の電光看板が立てられている。


 飛び降りる場所を失った圭太は、十階建て相当のビルはこの町には存在しないので、しばし逡巡した後に、別の町へ行くことに決めた。


 十階建てのビルを飛び降り場所に選んだのには理由がある。それより低いと、中途半端な落下速度ゆえに即死できずに、大きな苦痛を味わって息絶える可能性も有り得る。


 逆にそれより高いと、飛び降りてから地面に到達するまでに少しばかり時間が掛かるため、落下する恐怖を味わいながら死を迎えることになってしまう。だから、三秒ほどで地面に到達する十階建てビルからの飛び降りを選んだのだった。


 階下へ降りるために、圭太はエレベーター機械室の鉄扉に付いた金属ノブに手を掛けた。が、動かない。ドアを押してもビクともしないない。力任せにノブを引っ張ったり、ドアに圧を掛けて何度も体当たりしてみたが、ドアは微動だにしなかった。


 どうやら、ホテルの客室と同じように、閉まると自動的に施錠するタイプのドアで、外側からは鍵で開錠しないと開かないらしい。非常用の避難梯子を探してみるが、既に撤去済みのようだ。


(さて、どうすべきか)


 圭太は脱力してその場にへたり込むと、腹の虫が鳴った。厭世的な心に相反して、身体は生を維持するための栄養補給を望んでいる。この矛盾がなんだか滑稽だった。


 しかし、たとえ生を選択したとして、食糧を得ることができないコンクリートの屋上では、小説の山椒魚みたいに長年も生き長らえることは不可能だ。水さえ無いこの屋上では、命の継続は一週間が限度だ。


 このまま屋上に幽閉されたままでは、餓死してしまう。苦しい死に方だけはしたくないと十階建てのビルからの飛び降りを選択したのに、真綿で首を締め付けられるように、じわじわと衰弱して命が絶えていく辛苦は味わいたくなかった。





(つづく)

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