第3話 (2-1) 借金苦からの逃避

 八月十四日

 賽銭箱に二枚の十円玉が吸い込まれていった。


これが今年三十三歳になった村山圭太の全財産だった。十円を賽銭にするのは縁遠いという験担ぎから、その行いを避ける俗習があることは知っている。しかし圭太は、円が十分に入ってくるようにと、賽銭はいつも十円玉にしていた。


(本当に験担ぎの通りになっちまったぜ)


 舌打ちをして、吐き捨てるように神様に文句を垂れた圭太は、踵を返して境内の玉砂利を踏みしめて歩みを進めた。


 真夏の炎天下の中、着古して薄汚れたビジネスシャツを着た圭太を一瞥した人々は、貧乏神でも見るかのように目を反らしていった。


 小さいながらもベンチャー企業を経営していた圭太は、自らが開発したスマホアプリの特許収入で売上を増進し、若いゆえに派手な金遣いをしていた。社用車はベンツのSLクラス、スーツは銀座の老舗店のテーラーメイド、飲食は会社の経費で放蕩三昧だった。


 北国育ちの圭太は、ハーフに見紛われるほどに色白でどことなくエキゾチックな風貌とクールな形姿で、金回りの良さと相まって、兎に角よくモテた。


 ところが、順風満帆の仕事とプライべートライフを謳歌していた圭太は、先月突然に代表取締役の立場を解職解任させられてしまった。信頼していた専務取締役の児島が、圭太の知らぬ間に、取締役の過半数の承認を得て、圭太の解任手続きを進めていたのだった。解任理由は、会社経費の私的流用だった。


 会社が潤っていたのは、圭太独自のアイデアによる特許収入に負うところが大きかった。会社名義で申請した特許だったゆえに、圭太は役員報酬の増額によって対価を得ていた。そして特許収入による内部留保も年々増やして、会社の利益のほとんどが圭太の貢献であったことは事実だった。


 だからこそ、一千万円近い社用車を乗り回していたし、飲食接待費は毎月百万円は下らなかったが、それも必要経費として誰にも文句を言わせなかったし、それが当然の権利であると思っていた。


 揉め事もなく、安寧な会社経営を推し進めていたと思っていたが、取締役連中の腹の中は違っていたらしい。


 大きな不満は金だった。代表取締役の圭太は年間五千万円の役員報酬を得ていたが、専務取締役児島のそれは一千万円だった。


 その格差是正を児島は求めていたが、圭太が開発した複数の特許収入とアプリ印税だけで年間売上五億円を築いていた一方、児島は会計や法務的な管理業務を主たる業務としていたので、彼自らの営業努力による稼ぎは皆無だった。


 圭太としては、自らの能力によって稼いだ五億円のうち十%を懐に入れつつ、会社としての必要経費を使っていただけだし、残りは他の役員報酬と社員給与、そして会社の将来のための新たな売上構築のための原資として還元していたつもりだった。


 しかしながら児島は、あくまでも特許は会社名義であって、圭太個人名で承認された特許ではないので、取締役連中の報酬引き上げを要求していたのだった。


 児島としては、知的財産を具現化したアイデアは圭太のプロパティであるが、それを特許として法的に承認される業務を司ったのは児島を筆頭とした取締役連中であり、特許取得は、いわば会社の功績であるという主張だった。


 児島は、資本金を持っていなかった圭太のアイデアを気に入ってくれて、投資家を集めてくれた恩義があった。特許申請は、児島でなくても出来る仕事だったが、彼の存在なくては会社として大きく育たなかったのも事実だ。そのバランス感覚として、児島の報酬は一千万円として両者納得していたものと思っていた。


 解任させられた圭太が開発した特許は、会社名義ゆえに今後一切の収入源にはならず、圭太に残されたものは、借入金八億円の連帯保証人の責務だけだった。


 児島と取締役連中がそのまま会社経営を維持し、銀行への返済を毎月きちんと続けていたならば、圭太が一文無しになることはなかった。連中は圭太を解任した半年後に、会社名義の特許を転売し、かつ内部留保していた金を山分けして、会社を解散させたのだった。計画倒産だった。


 当然、借入金残債の返済義務は圭太に降りかかった。圭太には一切責任のない会社倒産だったが、借入金連帯保証人の責は法的に逃れることはできなかった。


 複数の弁護士に相談をしたのだが、契約書に判子を押した事実は法的責務から逃れられないとぃうのが通り一遍の答えだった。


 銀行からの借入金三億円は、圭太自身が所有していたマンションと動産を充当して返済できた。しかし児島が中心となって資金調達した金融ファンドへの返済が厄介だった。長期返済リスケのプランが合意に至らなかった結果、金融ファンド側は債権回収会社へ残債を売却してしまったのだ。


 その債権回収会社の取り立て人は、いわゆる普通の人ではなかった。月六万円のアパート住まいをしている圭太の部屋に、「約束の金はいつ返してくれるんですか」と、毎朝チャイムを鳴らしては返済を要求してきたのだ。


 暴対法によって、威嚇したり手を出したりはしなかったが、一見してその筋の人であると認識できうる顔貌は、静かでありつつも内面に煮えたぎる憤激を露わにしていた。


 取り立て人が要求した返済金は、元金五億円に加えて利息制限法の上限である年利十五%だった。一年間に利息だけで七千五百万円、毎月六百万円強である。今やパン工場の深夜バイトで糊口を凌いでいる圭太にとっては、無理難題な返済金だった。


「毎月一万円程度なら、なんとか返せる」と言ってみたが、取り立て人は小声でゆっくり静かに「それじゃお話になりません」と凄みを増すだけであった。


 同じような押し問答を毎日続けた一ヶ月後、圭太のアパートのドア前で半グレ達が「金返せ、金返せ」と大声を張り上げるようになった。


 誰とは特定しない怒声だったが、誰が誰に対して文句を言っているのかは、あからさまな行為だった。


 取り立て人の静黙な恫喝と、半グレの粗暴な物言いに連日悩まされた圭太は、やがて何もする気力が起きなくなってしまった。毎日が気怠く、やる気がでないばかりか、食欲も出ない。


 生きていくための最低限の努力――バイトだけは続けていたが、焼き上がったパンのトレイを引っ繰り返したり、業務への集中力も散漫になってしまった。


 苛立つ上司は、最初は圭太を叱責するだけだったが、圭太の瞳子に何らかの異様を察知したとみえて、工場の産業医まで連れて行ってくれた。結果は、心療内科で詳しく診察してくれとのことだった。


 紹介状をもらった心療内科クリニックで、小学生の時にやった覚えがあるロールシャッハ・テストやスクリーニング・テストを受けたところ、気分障害の傾向があると言われた。それは鬱病の婉曲的だった。


 鬱状態が続くと、自分が価値ある人間とは自覚しなくなり、この世での存在を否定して死を選択する症状が出てくるらしい。医者が言うには、薬物療法が主な治療方法とのことで、しばらくバイトを休んでリフレッシュするように奨められた。


 とはいえ、バイトを休んでしまっては、生きていく糧も失われてしまう。職場までは借金取りも来ないし、薬のおかげで落ち込んだり意欲が低下することもなかったので、しばらくは仕事を続けることにした。


 しかし薬の副作用が厄介だった。仕事への集中力は持続させることができてミスも無くなったが、気分を高揚させる薬の効能のおかげで、就寝前でも脳内のテンションが高まっていて、すんなり就寝することができなくなってしまった。


 服薬した最初の数日は心身ともに快活に行動できたが、四日目くらいになると睡眠不足の影響が仕事にも悪影響を及ぼすようになってしまった。


 パン工場では、圭太はパン生地への手もみ食感を担当していた。何のことはない、パン生地を手でずっと捏ねくり回すことを一晩中続けるだけの単調な作業だが、手をグーパーするだけの一辺倒な作業は、複雑な脳神経を有する人間にはやがて拷問にも似た辛い作業と化していく。


 睡眠不足の状態でこの単調な繰り返しを続けていると、手を動かしたまま寝落ちすることが頻出するようになってしまった。頭がカクンと落ちて、眠気から覚醒するのだが、その都度上司が寝落ちした回数を数えていたのだろう。朝方五時の終業時間になると、「今夜は一時間につき約二回、合計で今日は十七回もコックリコックリやっただろう」と上司に訓告されてしまった。


 さらに「君の精神状態は、うちの産業医からも報告を受けている。一週間分のバイト賃は有休扱いで支給するから、体調を万全に整えてから出勤していただけないだろうか」と打診してきた。


 ひと昔前なら、「鬱病患者は退職願いたい」と、ひと言で解雇されただろう。今時は、労働法などで訴訟を起こされたくない企業側は、精神疾患者であっても雇用継続の最終手段まで講じて初めて従業員を解雇する傾向にある。


 圭太がバイトするパン工場も全国流通する規模の食品メーカーゆえに、バイト雇用であっても簡単には解雇できないとみえて、一週間の有給休暇中に体調を戻す猶予を付与したのだろう。


 しかし鬱状態が一週間で改善するはずはなかった。家にいたらいたで、半グレの叫び声も聞こえる。薬を飲めば眠ることもできない。睡眠がとれないと、半グレの「金をかえせ」と言う捨て台詞は「首を吊れ」と幻聴になって聞こえてしまう。


 こうなってしまうと、圭太の精神状態は負のループへと堕ちていった。活力を見い出すとか、挫けないとか負けないとか、頑張って生きていこうという前進気鋭なる生気は微塵も存在しなくなっていった。


 自殺志願者が思いつめる厭世的な気持ちではない。「生」を否定するのではなく、できるなら母親の胎内に戻りたいくらいに、外圧から疎外された「無」の状態になりたいだけだった。


 だから圭太は、己の肉体を外界からの係累から遮断するための唯一の手段として「死」を選択したのだった。





(つづく)

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