第2話 (1-2) 特ダネと全裸男

 玉脇が説くことは、正直なところ、特段に役立つアドバイスはない。新聞記者として当たり前のことしか言わないし、それは本社の新入社員研修で学ぶ記者のイロハばかりだった。


(支局長って言っても、記者の一人なんだから、自分も動いて取材しろよ、あのタコ! 早くどっかへ異動しちゃえ!)

と、雨合羽とゴム長靴を纏った理紗は、玉脇への怨語を唱えながら、全日新聞下越支局が入居する築四十年の鉄筋コンクリートビルの廊下を小走りに駆けた。


 外に出るや、霰(あられ)混じりの攻撃的な雷雨が、理紗の頭を乱打し始める。まるで滝行のようだ。下水の処理能力を超えた雨量は、平坦な道でさえ、既に二十センチほども冠水している。


 水流に逆行しながら、一歩一歩足を前進させながら、赤色ライトを灯した数台の消防車が停止している場所まで近づくと、国道のアンダーパスには、のこぎり波や三角波を立てた激浪が押し寄せていた。その濁流の中で、十数台の車の運転者や同乗者が車の屋根で助けを待っている。


 うねった龍のように轟々と流れるどす黒い泥流は、今にも運転者らを飲み込もうとする勢いで荒れ狂っていて、消防の救命ボートも近づくことができない。冠水していない場所から水没したアンダーパスまでは五十メートルほどの距離があって、ロープを渡すことも容易ではなかった。


 絶体絶命。じわじわと水嵩が増している。


 人命が救われるか否かの瀬戸際に、テンションを高めた各社テレビ局レポーターが声高に実況中継している。各社新聞記者も現場の状況をICレコーダーに自らの声を吹き込みつつ、一眼レフカメラで救助の模様を写真に収めている。


 理紗も、張られた非常線近くまで近づくが、苦戦する救助シーンを捉えるベストポジションは既に他社に奪われていた。


(出遅れた)

 現場には来れたので、特オチにはならないが、各社同じ場所での取材は玉脇が言うところの「独自ダネ」にはなり得ない。


 他社とは違うアングルからの取材場所を求めて周囲を見渡すと、周囲の建物よりは比較的高い八階建てのビルが理紗の目に飛び込んできた。


(よし、あれだ!)

 他社と別アングルからの取材場所を見つけた理紗は、集まってきた何十人もの野次馬を掻き分けて、押っ取り刀でビルへ急行した。


 道路の水溜まりは、理紗のすねよりも深さを増して、ゴム長靴の中にも雨水が入り込んでくる。僅かな水量のはずなのに、足を上に揚げることも容易ではない。理紗は、脱いだゴム長靴を手に持って前進することにした。


 市街地中心部の水溜まりは、ますます水嵩を増して、消防団が積み上げた土嚢を超えて、建物の屋内にまで浸水し始めている。


 理紗が取材場所として選んだビルは、国営時代の昭和に建造された電話会社だった。年季がかった壁面を露呈していたが、危機管理としての水害対策なのか、床上となる一階部分は路面よりも一段高い構造で造られていた。


 氾濫流の被害を受けていない電話会社のロビーには、コストダウンのためか、受付嬢の代わりに内線電話が設えられていた。


 理紗は、内線電話一覧表の一番上に記載されている総務受付係へ架電をすると、年配と思しき男性が電話口に出た。


 急いで屋上へ行きたい理紗の心とは裏腹に、外の喧騒とは異世界な感じのノンビリした口調で応対する年配者のテンポに苛立ちを覚えつつも、屋上立入取材を丁寧に申し込む。


「柵から身を乗り出したりなどの危険行為をしないとお約束いただけましたならば」

 ゆっくり話す年配者の言葉尻を聞くか聞かないうちに、理紗は、

「お約束します」

 と言うや、電話を切って、エレベーターに向かって走った。


 ビルの屋上からは、市街地を広範囲に見渡すことはできた。しかし、取材対象となる肝心の水没車と救助を待つ人々の様子は、斜向かいの低層ビルの物陰に隠れてしまっていた。


 舌打ちをした理紗は、

(今からまた現場に戻ったら、救助が終わってしまう。また特オチだわ)

 と自らの行動を嘆いて、ふと天を仰ぎ見た。すると、高さ数十メートルほどの電波塔が目に飛び込んできた。


 遠くの空で、稲光が走った。雲の動きから判断すると、雷はこちらの方に近づきつつある。

(独自ダネだ。今しかない!)

 と理紗は、電波塔の階段梯子に足を掛けて、よじ登った。


 二十メートルほど登ると、アンダーパスの水難の様子が俯瞰で展望することができた。高い所は苦手だったが、記者魂が恐怖よりも勝っていた。


 アンダーパスに押し寄せる濁流は、水没した車の屋根にまで迫っていた。運転者らは、流されないように、車の屋根で踏ん張っている。


 アンダーパスゆえに上空からロープを投擲することはできないし、この豪雨の中ではヘリコプターもドローンも飛ばせない。


 命を救うには寸分の猶予もない状況と判断した特殊救助隊――通称レスキュー隊が、命綱となるロープを体に巻き付けて、濁流の中を泳ぎ始めた。


 日頃の訓練の賜物なのだろう、強烈な流れに身を任せつつも、水没車に辿り着いた隊員は、車に救助ロープを固定した後に、冠水していない道路上に待機している救助隊に向かって、ゴム弾頭が付いたロープを発射銃で放った。


 ロープを伝わって、次々と救助される水難者たち。その一連の決定的瞬間を望遠レンズで捉えた理紗は、破顔一笑。

 

 独自ダネとなる救助シーンを撮影できた理紗は、電波塔を降りようと足を梯子に掛けるや、降りつける豪雨と轟く遠雷に混じって、ジェット機の音が聞こえてきた。


 音の方向へ目を向けると、近隣の空港へ着陸する旅客機がゆっくりと高度を下げながら飛行していた。「雷雨の中の飛行機」をテーマに、何の気なしに資料用としてカメラを向けて連写する。


 と突然、空に閃光が走り、稲妻が旅客機を縦に串刺して通電していった。意想外な決定的瞬間その2を収められた幸運に、満面の笑みを浮かべて、理紗は感謝した。


 旅客機の構造は、落雷しても何らの支障も受けない設計なのだろう。安定した着陸体制で飛行を続ける機影を写真に収めようと、理紗は再びファインダーを覗き込んだ。


 フレーム内に収まった旅客機は、どんどん高度を下げていった。そのまま旅客機を追尾していくと、遠くに建っている十階建てビルの屋上で、雨乞いでもしているかのように、全裸で狂喜乱舞している男の姿がファインダーに飛び込んできた。


 旅客機を追い掛けていたので、全裸男の姿は一瞬で見切れてしまったが、何事かと興味をそそられた理紗は、十階建てビルに焦点を戻した。


 と同時に、辺り一面を白黒の世界にさせるような強烈な来光が、十階建てビル屋上の避雷針に走り、寸刻違わずに大きな雷鳴が響き渡ってきた。閃光と雷鳴に仰天した理紗は、思わずファインダーから顔を離した。


 たいていの女子は雷が大嫌いなものだが、記者仕事中の理紗は恐怖よりも好奇心が勝っていた。気を落ち着かせて、屋上にいた全裸男をもう一度探すが見当たらない。気のせいだったのだろうか。狐につままれたような表情で理紗は電波塔から屋上へに降り立った。


 八月十九日

 朝九時、記者クラブでの輪番担当業務を終えた理紗が支局へ出社すると、玉脇が窓外を見ながら御機嫌な口調で電話していた。昨日の豪雨の影響でゴルフが中止になったのだろうか。


 玉脇は、「本社総局長からわざわざお褒めのお電話をいただけましたこと、誠に光栄でございます」と、米つきバッタよろしく何度も腰を折ってペコペコ電話口に頭を下げている。


 玉脇の話しぶりから、理紗が起こした記事と写真――昨日の水難救助と落雷した旅客機の決定的瞬間――が今朝の全日新聞朝刊のトップを飾ったことに関して、本社総局長からの讃称の入電のようだ。


 理紗が出社していることに気づかない玉脇は、

 「新人記者教育もなかなか大変ですが、わたくしが事細かに手取り足取り教え込んだ成果です」

 と、理紗の特ダネ独自ダネを、まるで自分の功績であるかのように語っている。


(まるでジャイアンだ)

 お前の記事は俺の記事、俺の記事は俺の記事。理紗は忸怩たる思いで玉脇の言動に耳をそばだてた。


「ありがとうございます。これからも記者の教育に邁進して参ります」

 上しか見ないヒラメ上司とは、まさに玉脇のことを示唆する絶好の表現だ。


 さらに、お調子者の玉脇は、

「あ、総局長! わたくしの地方支局生活も十年になりますし、そろそろ東京の空気を吸いたいです。次の人事異動の際には何卒」

 と誰もいない窓外に向かって深々とお辞儀をしながら懇願した。


 総局長が電話を切るのを待って、耳から受話器を放した玉脇は、両手で丁寧に受話器を置くや、出社した理紗の存在に初めて気づいて、後ろめたさを感じたのか、ビクッと身体を反応させた。


「おはようございます」

 理紗は、少し厭味を込めて、会釈をした。


「事務所に入る時は、挨拶くらいしろ」バツの悪そうな顔で玉脇は怒声を張った。

「しました」

「大きな声で、だ!」

「電話中だったものですから」

「うん、まあ、そうだが……兎に角、知らぬ間に幽霊みたいに現れるな」

「支局長が背中を向けていたから、私の存在に気づかなかっただけじゃないですか」

「たとえば、物音を立てるとか、存在を知らせるための何かしら手段はあるだろう」


 玉脇に突っ込みを入れても、堂々巡りを繰り返すだけで、仕舞いには上司であることをアドバンテージとして言いくるめられてしまう。


 理紗は、「次からそうします」と言って、玉脇に対して、フンといった感じで背を向けて、自分の机に着席した。


 玉脇は、少しだけ引け目を感じたのか、「朝刊の写真と記事について、本社総支局長から直々にお褒めの電話をいただいたぞ。大和、よくやった」と、珍しく労いの言葉を掛けつつも、「特ダネ独自ダネだからといっても、それは記者仕事の日常茶飯事だ。金一封はないが、まあ、今日の昼飯代くらいは俺が出してやる」


 媚びへつらいと、度量も器も小さい玉脇は、このまま片田舎の支局で記者人生を全うするのだろうと、理紗は思った。




(つづく)

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