第5話 (2-3) 生か死か
(2-3) 生か死か
雀の鳴き声が聞こえてきた。
目を開くと、上空には青空が広がっている。空腹のまま深い眠りに落ちてしまったようだ。工事の音は聞こえない。朝方早々、通勤通学で往来する人々が多くなる前に、工事は終了したようだ。
下方を見やると、原状復帰されたアスファルトの上を通行人が足早に通り過ぎている。斜め上方に輝く太陽は、朝方とはいえ、田舎の澄んだ空気を通して、その陽光は射るように鋭く焼きつけてくる。すでに日焼けした肌がヒリヒリと痛くなってきた。
ふと太陽を仰ぎ見ると、ペントハウス仕様のエレベーター機械室の上に設置された高脚式の貯水タンクが目に飛び込んできた。貯水槽の水を飲めば飢えを凌ぐことができる。おまけに、日陰となった貯水タンクの下で過ごすこともできる。
圭太は、エレベーター機械室の側面にある鉄パイプの梯子をよじ登り、貯水タンクの真上まで登ると、錆びついたハッチをゆっくりと持ち上げた。
すると、貯水槽の中からは強烈な腐敗臭が立ち上がってきた。ビルが廃墟となり、長年使われなかった水中に微生物が湧いて、そのまま腐敗したのだろう。有毒ではないだろうが、鼻から吸い込んでしまった悪臭は、一年くらい放置した雑巾を口に押し込まれたほどの不快感だった。
胃液が食道まで遡上して、オエッと身体が身震いして吐き出しそうになるが、嘔吐するものは何もなかった。一昨日の昼、おにぎりを一つ食べたのが最後の食事だった。
水分も神社の手水舎で口を漱いで以来、全く補給していない。このまま屋上から脱することができなければ、干からびてミイラになってしまう。
貯水タンクの下へ身を屈めた圭太は、大人ひとり分の狭小なスペースに、仰向けになって寝そべりながら身を滑り込ませると、屋上に存在する唯一の日陰で身を休めることができた。
しかし飢餓感からは逃れられなかった。子供の頃から食べることには苦労しない家庭に育った圭太は、空腹を我慢することはなかったし、食べても太らない体質のおかげで、おやつも好きなだけ食べてきた。
体育会系の我慢とか辛抱とか、耐えて頑張ります――という根性論が嫌いだった圭太にとって、欲念を抑えることは鬼門だった。
死を求めてここまでやってきたのに、生を継続するための食を求める人間本性だけは消し去ることができない矛盾に、なんだか可笑しさを覚えた。とはいうものの、声を上げて笑う気力もなく、溜息のような吐息が鼻からフッと出るだけだった。
満たされぬ食欲は、圭太の精神と肉塊を、陰鬱な奈落の底へと引きずり込んでいった。減衰していく思考能力は、食欲以外のことを考える余地を与えない。
目を閉じれば、中華鍋とお玉がリズミカルに打ち当たる小気味よい音、炭火で焼かれる焼き鳥の音、ビール瓶からグラスに注がれる音、食器が重なる音……食べたい物の幻影がリアルなサラウンドとなって耳の中で共鳴し、存在するはずもない音に心が翻弄される。
日照り続きの砂漠の中でオアシスが突然出現するように、コンクリート製の屋上に空から食べ物が降ってこないものだろうかと、圭太は願った。
すると、唐揚げのように調理されたものではないが、生きた鳩の鳴き声が聞こえてきた。屋上を見やると、つがいの鳩が首を振りながらコンクリートの上を闊歩している。
そろりと貯水タンクの下から這い出た圭太は、靴を脱いで、音を立てずにゆっくりと梯子を降りて、鳩に近づいていった。公園で人馴れした鳩なのだろう。人影を察知すると、餌をくれるものと思ったのか近づいてきた。
圭太は、あたかも餌を握りしめているかのように拳を握りしめた。そっと手を差し出すと、餌をくれるものと勘違いしたのか、手の先まで鳩が寄ってくる。
(今だ)
捕まえやすそうな小さい方の鳩の両翼を素早く両手で挟み込む。生きるための食欲が、死にたいという衝迫に勝った瞬間だ。それに対して、本能的に死を感じた鳩は、今際の際の叫声をあげ始めた。
(許せ)
無慈悲にも鳩の首根っこを締めあげると、呼吸のできない鳩は絶え絶えの喘鳴を漏らしながら、肉身を脱力させていった。
鳩を挟み込んだ両掌の片方を鳩の首筋に持っていって、首の骨を折ろうと息んだ刹那、もう一羽の大きい方の鳩が助命を乞うかのような切なくて低い音程で泣き始めた。
夫婦なのだろうか。共に連れ添った相方が目の前で殺められるのは、人間のような思考回路をもたない鳥類であっても悲しさを覚えるに違いない。
死のうと決意してここまでやって来たのに、自らの生への執着のために他を殺生して、つがいの相方までをも哀哭させてしまう。
それはエゴなのだろうか。それとも生きとし生けるものの食物連鎖――自然の行いなのだろうか。深く考えれば考えるほど、よく分からなくなってくる。
瞬刻の躊躇いの後、圭太は手の力を緩めた。呼吸を復活させた鳩は、緩んだ掌から翼を広げて、圭太から逸散して行った。相方も後を追って羽ばたいて行く。
二羽の鳩が仲良く屋上から曲線を描きながら飛行していく姿を見て、なんだかホッとした気分になった。
再び貯水タンクの下に身を横たえると、軽い頭痛と倦怠感が圭太を苛む。一時の狩りは、残り少なくなったエネルギーを費やして、空腹と相まって、身も心も深い闇へと堕ちていった。
八月十八日
四日間も水分を摂取できずに過ごした早朝、干からびた唇に落ちてきた一滴の雫が、圭太の朦朧とした意識を覚醒させた。球状の貯水タンクに付着した朝露が下部に集まって、一滴二滴と唇を潤した。ほんの僅かな水分は体力を回復させるだけの精分をもたなかったが、遠退いていた意識を覚醒させるには充分だった。
(餓死までの寿命がほんの数時間だけ延びただけかもな)
むしろ、深い眠りに落ちたまま絶命してくれた方が良かった。何も入っていない胃は、「養分を補給しろ」という脳からの命令によって、その存在感をますます大きくさせていった。
大怪我をしてショック状態に陥っていく時の人間の脳は、死を察知してドーパミンなどの脳内麻薬を分泌させて、苦しみを緩和するらしい。それは、苦悶から逃れさせるための神様からの人生最後のギフトというらしい。
飢餓状態に陥って、衰弱していく時も同じように脳内麻薬が分泌されて、超気持ちいい夢心地のままに召されるのだろうか。重大事故の寸前では、危険から逃れるための神経伝達の精度が増して、進行している事象がスローモーションに見えると言うが、餓死の時はどうなるのだろうか。
危険回避行動というよりも、思考回路が鈍重になって、蝋燭の炎が小さくなってやがて消え失せるような絶命の仕方なのだろうか。
喜怒哀楽は時が過ぎると忘れることもあるが、空腹感はそうはいかなかった。夕方近くなっても、脳は空腹を訴え続け、空洞の胃は痛苦を伴ってくる。
快楽物質が脳を巡ることもなく、苦しみのままにやがて落命していくのだろう。それならば、苦しみを長く味わるよりは、命の炎を短縮させた方が良い。
貯水タンクから這い出た圭太は、屋上に降りると、ラジオ体操を始めた。残り少ない体内エネルギーを早めに消耗させて、死期を早める作戦だ。
ラジオ体操は、小学生以来、いや中学生以来だろうか。順番は忘れたが一通りの身体の動かし方は忘れていなかった。脳の記憶は凄いなと我ながら感心しつつ、天を仰ぎ見る動作をすると、青空に浮かぶ黒い雲が視界に入ってきた。風向きから判断すると、こちらに近づいてくると思われる。
程なく、雲は辺り一帯を覆い、フェーン現象で熱せられた空気をたちまちにクールダウンさせていった。
寸刻後、突然に降り注ぎ始めた夕立は、止むことを知らないようなゲリラ豪雨と化し、街中が滝壺になったかのように、一瞬で道路が冠水し始めた。
道行く人々は建物の中に逃げ込み、マンホールからは下水が噴水となって溢れ出している。立体交差する道路のアンダーパスでは、十台ほどの自動車が立ち往生して、中から屋根に這い出して助けを呼んでいる。
街中がパニック状態になっている一方で、圭太にとっては恵みの雨だった。水分を補給できた圭太は、着ていた服を全部脱いで、全裸で身体を洗い始めた。
何もかもやる気の起きなかった圭太は、少し動いただけで汗だくになる夏だというのに、十日以上も風呂に入っていなかった。
を歩いていると、擦れ違う人々が怪訝な顔で圭太を見つめながら避けるように早歩きで通り過ぎていったのは、汗と垢で異臭を放っていたからだと今更ながらに気づいた。
空腹と不潔からの脱却は、圭太に生気を復活させた。
(落ちるところまで落ちたのだから、これ以上の人生の谷底は有るまい。少しずつでもいいから谷から這い出そう)
屋上から脱出する術を考えながら、神様からの生きるためのギフトとなった雨水の恩恵を受けながら、圭太は裸踊りを始めた。
(生きてる、俺は生きてるぞ! 生きるって、最高!)
天に向かって吠えるような叫声をあげたと同時に、目を眩ませるような強烈な稲光が、頭上のどす黒い雲から屋上の避雷針へと吸い込まれていった。
屋上のコンクリートに伝わった衝撃波が骨伝導となって圭太の骨髄を震わせ、強い電気的強圧が筋肉を顫動させた。数秒後に雷鳴が爆音となって轟く。ビックリした圭太は、一目散に貯水タンクの下に潜り込んで避難した。
(つづく)
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