その十四


 子供がひとり大浴場内を走り回っています。その小さな男の子は甲高い笑い声を響かせ、とても楽しそうでした。もしかすると、温泉に来たのが初めてだったのかもしれません。


 男の子はお父さんに怒られながら、洗い場へと連れて行かれました。温泉では湯船に浸かる前に体を洗う。これは『日本人としてのマナー』なのです。そして、このマナーは未来永劫、親から子へと受け継がれていく事でしょう。



 僕達は、首根っこを掴まれ連行されていく男の子を横目で見ながら、次なる目標へと歩みを進めます。


「この窓、外に出られそうですね」友人は扉と呼ぶには少し語弊の残る、擦りガラスが嵌め込まれた窓から視線を外す事なく口を開きました。

「ええ、そのようですね」僕は、既にサッシに手を掛けている友人の背中に向けて返事を返します。

 皆さん忘れてるといけないので一応言っておきますが、僕達は裸です。


 大浴場に一際大きく甲高い声が響き渡ると、友人はゆっくりと窓を開きました。そして、直ぐに閉めました。

 僕の角度からは外の様子が見えなかったのですが、友人は明らかに動揺しています。

「何をしているんだい?」僕は早る気持ちを抑え、友人に問いかけます。「いや……」友人は言葉を濁しました。


「まったく。どきたまえ」僕は、サッシに手を掛けたまま目を泳がせている友人を退かせ、代わって窓を開けました。


 目の前に広がる光景は、まるで『猿山』でした。裸の男達がひしめき合っているのです。もちろん、僕も裸です。一面肌色で埋め尽くされているのです。そして、二十人程の男達が全員、僕の方に視線を向けているのです。

 僕は一瞬何が起こっているのか分からなくなり、窓を閉めそうになりました。すると、一番近く、というか目の前に座っていた初老の男性が、端に寄って道を開けてくれたのです。


 しかし、僕は一歩も動く事が出来ませんでした。サッシに手を掛けたまま、二十人程の男達の視線を一身に浴びて、丸出しのまま呆然と立ち尽くしていたのです。

 読者の皆さんは、一体何を言っているのか分からないかもしれません。ですが、僕自身も、目の前で起こっている事をほとんど理解出来ていません。


『ドア・トゥー・ドア』で露天風呂。


 先ず、あるべき筈のスペースは……踊り場と呼ぶのでしょうか? そういったものはありません。サッシを跨ぐと直ぐに湯船となっているのです。そして、四畳半程の円形に整えられた岩風呂の縁に『虚ろな目をした男達』がびっしりと並んで腰掛けているのです。

 更にそれだけではありません。湯船の中央にも男達が固まって「座って居る」のです。皆さんご存知だと思いますが、湯船の中央でじっと座っているなんて、通常では有り得ません。


 

 現在地球上に存在する全生物の御先祖様は、数十億年前に海から発生したと考えられています。そして数億年の間、水中で進化を繰り返してきました。その頃の名残りとして、現存の生物は皆、水中で生活していた頃の『本能』とでも言うべきものがDNAに深く刻み込まれています。

 その為、普段陸上で生活している生物は特に、水中で自身の背中を無防備に晒す事を嫌います。当然、人間もです。


 想像してみて下さい。例えば、スーパー銭湯の大浴場の中央で無防備に背中を晒している自分の姿を。

 どうでしょうか? 想像することすら出来ない筈です。湯船に浸かる際は必ず、背中を何かしらにくっ付けている筈です。男性読者さんであれば、湯船のふちに。女性読者さんであれば、ご友人のおっぱいかもしれません。

 でも、おっぱいに貴女の背中をぴったり押し付けられているご友人は、やはり湯船の縁に背中をくっ付けている筈です。

 つまり、背中、おっぱい、背中、ふちです。


 もしくは、背中、おっぱい、おっぱい、背中、ふちです。む、これだと理論が崩れてしまいますね。でも、僕はこっちの方が好きです。

 

 この理論があるにも関わらず、僕の目の前では、裸の男達が露天風呂の中央部分にまで寿司詰めにされているのです。確かに、擦りガラスの窓を開ける前から、薄っすら肌色が透けていたので、おかしいなとは思っていました。でも、この露天風呂は「おかしい」なんて軽い言葉では言い表せない程『異常』でした。



 僕は、席を譲ってくれた初老の男性に一礼をして、窓を閉じました。横に居た友人は「塩サウナ行こう」と軽いトーンで言います。僕も「それは名案じゃないか」と多少食い気味に言いました。


 果たしてあの『露天風呂』はなんだったのか。何故あの男達はあんなに鮨詰めになっていたのか。読者さんには大変申し訳ないのですが、この話を書いている今でも分からないのです。

 ただ、ひとつだけ確かな事があります。あそこに居た全ての男が、僕のことを『虚ろな目』で見つめていたのです。


 彼らは恐らく、僕達と同じ様に『パッケージ詐欺』のブツを掴まされ、そして、それを許した男達です。

 露天風呂に足を踏み入れようとしていた僕達に「それ以上は踏み込むな」と警告してくれていたのか。といっても、足を踏み入れる隙間は無かった様に思えますが。

 はたまた僕達を『穴兄弟』として引き込もうとしていたのか(洞窟だけに)、今となっては知る由もありません。


 今回は、いまいち状況の把握しづらい文章になってしまい申し訳ありませんでした。僕自身、まだあの露天風呂については整理しきれていない節がある為、今後この回は改稿するかもしれません。

 そして、『オーシャンビューの露天風呂』を楽しみに待っていて下さった読者さん、重ねてお詫び申し上げます。僕達は拝む事が出来なかった『オーシャンビュー』ですが、もし興味があれば是非、皆さんの目で確かめてみて下さい。


 

 さて、僕達は気を取り直して(オーシャンビューは無かったことにして)『塩サウナ』へ向かう事にしました。でも、僕にはひとつやる事があったので、友人に「先に行っててくれ」と頼みました。


 キシキシする髪を手櫛で整えながら一人で洗い場へ向かっていると、先程の親子が薄汚れた体を洗い終えた様で、赤茶色のお湯を湛えた洞窟風呂の縁に立っている姿が見えます。


 青い目の親子は「むこうの言葉」で一言、二言、言葉を交わし、恐る恐る、赤茶色のお湯へ足を踏み入れようとしています。なんだか、見ている僕まで緊張しました。


 鏡越しに親子の様子を伺ってみると、湯船に浸かったお父さんが得意げに、白いフェイスタオルを頭に乗せていました。

 すると、その横で男の子が、満足げな表情を浮かべるお父さんの隙を付いて、頭のタオルを掠め取り、赤茶色の湯気が充満した『大浴場』に甲高い笑い声を響かせます。

 

 なんとなく安心した僕は、手書きのリンスインシャンプーに手を伸ばしたのです。


                 (続く) 



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