その十二


 僕は潔癖症のきらいがあるので、洗い場に置かれた『誰が座ったのか分からない椅子』を丁寧に洗い流していると、横で友人が「む、シャワーが出ないぞ?」と首を傾げています。僕は「そんな筈ないだろ」と、ちゃんとお湯の出ているシャワーを友人に見せました。しかし、友人のシャワーはいくら栓を捻っても、うんともすんとも言わない様子です。


 友人はおもむろに立ち上がり、左右を見渡し始めます。席を移動しようとしているのです。しかし、洗い場の席はさほど多くありません。空いているのは僕と友人の間だけです。

 僕が「まさか、こいつ隣に座る気か?」と思ったのも束の間。白髪の御老人がひとり、僕と友人の間に腰を下ろしたのです。僕はほっと胸を撫で下ろしました。


 友人はなんとも言えない表情をみせると諦めたのか、シャワーの出ない席に戻りました。そんな友人に構っていられない僕は、リンスインシャンプーを手に取り、悠々と頭を洗い始めます。僕は頭から先に洗うタイプです。


 目を閉じてシャンプーを洗い流していると、またしても友人の大声が『大浴場』に響き渡りました。なにやら「お湯が出ねぇ」と言っています。もう構ってられません。

 そんなに大声で叫ばなくてもいいじゃないかと思っていると、先の御老人がやや訛りの強い口調で「そこは水しか出ねぇぞ」と友人にアドバイス送っている声が聞こえてきます。どうやら地元の方の様です。


 頭を洗い終え友人の様子を伺ってみると、なんと蛇口の下に頭を捻じ込み、直で髪を濡らしていたのです。しかも水です。

 友人もやや潔癖症のきらいがあるので、備え付けの洗面器など使わない事を僕は知っていましたが、いくらなんでも蛇口直でいくとは思いませんでした。まるで『侍』です。

 その様子を見た御老人は「ふほほ」と変な笑い声をあげていました。


 友人は目をしばしばさせながら「髪がキシキシする」と女子の様な事をのたまっています。そりゃそうです。アメリカ産のクレイポマードで撫で付けた、自慢の『バーバースタイル』を蛇口の水と手書きのリンスインシャンプーで洗い流すのは容易ではありません。そんな事ちょっと考えれば分かるはずです。


 さっさと体を洗い終えた僕は「まったく。ここを使いなさい」と友人に席を譲りました。そして、僕の座っていた椅子を丁寧に洗い流している友人を尻目に、いよいよあの赤茶色の湯船へと向かいます。


 

 僕は石造りの浴槽の淵に立ち、深く深呼吸をしました。温泉から湧き上がる湯気を吸い込むあの感覚は嫌いじゃないのですが、硫黄の匂いが鼻をつき、ちょっぴり咽せ返ってしまいました。


 そして遂に、恐る恐る右脚を湯船に浸けてみると、至って普通のお湯でした。なんなら、ちょっと熱めの良い湯加減です。もっと濁ってドロドロしているかと思った赤茶色のお湯も案外透き通っていて、僕のちょっぴり日焼けした右脚が揺らめくお湯の中で、恥ずかしげも無く露わになってしまったのです。

 

 肩透かしをくらった僕は、そのまま『洞窟風呂』に身を委ねました。ちょっと日焼けした肌にピリピリとした痛みが走ります。でも、それも温泉の醍醐味のひとつです。


 ゴツゴツした岩に背中を預け、肩口にお湯を掛けながら辺りの様子をぼんやりと眺めていると、赤茶色の湯気の向こうで、背中をゴシゴシと洗っている友人が隣の御老人と談笑している姿が見えます。どうやらカップル成立のようです。


 普段は二回シャンプーするタイプの僕は、そんなふたりの後ろ姿を眺めながら、なんだかキシキシする髪を手櫛で整え「後でもう一回シャンプーしよ」と呟きました。

 そんな呟きが小さく反響した洞窟風の壁面に目をやると、湯船の脇に何やら能書きが書かれたプレートが貼り付けられていました。もちろん、僕はそういったものに興味が無いのは言うまでもありませんし、あの小さな文字は薄っ暗くてほとんど読めそうにありませんでした。


 ちょっぴり日焼けしたお肌のピリピリ感に慣れてきた僕は、ゆらゆらと波打つ湯船の中で、ゆっくりと伸ばした両脚を若干クロスさせながら、内ももの隙間に両手を挟み込み、目を閉じて旅の疲れを癒したのです。            

     

                  (続く)



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