一緒に帰ろう

園長

一緒に帰ろう

 学校には居場所がない。

 僕はいつも教室の一番後ろの席に座って休み時間のたびに寝たふりをしていた。机に乗せた腕に顔をうずめて何も見ないようにしていたんだ。

 いつもうまく会話の歯車がかみ合わなくて、相手が微妙な愛想笑いを浮かべるのを見て申し訳ない気分になっていた。

 気の利いたことを言ったり冗談を言って笑ったりできる人をいつも尊敬していた。何か特殊な能力でも持っているんじゃないかといつも思ってしまう。

 そんなものだから、休み時間というのは僕にとっては苦痛だった。無い方がまだいい。

 かといって、別に勉強も運動も、得意なわけじゃない。

 授業中は当てられないように、いつも先生とは目を逸らして椅子に座っている。

 クラス替えがあった直後は先生も心配して僕に何度か話しかけてきたけれど、僕の反応があまりにぎこちなかったからか、それ以降は話しかけてこなくなったし、授業中も無理やり発表に当てるようなことはしなくなった。

 行かなくてはいけないから毎日学校に通うけれど、何のために行くのかは正直分からない。

 学校に行くと、テストも体育も音楽や図工だってしなくちゃいけない。その上友達を作らないといけない雰囲気すらある。

 だから僕はいつも学校に居場所が無かった。

 ただ自分の席に座って早くこの2学期が終わって冬休みになってくれといつも願っていた。

 そんな僕でも、クラスの皆には感謝していた。僕が教室にいても、別にいじめるわけでもなく、無理に仲間にいれるでもなく、そっとしておいてくれるからだ。

 僕という人間が教室の中にはじめから存在しないかのように、関与せずにいてくれた。

 ただ唯一、深也しんやを除いては。


 深也に声をかけられたのは1か月ほど前のことだった。

 6時間目の授業と終わりの会が終わって、皆が教室から出て行くのを待っていた時だ。

 僕は人混みが苦手だったのでいつも最後に教室を出るのだけど、その日はずっと教室に残っていた奴がいた。それが深也だった。

 深也は物静かな雰囲気をまとっている男の子で、顔が少し隠れるくらいの長い髪が特徴的だった。

 クラスメイトの名前はあまりよく知らないけれど、深也はその少し大人びた雰囲気とランドセルのちぐはぐさが印象的だったので覚えていた。僕が言うのもなんだけど少し変わった奴だった。

 だけど決して友達がいないわけではない。僕のようにクラスの班分けでもあぶれることはないし、二人一組を作ることができずにいて渋々組んでくれた相手に嫌な顔をされることもない。

 それなのに、彼は教室の後ろを振り返って「一緒に帰ろうよ」と言ったのだ。

 他に誰もいない教室だったけれど、僕は本当に自分に話しかけられているのかどうか分からずに周囲をきょろきょろと見回した。

「一緒に帰ろう、一人だろ?」

 深也は再び僕に向けて静かな口調で言った。

 傾いてきた日に照らされたその表情からは何の感情も読み取れなかった。

 今日初めて誰かに話しかけられたことで、固まってしまっていた。

 一日中ずっと声を出していなかった喉を振り絞って、なんとか「ぁ、うん」と答えた。


 深也と並んで帰り道をあるきながら、誰かと一緒に帰るのはいつ以来だろうと考えた。

 近所で強盗事件が起きた後や低学年の頃に集団下校した時以外は誰かと一緒に帰るなんて状況はなかったことに気づく。

 人生で初めて、誰かと一緒に帰るんだ。

 そう思うとなんというか、すごく緊張する。

 自然にしなければと思って意識していると歩き方すらよくわからなくなった。気付けば膝を曲げないまま歩いていて、すごく変な歩き方をしていた。

 深也は一緒に帰ろうと誘ってきたにもかかわらず、一向にこちらに話しかけてくる気配はなかった。

 ただ、隣を一緒に歩いているだけだった。

 下駄箱を通り過ぎ、校門をくぐって、道路を歩く。

 何か話しかけた方がいいんだろうか? でも何の話をすればいいんだ? 家に帰って何してるのかとか訊いていいんだろうか、いや、そんなこと訊かれたら迷惑かもしれない。

 なんてことを悶々と考えているうちに。

「さてと」

 深也が初めて口を開いた。

「君の家、ここだろ? じゃあまた明日」

 一体、何を言われるのかと思ったらそれだけだった。

 気付けば見慣れたマンションの前まで帰ってきていた。学校から家までの間、僕はずっと緊張しっぱなしで、深也はその隣を無言で歩いているだけだった。

「ぁ……じゃあ、ぁ……また、明日」

 僕は緊張した喉を振り絞って言った。

 深也は軽く手をあげて、そのまま振り返って行ってしまった。

 初めてだった、当たり前のように明日も会うことを誰かに告げるのは。


 5階建てのマンションの4階、401号室が僕の家だ。

「ただいま」

 玄関に入ってそう言ったけれど「おかえり」の一言が返ってくることはなかった。

 母さんはこの時間、リビングのソファの上で膝を抱えてテレビを見ていることが多かった。テレビに集中しているのか、僕が返ってきても最近は返事をしない。

 笑うでもなく、泣くでもなく、ただじっとテレビを眺めている。

 薄暗くなってきた部屋でテレビを見ているので、母さんの眼球には子ども向けの英語番組の画面が小さくくっきりと映っていた。

 僕は母さんの目が悪くなってはいけないと思って部屋の電気をつけた。

 するとやっと僕が返ってきたことに気づいたのか、ハッとしたような表情をして立ち上がり、カーテンを閉めてから大きなため息をついていた。

 昔はよく、僕が学校から返ってくると「今日は学校楽しかった?」とか「どんなことがあったの?」と聞いてくれていたけれど、僕の感情のこもっていない「うん、楽しかったよ」や「いつもと同じだよ」という返事を聞き飽きたのか、いつの頃からか僕の学校での様子を尋ねることはなくなった。

 父さんは単身赴任で東京に行ってしまって僕と2人だというのに、最近は僕の晩御飯を作り忘れていたり、洗濯物も回っていないこともあった。

 こういうのをネグレクトというらしい。こないだテレビで専門家の人が言っていた。

 いや、母さんの場合はもともと何をするにでも気力がないような人間だったから、特段今が特別というわけではない。きっと僕もその血を受け継いたのだろうと思う。

 ただ、最近になって母さんが妙に年をとったと感じることがある。髪の毛や爪なんかに艶が無くなってきたり、化粧をすることも少なくなったみたいだった。

 今からそんなことで、僕が大人になったら母さんはどうなってしまうんだろう。

 いや、そんなことを心配するよりそもそも僕が社会の役にたてるような立派な大人になれるのかどうかのほうが怪しいか。

 その日も晩御飯は用意されなかった。

 僕は和室の畳の上に敷かれたままの冷たい布団に入って寝た。

 最近、あまり空腹は感じなくなっていた。

 

 次の日も、深也は教室に一人残っている僕に「一緒に帰ろうよ」と誘ってくれた。

 その時の僕が、昨日のことは夢じゃなかったんだと、ひたすらに嬉しい気持ちになったことは言うまでもない。

 その日も、別に深也と特別な会話があったわけではない。

 一緒に遊ぶわけでも、ゲームやアニメの話をするわけでもなく、ただ側を歩いて帰路を共にしただけだった。

 そしてマンションの前で「じゃあまた明日」と言って別れる。

 そんな日々が1日、また1日と続き、気づけば1か月以上が経っていた。

 寒くなってきて、近所の商店街がクリスマスの飾り付けを始めても、深也は飽きもせずに僕のことを誘ってくれていた。

 僕は次第に緊張することが無くなっていった。

 放課後に誘ってくれる瞬間を待ち望んでいる自分がいて、深也と一緒に歩く時間は僕にとってかけがえのないものになっていた。

 でも、自分の胸の中で「どうして深也は僕を誘ってくれるのだろうか」という不安にも似た疑問があった。それが風船に空気が入るようにしてだんだんと、しかし確実に大きくなっているのを感じていた。

 そしてついに、隣を歩く深也に僕はおそるおそるこう切り出した。

「どうして、毎日誘ってくれるの?」

 ずっと怖くて訊けなかったけれど、僕の中の風船は今にも割れてしまいそうで、尋ねずにはいられなかった。

「別に、大した理由なんて無いよ」

 なんてことはないといった風な、前を向いたまま答えた深也の態度に僕は安堵した。

「君はいつも最後まで教室に残ってるだろ?」

 深也はそう付け加えた。

 そして、立ち止まって右腕をすっと上げた。

「そういえば。そこの道路、あるだろ」

 大きな道路を渡った先にある交差点を指さしていた。

「あそこはよく工事のトラックが通るんだけど、塀が高くて見通しが悪いから危ないんだ」

 どうして今、そんなことを言うんだろう。

 深也と目があった。吸い込まれそうな、底が見えない穴のような黒い瞳が僕を捉える。僕の全てを見透かすような、そんな目だった。

「あそこには近づかないほうがいいよ、絶対」

 それだけ言って、深也は再び歩き始めた。

 

 次の日の朝、僕は学校に向かう。

 今週で2学期も終わりだ。冬休みが待ち遠しい気持ちと、深也と一緒に帰れなくなる残念さが僕の中で揺れていた。

 深也が危ないと言っていた交差点はいつもの通学路の途中にある。

 近づかない方がいいと言われていたけれど、気を付けて通れば大丈夫だろうと思った。

 改めてその交差点を見ると、工事のトラックがたくさん通るとか、塀が高いとか、今まで全然意識していなかったことに気付く。きっと、ずっと下を向いて歩いていたからだろう。

 でもそれよりも、僕はその交差点の奥から、うまく言葉にできないような気持ち悪さを感じた。暗さのような、生ぬるいような、べちゃっとしたような、生臭いような。とにかくそれは無意識にぞわぞわと総毛立ってしまうような感覚だった。

 本能的に、そこは見てはいけないと、はっきりとわかる。

 交差点を通り過ぎた後、しかし僕は、なぜだろう、どうしても気になって後ろを振り返って、交差点の奥の道を覗いた……。

 

「一緒に帰ろうよ」

 放課後の教室、深也はいつものように僕に声をかけてきた。

 窓の向こうで他のクラスの人たちが廊下を走っていく足音と笑い声が、教室に響いていた。

「どうして……。どうして、僕と一緒に帰ってくれるの?」

 昨日と同じ質問を、深也に投げかけた。

 深也は僕のその様子を見て、なにか気づいたようで、少し口の端を上げて「理由なんてないよ」と言った。

 いつも深也に誘ってもらえて嬉しかった。

 また明日ねと、そのひとことが言えたことが、僕にとってどれだけ誇らしかったことか。

 それだけで、学校に行くことがこんなにも楽しみになるなんて。僕は想像したことすらなかった。

 何も楽しい会話ができたわけではないけれど、一緒に帰ってくれて楽しかった。

 これからもずっと、誘ってほしかった。

 でも僕はどうして、あの交差点の奥を見てしまったんだろう。

「……どうして僕が死んだ人間だと分かっていて、誘ってくれたの?」

 交差点の奥の電柱には、根元に花束が置いてあった。それを見て、僕は自分の死んだ原因を思い出した。

 深也は背負っていたランドセルを近くの机に置いて、椅子に座る。

 そして呆れたような口調で「やっぱ見ちゃったか。近づかないでって言ったのに」と言った。

 深也は短いため息をついてから、僕の問いに答えた。

「だって、振り返るといつもそこにいたから。君、本当は誰かと一緒に帰りたかったんだろ?」

「違うよ。僕は人混みが苦手だから、最後まで教室にいたかっただけだよ」

 反射的にそう否定すると、深也は僕の顔を見て鼻で笑った。

 まるで僕の本心なんて全てお見通しだとでも言うように。

「まぁ本当に、誘ったことに大した理由なんてないんだ。幽霊の友達がいれば何かとおもしろいかなと思っただけだよ。……まぁでも君は事故現場に戻って自分の存在に気付いてしまった。だからもう長くはこの世にはいられないよ、残念だけどね」

 それだけ言うと深也は「ほら、帰ろうよ」と、いつもと同じように僕に言った。

 僕は深也に促されるままに帰路についた。その日の帰り道、僕は深也にいろいろと尋ねた。

 霊感があるのか、いつから幽霊だと気付いていたのか、とか。ついでに僕が死んでからもうすぐ50日ぐらい経つとか、葬式はどんなのだったのかも聞いた。

 気付けばいつものマンションの前にたどり着いていた。会話をしながらの帰り道がこんなにも短いことに驚いた。

「じゃあね」

 深也はそう言って小さく手をあげて、いつものように行ってしまった。


 401号室のドアをすり抜けると、珍しく父さんの靴が玄関にあった。

 僕は久しぶりに父さんの顔が見れると、少し嬉しくなった。

 今日はテレビはついていなくて、家の中は静かだった。

 母さん達は2人とも僕の部屋にいた。

 あまり使われなかった国語辞典も、歪な形の紙粘土のペン立ても、半分白いままの漢字の書き取りノートも、キャンプで使った軍手も。全て段ボールの中に片付けられていた。

 2人のすすり泣く声が、静かな部屋の中で響いていた。

 僕の物と一緒に、涙が段ボールの中に次々と入っていく。

 母さんは抱きしめるようにして段ボールを抱えて、嗚咽をもらし始めた。

 胸の底から申し訳ない気持ちが溢れてきて、それは僕を簡単に押しつぶした。

 2人の作業を見ながら、茫然と立ち尽くしていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一緒に帰ろう 園長 @entyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ