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八月二十日 PM二二:五〇
Xデーを迎えた今日。草木も眠るこの時間帯に、僕は夜道を歩いていた。提示された場所を地図アプリにセットしてあるので、迷う心配はない。
物音一つしない閑静な住宅街。途中に入るAIのアナウンスに耳を傾けながらバイクで走る。普段使う車は使わない。使い勝手が悪いし、路駐も気軽に出来ないからだ。
それにしても……。
「このルートって大学だよな」
初めに見た時は気付かなかったが、指定された場所はまさかの大学。それも僕が在籍している所だった。
何故あいつは此処を指定したんだ? 敷地内は関係者以外立ち入り禁止。それにこんな夜更けなら警備システムが作動しているはずだ。侵入出来る訳がない。
もしかして正体は教授だろうか。……いや、流石にないな。幾らモザイクで顔が隠れていたとはいえ、なんとなく雰囲気は分かる。あれはもっと若い人だ。教授に僕と同じぐらいの年齢はいない。となればそれ以外の人に絞られる。
「っと、ようやく着いた」
考え事をしていればあっという間。特に問題なく到着した。適当にバイクを止め、正門の看板を睨み付ける。
此処からが本番だ。難関である警備員の目。それをどうやってかいくぐるかだ。
正門の前で立ち往生している姿は、完全に不審者だ。けど、どうしようも出来ない。……困ったな。
と、ここで着信音。ポケットからスマホを取り出すと電話が来ていた。それも知らない番号だ。
「もしもし」
『やぁ、久しぶりだね』
スピーカーから発せられたテノール声。男性とも女性とも受け取れる声色は、おそらく僕を招待した相手だろう。
『早速で悪いが、一時的に防犯システムを解除した。私が居る場所をスマホに送っておいたから、さっさと来てくれ』
「は? え、ちょっと――」
取り付く島もなく、一方的に切られてしまった。一体どういう事だ。招いた客人に対してやる仕打ちじゃない。
だが、ここまでお膳立てしておいて、嘘、という事はないだろう。仮にいたずらで警備員が来ても学生だから言い訳出来るし。
一回、深呼吸を行う。新鮮な空気が体内を循環すると段々頭が冴えてきた。
相手は敵か味方かも分からない。でも、こんな所で引く訳にはいかない。
握り拳を作りながら、迷宮に足を踏み入れた。
GPSによって案内されながら廊下を進む。見慣れた場所だが、夜になると雰囲気が一変していた。
全て閉められた扉。明かりのない講義室。薄暗い廊下。足音だけが、僕の耳に入る。
まるで別世界に自分だけが入ってしまったみたいだ。
ふと、教授の話が思い浮かんだ。
お化け屋敷で一番怖いのは、静寂。何もない所から現れる幽霊。いきなり大きな音がしたり、囁き声が聞こえる。だが、それらが怖いのは当たり前。本当に怖いのは起こるまでの時間。静寂こそが、人に不安を与える。結果がくだらないものでも、何かが起きるかもしれないと思わせる事が大事なんだ。
そう告げた教授は、そのまま脳内講義室から退場した。
そんな事を考えていたら怖くなってしまった。教授には後日訴えよう。
スマホを注視する事で気持ちを紛らわす。無機質な光は、安心感を与えてくれる。暫くすると気分も落ち着いてきた。
馬鹿げた事をしながらも歩くのは止めない。階段を上がり、廊下を進み、扉を開ける。渡り廊下までいった所で、なんとなく場所が分かった。
あいつが指定した場所は、大学院棟だった。
「此処か」
一つだけ明かりの灯っている部屋。GPSを見ると丁度同じ位置に止まっていたから間違いないだろう。
扉を三回叩く。数秒遅れて、壁の向こうから「どうぞ」と声がした。
ドアノブを捻る。内側から差し込んだ光が眩しい。
慣れさせる為に瞳を閉じる。少し待ってから目を開き、中へ入った。
「やぁ、はじめまして」
電話をした時と変わらない中世的な声色。
あの時は分からなかったが――。
「女?」
部屋に居たのは、女性だった。声からして若い人であると予想はしていたが……てっきり男だと思っていた。
「見れば分かるだろう。全く、君の眼は節穴か?」
気だるそうに頭をかく女性。寝癖のある髪が更に酷くなった。
「それぐらい分かります。僕が驚いたのは、情報を持っている人が女性だった事です」
「驚く事か? 今どき男尊女卑は流行らんぞ。分からんでもないが。ま、取りあえず座りたまえ」
「…………はぁ」
なんだろう。このやりにくい感じ。飄々していて掴み所がない雰囲気というか、風に吹かれて何処かに行ってしまいそうになるほど、存在自体が軽い。まるで不透明だ。
彼女の言葉に従い、ソファに身体を預ける。沈んだ感触だけが、現実であると教えてくれた。
「せっかくだ、珈琲でも淹れよう。そこで待ってくれ」
そう言うと女性は奥へ行ってしまった。
……さて、どうしたものか。
背もたれに寄りかかりながら天井を見つめる。本当に彼女は殺人鬼に関する情報を持っているのだろうか。
正直あまり信用してない。一般人がアングラな世界の事を知っている訳がないし、何処からどう見ても院生にしか見えないからだ。唯の院生が裏では情報屋とかフィクションじゃあるまいし。
しかし疑問は残る。
彼女はどんな方法で僕のメルアドを知ったのだろう。学籍番号がそのまま反映されてるとはいっても、大勢の学生から一人を特定するには時間がかかる。地道に聞くならともかく、彼女は院生。そんな暇があるはずがない。
「お待たせ」
消えた所から現れる彼女。お盆の上にマグカップとポットを乗せながら、ソファに再度腰かけた。
「フィリピン産のカペ・アラミドだ。温かい間に飲んでくれ」
「……いただきます」
カペ・アラミドがどういう物か分からないが、豆の名前をいうぐらいなのだからそこらの物より美味しいのだろう。
ソーサーを手元に寄せ、取っ手を掴む。口元に近づけると珈琲特有の香りが鼻腔を通った。
一口、啜る。
「うま」
思わず口に出てしまった。
どう美味いかは形容しづらい。が、とにかく美味しい。この一言に尽きる。そもそも市販の缶珈琲しか飲まない僕の舌が、複雑な旨味を理解出来る訳がない。
だが、そんな僕でもこの珈琲は格別だと分かる。今まで飲んできた中で一位に入るぐらいだ。
「そうか。人になんか滅多に出さないからな。そう言ってくれると淹れた甲斐があったよ」
「いや、本当に美味しいです――――」
呼吸が止まる。気道に入った訳じゃない。
原因は、目の前の彼女だ。
「? どうしたんだ?」
彼女の手から二種類の物体が零れ落ちる。スティックシュガーとコーヒーフレッシュだ。雨のように降り注ぐそれらにより、黒々とした珈琲はほぼ真っ白になる。冒涜とも取れるその行為によって、僕の脳みそは急停止した。
「……それは一体」
「ああ、常日頃から頭を動かしているからな。こうやって糖分を補給するんだ」
納得と言えば納得だ。けど、別に市販で売られている珈琲でもいいと思う。
そんな僕を横目に、激甘珈琲牛乳を一気に飲み干す彼女。……そういえばユイも似たような事をやっていたな。女子は皆、甘いのが好きなのか。いや、流石に例外だよな。全人類の女子が彼女と同じだったら、今頃この世から甘味料が消えている。
「――そろそろ本題に入ろうか」
彼女はカップをテーブルに置き、膝を組んだ。
雰囲気が一変する。まるで野生動物のようだ。
「君は何を知りたいんだ? 試験の日程と内容? それとも特定の個人情報か? 警察沙汰になるような情報は教えられないが、この辺りなら大丈夫だろう」
予想外の発言に吹き出してしまった。
机の上にまき散らしてしまった珈琲を、ポケットティッシュで慌ててふき取る。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ふむ、それ以外を所望するか。あまり難易度の高いものはやめてくれ。……だが、追加給があればしてやらん事もない」
「違います! というか、なんでそんな明らかにヤバい事を知っているんですか」
「なんだ。私の事を探っておいて、まだしらばくれるのか」
やれやれ、と彼女は肩を竦めた。
「しらばくれるも何も、貴方の事なんて知りませんし、探った覚えもありません」
「ハッ、冗談はよせ。毎夜のようにあのバーへ来ていたじゃないか」
あのバー? ……という事はまさか。
色が変わる僕の顔を見て、彼女は嗤った。
「さては本当に知らなかったみたいだな。なら――改めて自己紹介だ。
知る人ぞ知る情報屋。緋色のシカダは、私の事だ。模試の範囲から国家の機密情報まで、なんでも教えてあげよう。無論、金は貰うが」
鋭利な八重歯が白い光を浴びる。
どうやら、僕はとんでもない大物を釣り上げたみたいだ。
四年に一度の殺人 三日月 @yamaiyuki
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