12
六月十七日 AM一:〇五
糸が――否、糸を張り詰める。
既に時計の針は日を跨ぎ、日曜へと移り変わっていた。
灯が消えたショッピングモールの駐車場。昼間は車に溢れ、人で賑やかな此処も人一人、居なかった。
――しかし、何事にも例外が存在する。
暗闇の中に何かが揺らぐ。空気の層が膜を張り、人の形を成している。
暗黒の海にユイは立っていた。
明かりのない外灯にもたれながら、瞼を閉じている。右足でリズムを取り、モッズコートのポケットに手を入れている。その様は逢瀬の時間を心待つ恋人のようだ。
静寂な夜空。その中にぽつり、一人の少女。もし名のある画家が居ればその場で絵を描いてしまうかもしれないだろう。
それほど優美で、儚い。
「来た」
だがそれは唐突に終わりを告げる。
広い空間にも関わらず、鈍い音が彼方から聞こえる。空気を震わせ、音を彼女に伝える。
ズシン、と一定のリズムを刻み、着々とユイに近づく地響き。
数秒もすれば正体は判明した。
黒のキャンバスに描かれた大男。二メートルは優に超え、ユイを見下ろしていた。
伸びきった前髪から微かに覗く
そして――。
「写真の通り、か」
男の肩から生えている腕。左は普通の人と同じだが、右だけが異様な形へと変化していた。
獣の如く盛り上がった筋肉。それを覆う剛毛。獲物を殺す為だけに、発達した爪。
異形の存在を目の当たりしたユイは、何も言わず。
自分の爪を取り出した。
ポケットという鞘から抜き出た、銀色の刀身。刃渡り十二センチ。
それが彼女の武器だった。
獲物が武器を出した事で威嚇する獣。ガチガチ、と歯を震わせ、隙間から空気が抜ける音が響く。
「節操のない。だから獣は嫌」
対してユイは嫌悪の表情を浮かべる。溜息を洩らし、空を見上げた。
“好機――”
獲物が見せた隙を、獣は見逃さなかった。
脚部に血を巡らせ、圧倒的な力で大地を蹴り上げる。間合い不十分だった距離が、一瞬で射程圏内と化す。
右手を構え、巨体を突進させるが――。
「五月蠅いなぁ」
鮮血が宙に舞った。しかし、女の物ではない。獣特有の生臭い、どす黒い血だ。
獣が構えた右腕を振り下ろすよりも速く、ユイは懐に入り、ナイフを這わせたのだ。
傷自体は致命的ではない。ただのかすり傷。
けれども獣は、
「―――aaaaaaaAAA!」
それをよしとはしなかった。
自分より力はなく、自分よりも体躯は小さく。戦いの定石に当てはめれば己の方が圧倒的に有利。
なのに、先に傷をつけられたのは自分の方。
普通であれば距離を置くなり、冷静に状況を判断するだろう。
けれど、獣はそれを知らない。
「Killkillkillkill」
獣としての矜持か、傲慢か。
上段に構えていた腕を勢いよく叩きつけた。
「――遅いよ」
空気が削れ、地面を抉る。しかし、ユイは重心を後ろにずらす事で回避する。
続けて獣が跳躍。右腕を軸にし、更に間合いを詰める。左足から放たれる浴びせ蹴り。けれども、躱される。
ユイが数メートル離れた所で漸く、獣は気付いた。
「もっと遊びましょ? 夜はこれからなんだから」
この獲物は、己にとって脅威であると。
♢
(……どうしようかな)
獣に目を離さず、ユイは思案していた。
スピードでは自分の方が勝っているが、明らかに不利。相手が嘗めていたおかげで優勢に物事を運べたが、今度はそうはいかない。
獣もじっとユイを見つめている。先程の猛攻が嘘のように。
野生の勘とも言うべきか、男はユイの事を強敵だと判断していた。
逃げないのは己のプライド。
それだけが、此処に居る理由だった。
「ハァ……これだから獣は嫌いなの。さっさと尻尾巻いて逃げればいいのに、あいつの言う事聞いちゃってさ。首輪を掛けられちゃって、可哀そうに」
悠然と、ユイはナイフを構える。左足を後ろに、右手を前に突き出す。
「GgYaaaaAAA!」
獣の咆哮。静寂を切り裂き、周囲に怒号を轟かせる。
プライドを傷つけられ、自分が主人に逆らえない事を指図されたからだろうか。
「―――吠えたな、狗が」
しかし、彼女には効かない。
そもそも威嚇とは相手に自分は脅威だと見せつける行為。
裏を返せば、脅威だと感じていない者に効果はない。
ユイは一直線に疾走する。
咆哮を物ともせず、風を切りながら獲物目掛けて距離を詰める。
獣も臨戦態勢に入る。
いつでも行動に移せるように身体を低くし、腕に力を込める。
先に仕掛けたのは、獣だった。
爪を使った横払い。空気すら抉り取るほど鋭い、必殺の一撃。
獣の先手をユイは半身を捻る事で対処した。
そしてすれ違う瞬間に一閃、切込みを入れる。着地してから続けざまにもう一回。今度は下から上に、斜めの線を獣の肉体に刻む。
三、四、五、六、七、八、九――。
ユイはそれを、何度も繰り返した。
速さで蹂躙する。獣はスピードについていけず、ひたすら受け入れるしかない。
それも当然。彼女は人間ではない、殺人鬼だ。
力も人より強く、殺しを愛し、凶暴さでは随一を誇る。
人の形をしているだけで、人よりもっと恐ろしい化物なのだ。
獣はそれを察知出来なかった。
男の敗因は、ちっぽけな自尊心を優先したせいだ。
「はい、これで終わり」
程なくして蹂躙は終わる。
結果は明白。敗者は膝をつき、勝者が見下す。
獣の身体には無数の切傷。それ自体は浅いが、全身に刻まれる事で致命傷と化している。
審判を下す時が来た。
ユイは右手を天に向ける。血に染まった刃が、月光で姿を見せる。
獣は死期を察し、瞳を閉じた。
再び静寂。彼女らの息遣いしか聞こえない。
ギロチンは、
「…………」
下ろされなかった。
構えを解かずに、ユイは呟く。
「―――殺せない」
身体の力を抜き、身を翻す。
「早く逃げなよ。命が惜しいなら」
大男は驚愕して目を開く。何かを考えているようだったが、小さく頷くと立ち上がった。
ユイに背を向け、満身創痍の身体で立ち去ろうとする。
「駄目じゃないか。最後までしないと」
しかし、第三者の介入でそれは叶わなかった。
駐車場に鳴り響く無機質な音。大男の左胸を銃弾が貫く。肉体は崩れ、四肢が炭化する。
何も理解できず、彼は死んでいった。
「オイオイ、なんで躊躇しちゃうかなぁ? どの道こいつは死ぬのにさ」
闇から突如、別の男が現れる。
黒一色の場所で、異色の白衣を纏う男。肉塊に見向きもせず、ユイの元に近づいた。
「……なんで、殺したの」
ユイの質問を、男は嗤いながら答えた。
「殺人鬼であるキミがそれを言うのかい? 滑稽だなぁ」
「答えろ!」
ナイフを投げ捨て、ユイは鬼気迫る表情で白衣の襟を掴む。
だが男は身じろぎ一つしない。逆に上から覗き込むように、ユイを睨んだ。
「あれは人を殺した獣だ。なら、駆除するのは当たり前じゃないか」
平坦な感情で、男は事実を述べる。
害ある動物は、例外なく処分される。それを実行しただけ。
虚を衝かれるユイ。今度は彼女が追い詰められる形となった。
「キミだって殺すつもりだったじゃないか。それなのに最後はコレときた。全く……哀しいよ。所詮口だけの人間――化物だったか」
「撤回しろ!」
「しない。焦っているのが証拠さ。結局、キミは過去に囚われて動けない。否――動きたくないのかもしれない」
ユイを押し退け、それ以上は何も言わずに男は現場を後にした。
行き場のない感情がユイを襲う。拳を強く握ると指の隙間から血が染み出た。
「……そんな事、分かってるよ」
打ち震える身体を夜風が撫でる。亡骸から出た灰が宙に散った。
死者に捧げる、手向けのように。
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