06
藁にも縋る勢いで首を上下に激しく揺らす。それを肯定と受け取ったのか、彼女は机の下から一枚の紙を取り出し、胸ポケットに入れていた万年筆と共に並べた。
「貴方にはこれを書いて貰う」
素早く手を伸ばし、契約書に目を通す。スマホアプリの契約書は適当に読み進める僕だけど今回は一文字も漏らさずに読み進めた。
―契約書―
一 乙は殺人鬼の存在を第三者に口外してはならない。
二 一を順守している場合、殺人鬼は乙を殺してはならない。ただし機密保持の為に次の閏日を処理期限とする。
三 乙が以上を違反した場合、この契約は不成立となる。
「面倒くさいよね。口約束でもいいんだけど……こうしないと五月蠅いから」
ティスプーンでミルクティーをかき混ぜながら彼女はぶつぶつと愚痴を漏らす。
無茶苦茶な内容だ。これではどう転んでも僕は死ぬ事になる。他にも突っ込みたい部分はあるが……。
「……なんで期限が閏日なんだ?」
契約書の二番目を指差す。
機密保持の為に僕を殺すのは分かる。だとしても死にたくないが……それが閏日になる理由が分からない。こんな中途半端な日にする必要があるのかだろうか。
「これには色々深い理由があるんだけど……言っていいのかな」
歯切れが悪い彼女。「んー」とか「あうー」やら、顔を二十面相させている。
葛藤する事数十秒。ようやく覚悟が決まったのか、真剣な顔付きで僕の目を見た。
「関係者の貴方だから言うけど……殺人鬼にとって殺しとは食事と同じなの。だけど私は殺人をしたくない。そんな時、どうすればいいと思う?」
「それは……」
これは恐らく殺人鬼に関する情報なのだろう。それにしても……殺す事が食事の代替品というのは些か疑問だが、彼女の眼差しを見れば嘘偽りない事は確か。
どうすればいいか……他の方法を探すとか? いや、食事の代替えになる物なんて存在しない。
となれば考えられるのは一つ。
「我慢」
「そう、我慢する。至って単純な方法だね」
やはりそうか。でもはっきり言って無理だ。
人は食事をしないと七日しか生きる事が出来ない。それが殺人鬼にも当てはまるか不明だが……自傷行為に近い事は間違いない。
なのにどうしてそんな行動をするんだ? 僕ら人間だって生きる為に他者を殺し、それを捕食する。捕食対象が違うだけで彼女も同じだ。
僕から生まれた疑問は直ぐに解消した。
「――もう嫌なの」
彼女によって。
「貴方に解る? 声を押し殺す子供、死の間際までそれを守る大人。本当は嫌なのに、それでもやるしかなくて。我慢しなきゃ、って思ってたけど出来たのはたったの四年だけ。その日になるともう一人の自分が蠢くの。人を殺せ、って。嫌なの、私という存在が」
彼女は否定する。
延命に必要な事を。自分を救う行為を。
何故悩んでいるかは分からない、が殺しをしないなら僕にとっても嬉しい。ウィンウィンじゃないか。
だというのに――。
「……辛かったな」
僕の口から出たのは慰めだった。
「……心配してくれるんだ。自分の事を殺そうとしていた人を労わるなんて、貴方ってお人よしなの?」
「悪かったな」
「ううん、嬉しかった」
涙を拭いながら彼女は顔をくしゃっとさせる。彼女の仕草にすら心を奪われ――ってこんな状況で何を考えているんだ。
自制心を強固にする。殺したくないと言っていたが相手は殺人鬼、惚れるなんて以ての外。それが僕を殺そうとしていた相手なら尚更だ。だけど彼女は本心から言ってそうだし……うぅ。
僕の脳内は大戦争。今度は僕が二十面相する番となった。
「……で、改めて僕は何をすればいいんだ。その為に身を削って情報を教えたんだろ」
「――貴方には私の殺人欲を消す方法を探って欲しいの。私は他の奴らから疑われるし……第三者の存在が必要だったの」
「それをやって僕にメリットは?」
「殺さないように便宜は図るけど……正直に言うとほぼない。見つかる保証はないし、探しているのがバレたらその時点で殺される確率が高い。……でもサインだけはして欲しいの。周囲に対して命を握っていると思わせる為だから」
……どうしたものか。
既に冷めきった珈琲を飲み干す。乾いていた喉を潤すには物足りないが脳機能を復活させるには丁度良かった。
話を纏めると……彼女は人とは違う存在であり、人を殺す事によって生きている。だけど彼女自身はそれを忌諱していてその欲を消したいと願っている。方法を探す事が出来れば僕の命は助かり、出来なければ死ぬ。更に見つけるのが困難ときた。
普通なら断るべきだ。どの道殺されるなら短い人生を最後まで全うしたい。
だけど、
「お願い……私に力を貸して」
華奢な身体を震わせ、彼女は懇願する。本来なら捕食する対象である人間に。
……殺人鬼とはいえ、一人の少女か。
万年筆を取り、契約書に自分の氏名を書く。判子は……持っている訳ないか。
「判子はした方がいいのか? 生憎持っていないんだけど」
「……いいの?」
「いいも何も此処で断っても僕は死ぬんだろ? だったら最後まで足掻いてやる。それで判子はいるのか?」
おずおずと手渡しされたのは安全ピン。……血判しろという事か。
安全装置から針を外し、人差し指に軽く当てる。鋭い痛みを気合で誤魔化し、血が出やすいように根本を絞る。指紋に全て被さったのを確認してから契約書に押し付けた。
後悔はある、が自分自身で選んだ道だ。もう、戻れない。
「ぐすっ……本当に、ありがと」
「そりゃどうも。これで不備はないな?」
「……大丈夫。……水野紘、か」
何度も僕の名前を連呼する彼女。そんなに珍しい氏名なのか?
「……あ、そういえば私の名前教えていなかったよね。私の名前はユイ。これからよろしくね」
机の上から手を差し伸べるユイ。僕はそれを――。
「不本意だが、こちらこそ」
迷う事無く、その手を取った。
これが悪夢の幕開け。
激動の数か月は小さな喫茶店の一角から始まった。
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