しあわせの魔法

けいP

——3月21日——

 コーヒーの温もりと早春の空気に心の行く先を委ね、物思いに耽っていた。

 淹れたての二杯目に少しだけ口をつけた私は机の上にそのマグカップを置くと、気だるい湯気がふらふら昇るのを見ながら、また頬杖の姿勢に戻った。


 すすけた懐中時計に眼を向ける。

 午前4時16分——まだ少し時間がある。

 今日から特別な大仕事が始まる。


 「はぁ……。」ため息をつく。

 ——白い息が見えた。

 もうしばらくは見られまいと思っていたが……。今は大して寒くもないし、ここは水溜まりが多い。きっと湿度の高いせいだ。

 ——子どもの頃、息が見えるようになる理由は寒さだけではないと、兄さんは教えてくれた。


 ——兄は元気だろうか。私の兄は、昔から優秀だった。正義感が強くて、頭も良くて……。お陰で周囲からな期待を受けて、随分ずいぶんと無駄な骨を折ったが……。だが、直接の加害を受けたわけでもないのに、そうやって兄を非難してしまうのは不当だ。兄は——兄だけは、特別だ。

 学業に忙しかった兄と、親元を離れて寮で生活してきた私なので、交流は普通の兄弟に比べて極端に少なかった。だが、そんな中でも兄は——年に一二回だったが——私と会う機会があれば散歩に連れて行ってくれた。そして二人で森の中を歩きながら、将来は人の役に立ちたいとか、化学はこんなに面白いだとか、いろいろ話を聞かせてくれたのだ。今でもその時のことを思い出すと、なんだか愉快になってくる。


 今、兄は◯◯とかいう権威ある所で化学の研究に携わっている。私が学校を卒業した時だから、五六年は経つだろうか——現状、兄との最後の散歩のときに「空気からパンを作る」とか言っていた。私はそのとき、何度も「本当かい?」と聞き返した。そんな魔法みたいなこと、あるわけない。馬鹿にされているのかと勘繰って、大袈裟に拗ねてみせたりした。しかし、兄の目は真っ直ぐ、それでいて哀しく、私の顔を捉え続けていた。


 それ以降、手紙の往来はあるものの、今日まで会えず仕舞いでいる。しかも最近は互いに多忙な日が続いて、手紙さえも中々書けない。まだ空気からパンを作っているだろうか。——おかしくて私は吹き出した。


 ——あの目が何を意味していたのかを直接きいてしまうのは、なんだか忍びない。真相は今日まで分からないままだ。

 なにかと学者も不自由な時勢だから、参っていなければ良いのだが……。


 「元気かなぁ……。」ため息混じりにそう言った。


 ため息——か。

 ——曰く、私はため息が多いそうだ。昔から、悪い癖だと周囲の人間に言われてきた。私は深呼吸の一環だと思っているのだが、周りからの心象は良くないらしい。

 「周りなんてどうでも良いさ。人様にへーこらしてる人間で……」褒められた奴なんていないだろ——。そう続けるつもりだった。が、私を取りまく静寂は、稚拙な呪詛をもつぐませた。


 気分が重い。どうしてこうも人間の社会というのは、くだらないほど複雑なのだろう。そう感じるのは、私が卑小なだけだろうか。学が無いからだろうか。頭が悪いからだろうか。では頭の良い人間にいさんには——いや、他の人間には、世界はどう写っているのだろう。


 私は何にもできない、空っぽな人間だ。父さんも母さんも——近所の人まで、故郷ふるさとに帰るとみんな「お前はできる子だ」なんて言って微笑んだが——みんな無責任だ。

 ただ、期待という釉薬うわぐすりが無邪気に塗られていって、表面だけが不釣り合いに輝きを増した。それがまた身勝手な期待を呼び……。

 ——そうした結果が、この青い顔で不満げで、ひねくれた伽藍堂がらんどうだ。

 外側と内側との温度差で私が前に、この痛ましい勘違いを再生産する構造に気が付けたのは、幸か不幸か……。


 「はぁ……。」

 ——また、ため息が漏れた……。


 私は苦笑し、コーヒーをあおった。少しだけ冷めたコーヒーは、猫舌気味の私には丁度よく飲める。

 コーヒーが好きだ。最初はただただ苦かった。けれど、兄の真似をしているうちに、いつの間にかその苦みは忘れてしまった。

 ——コーヒーは、ただおいしいだけじゃない。いつも本当の私と向き合って——いや、向き合わせてくれる。いつからか、どうしてなのかはわからない。ただ、私という空っぽの器を一時いっときでも満たしてくれる気がする。

 ——私はきっと、自分の空っぽに向き合わせてくれる存在が好きなのだ。だから兄をしたう。そしてコーヒーを飲む。


 「ふぅ……」——今のは恍惚を味わう鼻息だ。誰も文句はないだろう。そうやって、また独りで笑った。


 ——中身のない自惚れた哲学者かぶれ。

 狐みたいな級友にそう言われたことがある。そいつとはひどい喧嘩になった。それ以来ずっと関わりがない。今思えば慧眼けいがんだ。

 厭なやつだったが、元気にしているだろうか。南の方に行ったとか聞いたな……、名前は何と言ったっけ……。


 「失礼します。」——私の懐古は、この声をもって終わった。


 「……どうぞ。」そういうと、知らない男が入ってきた。誰だろう——

 「本日付けでこちらに配属——もとい貴方の補佐に任命されました。オットー・カールであります。」そういって右手を彼の額に持っていき、慇懃いんぎんかかと同士を打ち鳴らした。彼も私と同じで、空洞なのだろうか……。

 「……ああ、オットー君だね。話には聞いているよ、書類も見た。ミヒャエル・ヴェルナーだ。宜しく頼む。」使い古した中身のない社交辞令でつくろい、うつろに彼を見据える。

 「予定通り、準備は完了しています。後は貴方の指示だけです。」

 「わかった、ご苦労。」

 ——私はまた、ため息をついた。

 「……朝食はお召し上がりに?」

 「いや、まだだ。」

 「そうだと思って、パンをもらってきました。よければどうぞ。」そういって、彼は固いパンをひとつ差し出した。

 「ああ、気がきくな。」パン……、兄さん……。そうだ——


 「書類に書いてあったが……君は化学に詳しいらしいな。そこでちょっと教えてほしいことがあるんだが……。」パンを弄びながら言った。

 「答えられる範囲でなら。」

 「その……、魔法みたいな話だから、信じちゃいないんだが……、空気から……パンをつくる方法……聞いたことないか?」

 ダメ元で聞いてみたが、意外にも答えは呆気なく帰ってきた。


 「ハーバー・ボッシュ法ですかね。」

 「なんだい、それ。」

 「えっ……と。空気から窒素を引っこ抜くんです。窒素は肥料なんかに使われますね。その方法を使えば、その肥料の元が無尽蔵に取れる。すると、作物もたくさん採れる。だからなんて魔法みたいな言い回しがされてるんです。実際、の大発明ですからね、魔法みたいなもんです。」


 『嘘じゃない。今は空気からパンをつくるための研究をしてる。魔法みたいだろ?』

 ——古い想い出から、兄の声がする。散歩のときだ……。

 「なるほど。」兄はその研究に携わっていたんだ。あの言葉は嘘じゃなかった……。

 しかし——


 『ミヒャエル……、士官学校はどうだい……?』

 『どうして暗い顔をするの?』


 「ただ、戦争が始まってからはハーバー・ボッシュ法で得られた窒素……、もっぱら火薬にされてるんです。使も、きっとですよ。」


 『科学ってのは、世間で思われてるような悪いものじゃないんだ。』


 「最初から軍事転用される懸念はあったようですが……、しかし、皮肉な話ですよね。パンをつくるため——人を救うためにが開発した技術を、は人を殺すために使ってるんですから——」


 『ミヒャエル……、僕は……化学で人を救えるようになりたい。』



 ——そうか……。

 そういうことだったんだ……。



 「……ええ、そういうことです。」

 「んぁ、あ、ああ……。」

 「……大丈夫ですか?、目が少し赤いようですが……」

 「いや、大丈夫だ……。我が国の科学がそこまで進んでいるとは誇らしいな。」

 「え……ええ……。」


 「いや、すまないな。パンを見てちょっと思い出したんだ、ありがとう。」

 「お安い御用です、ヴェルナー大尉のためですからね。」

 「——おや、そろそろ時間だ。先に行っててくれ、すぐに行く。」ふところから時計を取り出しながら言った。——4時33分。

 「では、失礼します。」彼はパンを咥えると、外へ駆けていった。


 「——兄さんは、見越してたんだ。自分の研究まほうが、こうやって使われることを……。」

 だから、哀しい眼をしていたんだ。


 気だるく、ふらふら立ち上がった。罪悪の呵責が——体に重くのし掛かる。


 「それを、よりによってわたしが……。今までずっと……、兄さんの……。」

 ——涙が出た。

 「——兄さんが人を救うために作った技術で——人を……、殺してきた……。」

 そう——呟いた。


 る瀬のないため息が出る。

 机に置かれたマグカップを見つける。

 とっくに冷めてしまったコーヒー。

 それを、ぐっと一息に飲み干した。



 大尉は野営テントを出た。——夜明け前の淡い光が、一面穴だらけの痛ましい大地をおぼろげに照らしている。

 整然と並んだ榴弾砲りゅうだんほう、命令を待つ砲兵、塹壕で俯く兵士たち、鉄条網、一面のクレーター、そこに溜まる泥水、焼け落ちた家屋、死体、死体、死体……。

 そして——英国国旗ユニオンジャック

 数百メートル先に、イギリス軍の陣地が見える。


 ああ、なんて……


 ——……。


 大尉は大きく息を吸うと、彼の部下に向けて号令を出した。


 「諸君!砲兵大隊われわれは予定通り、現時刻をもってイギリス軍に向けて砲撃を開始する!は我々が終わらせる!」


 私はミヒャエル・ヴェルナー。

 ドイツ帝国軍大尉。



 「放てFeuer!!」



 人を救うための技術で——

 ——人を殺す男。




 ——1918年3月21日午前4時35分。フランスのアミアン、セント・クエンティン南西のイギリス軍へ向けて、ドイツ軍は砲撃を開始した。瓦解寸前のドイツ帝国を建て直す、起死回生の大作戦「春期大攻勢カイザーシュラハト」の火蓋が切って落とされたのだ。

 この作戦で、合わせて50万を超える人間が命を落とすことになる。


 協商きょうしょう国側に海運を断たれ、深刻な火薬不足に陥っていたドイツは、ハーバー・ボッシュ法を流用、火薬を大量に生産した。この戦争——第一次世界大戦の行く末は、よく知られる通りである。


 ——ハーバー・ボッシュ法の創始者、ハーバー、ボッシュ両名は、のちに各々それぞれノーベル化学賞を受賞。空気からパンをつくる魔法は改良が重ねられ、今日も我々を支えている。



 ※登場人物は架空のものです。

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しあわせの魔法 けいP @Kei_P

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