1-4 儀式のキスじゃ満たされない

「これを持っていけ」


 翌朝、食欲は人並みにある女性がトースト二枚をたいらげたあと、ヴィンセントはぶっきらぼうにそう言った。


 朝食の後片付けを終えたばかりのテーブルに置かれたのは小瓶がひとつ。薬瓶はこれと決めている、彼のサインが刻まれた特注品だ。

 問題はその中身。食欲も減退する青色をした液体は、絵の具をそのまま混ぜたみたいな鮮やかさだ。とても口にしていい色には見えない。


「なんでこの森に来た。エセだろうがなんだろうが、痩せ薬なんて吹聴する輩は他の街にもいるだろう」

「……変わりたかったから」


 女性はぽつりと呟いた。


「どうしても叶えたかった。痩せて綺麗になって見返してやりたい男がいるの。だから」

「ああいや、もういい」


 続けようとした女性をヴィンセントが遮る。今のが彼女の本心に一番近い気がした。見返したいという、憎しみにも似た感情。それは綺麗事を並べるダイエッターよりずっと生々しくて、私は好きだ。


「そいつには魔術をかけておいた。少しずつではあるが脂肪をのを助けてくれるだろう。だが、ちょっとじゃじゃ馬でな。体内に蓄積された脂肪が一定量を超えると、お前の腹を突き破る」

「!」


 女性が口許を押さえた。あの薬に入れたものは確かに私が用意したものだけど、「元気な」マンドラゴラを使うと言っていたのはこのためか。腹を突き破るマンドラゴラ。想像すると朝ご飯を戻しそうなのでやめておいた。


「いいか。楽をして痩せる魔術なんてない。魔術は努力をサボるツールじゃないんだ、肝に銘じておけ。そして、お前がもし本当に痩せたいと願うのなら、運動して脂肪を燃やせ。その努力をこの薬は手助けするが、生半可な覚悟ならお前を滅ぼすぞ」


 ヴィンセントは薬瓶の隣に一枚の羊皮紙を置いた。魔術師の契約書だ。ヴィンセントは薬を販売するときに売買契約を書面で交わしている。


「覚悟があるなら契約書にサインを。痩せたいというのが寝言なら、このまま踵を返すがいい」


 女性は一分ほど契約書を見つめたのち、震える手で羽ペンを手に取った。深呼吸をしたあとは一思いに流れる文字を綴っていく。

「アニエス・サリンジャー」と。


 ***


 ヴィンセントの魔術には私とのキスが必要だ。


 それは彼の扱う魔術すべてというわけではない。簡単なレベルのものなら呪文なしで手品みたいにこなしてしまう。じゃあ大掛かりなものが対象かというとそうでもないらしい。私には詳しいことを教えてくれないからわからない。


 でも、私が知っている確かなことは、私のキスがヴィンセントの魔術を助けているということ。

 別にそこに理屈なんて要らない気がした。ヴィンセントを大好きな私が、大好きなヴィンセントとキスできるんだから。これはもう「愛のちから」と言うほかない。

 と言ったら「妄言も程々にしておけよ」と小突かれた。もっと素直になってくれてもいいのに。


「ねえヴィンセント」

「なんだ。気持ち悪い猫なで声を出すな」

「私たち、睦まじい間柄なんだから、もっと先のステップに進んでもいいと思わない?」

「馬鹿も休み休み言え。俺とお前は師匠と弟子、魔術のためのパートナーに過ぎん。邪な感情を持ち込むな」

「ヴィンセントはツンデレなんだから。そんなところも好きだけど」

「頭にマンドラゴラでも沸いたかこのお花畑女が!」


 深い深い森の奥、そこにはある男の工房がある。

 これは天才魔術師と謳われた男と、彼を愛する薬師見習いのお話。

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